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この裁判を私は弁護士さんに委任することなく行いました。当初、次々と10人近くの弁護士さんに委任依頼のお話ししたのですが、引きうけて下さる方がなかなか現れず、そうこうするうち、訴状を期限内に作成提出する必要からついに途中であきらめざるをえませんでした。こうして裁判をはじめたのですが(このような裁判を「本人訴訟」というようです)、これは私にとって予想外の展開でした。行政裁判を引き受ける弁護士さんを見つけることが、弁護士の多いこの東京でさえかくも困難であるということは、これが東京以外の地域ではほとんど不可能に近いということでしょう。
もし弁護士さんを見付けられないという理由だけで、起こされるべき行政訴訟が起こされずに終わるとしたら、法治国家としてゆゆしき事態であり、まことに情けないはなしです。(5名の弁護士を揃えた荒川区の側をみると、弁護士不足の問題ではなさそうですが)

この裁判では、情報開示請求によって原告が事前にさまざまの資料を行政側から入手する必要があり、これを以前から始めていたために、結果としてなんとかやり通すことができました。この過程がなければ本人訴訟はできなかったでしょう。しかし見方を変えれば、このような準備作業さえしておけば、私のように法律の知識をほとんど持たないドシロウトでも、なんとか訴状を書き上げ、行政訴訟をおこすことは十分できるのです。六法全書に通じている必要はもちろんなく、必要な法律だけをおさえれば良いのです。(それは何か、が問題なのですが)

行政訴訟において最も重要なことは、その訴訟趣旨が客観的にみて、社会的公正、社会的利益や社会正義の基準を満たしているか否かというこでしょう。もし原告がその確信をもつことができれば、弁護士への委任可否は提訴行為全体において最重要の要件ではないと思います。もちろん金銭的な負担も大幅に軽減されます。本人訴訟で行政裁判をおこすことは、決してそれほど困難なことではないというのが率直な感想です。(本人訴訟をアシストする法律専門家のNPOがあれば、大変にすばらしいことではないかとも思いますが。)
なお裁判手続きや法律に関する不明なことについて、私は弁護士会が設けている有料の法律相談を何回か利用しましたが、これにも助けられました。(30分5000円でした)

 判決を受けて 3  状況としての権力

 
冒頭から外国の思想家の言葉を引用することを、お許しいただきたいのですが、フランスの哲学者ミシェル・フーコー(1926-1984)はあるところで権力について、次のように書いています。(1)

  「権力とは、一つの制度でもなく、一つの構造でもない、ある種の人々が持っているある種の力
   でもない。 それは特定の社会において、錯綜した戦略的状況に与えられる名称なのである。」
  
わたしにはフーコーの思想を論じる能力は全くなく、そのつもりもありませんが、上記の言葉は従来われわれが権力について抱いていたイメージを覆す、覚醒的な視角ではないでしょうか。少なくともわたしはそれまで権力を、ある特定の人間集団やその長が、ある領域で掌握する強制執行力や他者に及ぼす影響力などとして理解していましたが、ここではそのような個別的、単体的な概念としては理解されていません。権力は集団であれ個人であれ、特定の主体に帰属する力としてあるばかりではなく、さまざまな主体の間で、それらの相互作用や錯綜した関わり合いなどを通して生み出されてゆく状況としてもあるのだ、その戦略的な状況こそ、その状況であることにおいて権力にほかならないのだ、ということでしょう。(2)
権力概念をめぐるフーコーの思考射程は、狭義の政治的な局面を超えて、多様な問題分野に及びますが、すぐれた思考が常にそうであるように、さまざまな読み方を読み手に許し、その思考を刺激します。(権力についてのフーコーの思想を、この一文だけに負わせることことができないのはいうまでもありません。)

ここで権力という概念を、行政府、立法府、司法府によって担われ、おのおのにおいて分権的に執行されているところの統治戦略状況と解釈した上で、フーコーの言葉を国保保険料をめぐる原告の訴訟趣旨に引きつけて読み解くと、法と法の関係状況および、機関と機関の関係状況において、さらには処分、解釈、判決などを媒介したそれらの交錯状況において、権力の戦略性が網の目のように浮上します。この裁判に集結された法令や制度処分、関連機関が表明した思考と見解を、ひっくるめて“錯綜した戦略的状況”として眺めることは、公課格差を生み出しかつこれを固定化する状況構造を、一種の力学的布置として俯瞰する視点を与えます。もちろんこのようなものの見方は必ずしもオーソドックスな法律議論とはなじまないでしょう。しかしそのような見かたによってはじめて把握できる権力状況および法的状況があるのではないでしょうか。権力がこの訴訟問題、さらには社会的磁場としてのこの訴訟裁判そのものにおいてさえ状況的に働き、作用しているとすれば、まさにその状況という動的状態において権力を捕捉するということが、- どこまで迫れるかは別にして- 原告にとって重要な課題であるようにも思われるのです。そのような視角を持たずに、単に法廷闘争の内部に意識滞留することは、まさに状況としての権力の手中にとどまることであり、権力を補強する結果にもなりかねないという予感さえあります。状況という視角からこの裁判を振り返ることは、戦略状況としての権力の実態を透視図のように観察することで、国家機関としての司法府の制度規範的な在り方を具体的、客観的に考えさせるきっかけになるかもしれません。

話は変わりますが、何年も前にいわゆる年金問題(未払い問題等)が社会の耳目を集めた際、ある社会保障の専門家がいみじくも、わが国には公的年金制度を完全に理解しているお役人は一人もいないであろうと話すのを聞いて、さもありなんと思いました。もちろん理解できない理由は、行政が細則を重ねた挙句に制度があまりに錯綜と化したからですが、この錯綜性が一体どこまで自覚的なものであったかは別としても、この話の滑稽さには寓話性さえ感じられます。(あるいは、無意識の戦略性というものは考えられないでしょうか。)
しかし滑稽とはいえ、現実にこのような制度状況をまえにしては、一般のひとはほとんど何も自信をもって発言できないでしょう。そしてこの訴訟における状況の錯綜性はといえば、この話のそれと全く同種ではないとしても、より扱いやすいわけでもありません。保険料処分をめぐる統治的権力との対峙において、その錯綜とした戦略的状況を包括的に総体として認識することは、単に法や制度における諸関係を事実的に確認することだけでも煩雑な作業です。しかもそれらは可変的であり、自己修正能力、状況への対応力をもちます。錯綜としていること自体が明らかに戦略であり、状況的であるゆえに、主体としての権力を見定めること、問題の根本原因の見極めさえ困難です。しかし視界を可能な限り拡げ、つとめて全体的思考の視点を保持しなければ、一つの問題だけを追及していっても残余の論点から反撃されたり、逃げ道を用意されたりします。というのもまさにそれが戦略の戦略たる所以だからです。
(いうまでもなく、権力は権力であるがゆえに悪であると決めつけることはできません。権力そのものは善でも悪でもありません。また権力が存在しなければ、私たちの社会共同体を維持構成することもできないでしょう。と同時に、公的権力について言えば、この権力は最低限の責務として、一部の国民を差別的に取り扱ったり、それを法的に認証すべきではないでしょう。そのような公権力は国民に刃を向ける権力です。)

さて戦略的状況という視点を採用するとしても、この言葉を無定見に振り回すことは戦略的ではありません。そこで“戦略的状況”を大きく二つの意味水準で区分したいと思います。一つ目はこの裁判における法規範的事実、事態という水準で捉えられる戦略状況です。それらは国民皆保険制度、根拠法、租税規範など、いずれもそれ自体が規範性や価値性を帯びたものですが、例えば皆保険制度という社会保障制度は、国がある政策理念を実現するために制定した制度として、ある戦略性を備えています。国保や共済制度も同様です。したがってこれらの制度事実は、法としての事実水準において社会的な方向性や価値性を帯びた戦略状況を構成します。原告の視点からみれば、これらは所与の戦略状況として、すでに制度存在するものであり、またそれぞれがひとつの権力状況事実としてとらえることもできるわけです。留意すべきはこれら価値性を帯びた、理念志向的な法規範をそのあるがままの事実において、価値中立的に了解するということです。

二つ目の意味水準はこれらの法規範事実に基づいて、行政庁によって行われる裁量性を帯びた処分行為や、司法府によるその解釈、評価、判断、判決など、一つ目の戦略状況の意味的な読み取りや解釈によって成立する、解釈水準における統治的戦略状況です。それらは複合的に組み合わされて、さらにまた別の状況を構築することもあります。この解釈水準における戦略状況を、法規範事実的な戦略状況とは区別することにします。もちろん両者は現実に起動、展開する制度事象においては一体的に現れることもしばしばです。ただし制度事象を対象化して論じる際には、たとえ両者の関係性や境界線の解釈について複数の解釈があるとしても、二つの意味水準は弁別されて意識化される必要があります。法規範的事実とその解釈の無批判的、なし崩し的な相互乗り入れや同一視を承認することが、常に国民、被治者の諸権利を確保するという保障はないからです。

以上をふまえて戦略的状況としての権力という視点から、国保保険者が帰属する共済組合を統べる共済法と、国保被保険者に適用される国保法の関係を二つの水準で整理してみます。
そうすると、これらの制度は皆保険制度という同一の法源を共有しながらも、それぞれは独立した別個の法であるがゆえに、保険給付においては、共通、平等の給付権利を付与する一方、権利の裏面として課せられる公課義務においては、相互制約することなく乖離的な負担を課しているのでした。この権利における公平性と義務における不平等という制度間のねじれは、これら根拠法の分離的な制定状況に由来するとされるものですが、それぞれの法に違法性はなく、その内側から各公課処分を単独的に見る限り、そこになんらの法的問題もないわけです。 しかも各根拠法は分離しているだけでなく、公課賦課の規定方法を、おのおのその専管的な行政手続き上の規定において定めるばかりなので、根拠法の比較からだけでは、公課格差は導出されません。したがって根拠法が違法であるとは言えないし、違法でない法律の関係に違法性もありません。他方、根拠法が違法でないならば根拠法から生じる負担格差も違法ではないであろうという反論が予想されることで、一種のダブルバインド的な拘束状況 - 根拠法が違法であるとはいえず、他方、根拠法が正しいから格差は正しいともいえない - が形成されているわけです。

いずれにせよ公課格差を生み出し、これを社会制度上に今日まで存続させてきた主なる要因は、これらの根拠法が公課規定を含めて分離的に制定されているという事実、その分離制定性に求められていると一応は了解できます。これら制定法の分離的関係性こそが、事実的戦略状況として行政府にあっては保険料処分執行の、司法府にあっては判決宣言のそれぞれで、負担格差を正当化する根拠としてそれぞれ法解釈されていたわけです。(後年施行される国保政令はこの根拠法には含めませんが、これについては後でふれます。)

しかしこの分離制定性の事実水準における戦略的な意味とは一体何でしょうか。それは事実水準においてどのように客観的に解釈されるべきでしょうか。これら根拠法の分離制定状況はたしかにそれ自体が一つの戦略的状況です。しかしそれはなによりも、国民皆保険制度が導入施行されていく過程の歴史性を帯びた成立史的戦略性であって、そのような歴史性や社会経済的な痕跡、制約性はいかなる社会制度にも付随するものです。それらを社会制度から完全に排除することはできないし、排除することが常に正しいわけでもありません。いかなる社会制度も理念のみによって成立することはできず、歴史過程における諸々の社会制約条件の下でのみはじめて成立可能だからです。皆保険制度においては、ひとつにはその漸進的法整備の歴史が、国保保険者と被保険者の両者に対して、それぞれ分離した適用法を年次を別にして割り当てたということであり、そしてそれだけのことです。(国民健康保険法は昭和34年1月に、地方公務員共済組合法は旧法が昭和29年、現行法は昭和37年12月に施行) しかしこのような共済、国保の分離性 - 年次においても立法統制の枠組みにおいても -  にもかかわらず、法源に負う給付権利条件が横断的に同一であるという事実こそが重要なのであり、したがってこの分離制定性という戦略性から直ちに公課負担の格差が規範的に導かれるわけではありません。否、この公課こそが規範的なものであり、この規範性は非歴史的なものでもありますから、公課格差を各制度の歴史性のうちに解消することはできないのです。公課格差は分離的な根拠法が要請する不可避の必然的結果としてとらえるべきではなく、根拠法が支持するわけでもありません。公課負担の水準はときの財政状況に応じて可変的ですから、根拠法におけるその規定が間接的、非定量的な内容にとどまることには十分な合理性があります。しかしだからといって公課の処分専管的な規定をもって、負担格差の法的根拠と解釈することは早計なきめつけであって、法の事実水準における客観的な解釈ではありません。それどころか国保法における賦課徴収の規定のうちに立法者は、立法者の意思として公課の双務的、制度横断的な公平性をその租税的な処分形式をもって担保し、法的に条件付けたと客観的に読み取ることができるのではないでしょうか。なぜなら租税処分そのものがこの処分の一般的な原則として、実質的な双務性を内発的に要請するからです。もっとも立法者の意思を忖度するまでもなく、このように法制定せざるを得なかった点にこそ、公課の本質的性格としての租税規定性がおのずと発現しているともいえます。

それゆえ保険料公課は、根拠法の事実水準においてすでに双務的な規範性を内包しているのであり、この規範性は処分者である保険者との制度事実の均一性が確認されることによって、制度適用されるべきものなのです。他方、二つの根拠法の各公課規定の分離制定性から二つの価値的に分離した公課という結論に進むことは、これら公課の給付権利の均一性や租税性、法源性を度外視することなくしては、すなわちこれら公課の制度規範性を排除せずには決してできません。しかし裁判官は不適切にもこの考慮を怠り、法令内および法令間の規範構造分析を一顧だにすることなく、偏頗な法解釈を採用したのです。

このようにして裁判官が負担格差を、根拠法の分離制定性に帰すべき適法なものであるという法解釈を判決で示したことによって、まちがいなく国保保険者は一寸のやましさもなく心安らかに、堂々と最大で保険者の5倍にも達する過重保険料を被保険者に対して租税処分、滞納処分することが今後もできます。保険者の視点にたてば、よくぞこのような裁判をおこしてくれた、とさえ受けとめられても当然でしょう。しかもこの格差拡大を抑制する、法的な手立ては、この判決に従うかぎり何ひとつないのです!
しかしこの法解釈が正しいとしてでは、根拠法の立法者はこれを潔く引き受けるでしょうか。法源に拠って平等の給付権利を保険者と被保険者に等しく付与した立法者が、一体ここではどのような法的根拠によって、この負担格差を説明するというのでしょうか。裁判官はこの点をどのように法的に理解しているのでしょうか。あるいはそのようなことは本件とは関係がないというのでしょうか。
どれほど消極的な心情からにせよ、法の理路において、二つの同一公課間の応能負担格差をそれら根拠法の専管権規定から引き出すことは、専管権そのものを排他的、片務的、専制的に解釈し、かつ公課の制度横断的均一性と租税性を無視するという解釈操作なくしてはできないことです。そしてもちろんそのような操作は、価値中立的な法解釈ではなく、根拠法と法源を意図的に歪曲し、立法理念をき損する作為的思考といわざるを得ません。制度分離性を荒川区のいうように、あくまでも両公課が別種のものであることの根拠として解釈するならば、この分離性は根拠法の法源に由来する事実水準の戦略性からは離反して、別の戦略的状況のうちに組み込まれ、解釈されることになるでしょう。しかし繰り返しますが、意図を持ってある方向に解釈を引き出すことと客観的、公正にあくまでも法に則して解釈することは全く別のことなのです。

さて上にも述べたように裁判所は、公課格差の根拠を法の分離制定性、わけても各公課の専管的制定権に求めたわけですが、そこにおいては原告が訴える重要な事実が考慮されていません。それは根拠法における分離制定状況とは別に、保険者区長と被保険者が法源の視点からみて同一の制度存在者であるという事実、両者が租税原則における人的要件として同一関係にある、という事実です。根拠法における分離制定性を認めたうえでもこれらの事実をそこに重ね、さらに法に基づく保険者の被保険者への租税処分執行関係を重ね合わせれば、公課の負担格差はもはや単純な事象的問題ではなく、平等原則に関わる法規範問題になります。根拠法の表面上の分離制定性にもかかわらず、二つの公課はここに双務的な規範関係で結ばれるからです。根拠法の法文の照合では分離的にしか捉えきれなかった関係性が、現実の保険料処分という事実関係との照合によって新たな法的意味を獲得し、この分離的法解釈そのものを拘束し方向性を与えるからです。しかし判決はきわめて重要なこの事実関係の審理作業を完全に怠り、そのかわり単なる分離的制定性という一つの事実で判決を方向づけ、もって公課格差を承認したのです。
それゆえ判決が、原告が訴える公課格差違憲根拠としての事実の均一性を審理排除したことは、極めて確信的に選びとられた司法判断とみなさざるを得ません。その審理選択は司法府の戦略的な選択なのです。ではこの審理選択と、事実としての法分離制定性の関係は、原告の立場からどのように評価できるでしょうか。その戦略的な意味は一体どのようなものでしょうか。

裁判所がなぜ国保、共済根拠法の分離的制定性にかくも固執したのかといえば、考えられる理由はひとつしかありません。それは原告が一貫して主張し続けた、保険者と被保険者の両者を貫く制度事実の均一性という、何人も否定しようのない客観事実に向き合うことを避けるためです。
原告によって実証された同一法源を根拠とする制度事実の均一性を荒川区、裁判所が客観的に反証できないとすれば、なんらかの事由をもって、この審理課題そのものを回避する以外に選択はありません。なぜなら反証の見込みもないままに、しかも現行の保険料公課が著しい応能負担格差をもたらしていることが証拠提出されている状況下で、もしこの制度事実の均一性という審理課題に踏み込んでしまえば、この公課格差にいかなる意味においても法的正当性を見出し続けることは事実上不可能だからです。それゆえ裁判所は国保、共済が制度の社会的表出として分離形態をとっている事実、とりわけ各公課保険料の分離的な法制定様態を拠り所として、あたかもこの分離性を盾のようにみなすことで、制度事実の均一性という事象そのものを、審理過程から排除、放擲したのです。
と同時にこの戦略はまた、この表面的な分離制定性それ自体を戦略的に保護するためでもあります。
もし裁判所が事実の均一性を正面から取り上げ、審理の結果これを確認したとすれば、裁判所は直ちにこの制度均一性の確認が要請する二つの公課間の公平性という審理課題と、分離的に制定されている各公課の専管、専決権的規定の拘束力を、どのように法的に整合させるかあるいはさせないかという難問題に直面します。制度事実の均一性をひとたび承認すれば、公課専管、専決規定を理由にして、両公課の公平性という課題を棚上げすることはもはやできないからです。そうするともし裁判所が、このような難問題を回避しようとするならば、そして専管、専決規定を理由にしつつ回避しようとするならば、裁判所ははじめからこの問題に指一本触れることはできません。
つまり事実の均一性という課題を審理俎上に載せてはならないという要請と、審理ツールとしての制度分離制定性を徹頭徹尾まもるという要請、このメダルの表裏をなす審理戦略のために、裁判所は各根拠法における、公課専管、専決権規定をもって原保険料処分の正当性を認め、原告の訴えを斥けたのです。しかしいやしくも国家統治権力の一翼を代表構成する司法行為において、訴訟物の基礎的な制度事実の確認を怠るということは、もはや裁判の名にも値しない言語道断の不作為です!
行政事件裁判における争訴制度事実の認識、同定から審判にいたる審理過程は、これを現実の行政処分及び法令、法源のすべての次元で重層的、多角的に遺漏なく実施しなければならないものです。しかるに判決の審理は、必須要件である制度事実の照応関係をみることなく、根拠法のある特定の条令をまさに“専決的”、“専管的”に解釈し、この視野限定された視点から、原処分を追認する判決解釈を作為的に引きだしたのです。このような専管権規定の専管権的解釈のうちにこそ、司法府の戦略性と裁判官の法的エートスが鮮明に露呈しているといえるでしょう。

ただしこの司法戦略思考について最も深刻な問題は、単に裁判官が法の理路を踏みはずしているということではありません。より憂慮すべきは、裁判官が原告の訴訟趣旨を踏まえ、この審理局面において、選択の余地なく考慮しなければならない憲法原則上の要請を思考の圏外に置いているということです。それは行政権力によって一方的に租税処分を受ける国保被保険者の人権、とりわけ平等権という基本的人権がこの処分において、この処分を包括的に拘束し規定する法的状況、社会制度状況において適切に配慮され、き損なくまもられているかどうか、保障されているかどうかという設問です。
(1) ミシェル・フーコー 『知への意志』 渡辺守章訳 新潮社 1986年刊 p120

(2)“状況としての権力”、という視点を含みつつ、権力をより包括的にとらえた考察として、
   丸山眞男の以下の文を引用する。
「権力を人間あるいは人間集団が『所有』するものと見る立場、すなわち具体的な権力行使の諸様態の背後にいわば一定不変の権力そのものという実体があるという考え方を、実体概念としての権力と呼ぶならば、これに対して、権力を具体的な状況における人間(あるいは集団)の相互作用関係において捉える考え方を、関係概念あるいは函数概念としての権力と呼び得る。これまで権力についての思想家や学者の定義はこのいずれかに傾斜して来たことは確かであるが、それらを純粋に右の両者のカテゴリーに分類することは困難である。 (中略)  むしろわれわれにとって重要なことは、抽象的にその二つの考え方の是非をきめて一方に『加担』することではなくて、実体概念なり関係概念なりから、権力現象の把握についてそれぞれどのような思考法上の特色ないしは傾向性が生じるか、また歴史的にどのような政治的イデオロギーと結びついてきたか、ということを実例に基いて調査することであろう。そうすればそれぞれの把握の長所と欠点が明らかになり、具体的な状況に応じ、分析のために相対的に有効な方法を操作しながら、そこから生じやすいイデオロギー的帰結に対しても醒めた認識をもって対処することが可能になる。」
丸山眞男 「政治権力の諸問題」より、 『現代政治の思想と行動』 未来社 1964 なお 『政治の世界』 岩波文庫 2014にも所収

(この貢続く)                                 2011年  8月8日  西秀樹




この一冊 3

初版は1980年ですが、長らく絶版が続いて入手は困難でした。 しかし最近になって復刊されたようです。

谷内こうた 絵   内藤初穂 文
「つきと あそぼう」 至光社