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「『そんなものだ』を変える」、という題で朝日新聞の司法社説担当の女性記者が書いたコラムを以前に読みました。 書きだしはこうです。 (2013年5月16日付朝刊)
「大好きだった給食には苦い思いもある。
私が通っていた富山市の中学校では、青いロゴの袋入りの食パンが男子用で、赤いロゴの女子用よりぶ厚
かった。コッペパンにも大小があった。そんなものだ、と思っていた。」
このような男子用と女子用の間のパンの格差は、この記者によると2003年に廃止されるまで、28年間続いたそうです。ただし、そのように長く続いたからといって、これらの学校が女生徒を故意に“差別”していたというふうに決めつけたくはありません。そうではなく、これは性差についての何らかの思い込みが学校側にあり、その考えに頑なに固執していたことが主な理由であると思いたいものです。しかしたとえそうであったとしても、おそらくは人生のうちでもっとも旺盛な食欲を発揮するこの思春期で、一体どれほどの性差が食欲や必要カロリーにあるのかという疑問は残ります。はたして生徒らが学校で消費するエネルギーに男女差などあるのでしょうか。それに確かこの年代では、精神の成熟速度はもちろんのこと、身体の発達と成熟速度も女子が男子を上回っているはずです。性別に関係なく、むしろ小柄な生徒こそたくさん食べる必要がある、という考え方だってあるでしょう。(親だったら子供を普通そう見ます。)
仮になんらかの性差がそこにあるとしても、― その差を実感することのできる人間がどこかにいるのでしょうか ― それを根拠にして、食べ物という人間存在にとっての基本的必要物資で“区別”を設けるのは社会行為として疑問です。性差という事実を認めたその上で、区別なく男女平等にパンを供することこそ、学校給食という公の場で教師の遂行すべき社会的判断であり責任でしょう。コッぺパンの大小にどれほどの違いあったのか、まさか倍ほどではないでしょうが、その差の程度がどうあれ、徒に自尊心を傷つけるだけの心ない無意味な所業に思われます。しかし自尊の心を育むこと、つまり性を含め自分自身であるということを積極的に受け入れ、自分のあり方を心から大切にすることが、一個人としての人格、自我を内側から力強く支えるのであり、そのような自然の心性が将来にわたって人生を切り開き、強く生き抜いてゆくことを励まし助けもするのです。その涵養を大人たちは軽んじたり阻害してはなりません。
つまりここでの論点は、性差があるかないかではなく、性的にとらえるという思考の枠組みそのものを適用すべきかどうかということです。というのも、その枠組みそれ自体の社会的、人間的、教育的な意味性や含意性を考えれば、仮に性差を認めたとしても、そこからパンの格差という結論には必ずしも直ちに至らないからです。給食にはまた、精神的、心理的な行為側面もあるのです。(給食におけるこのような小さめのパンの選択行為は、「女生徒は小食であれ」という公式的なメッセージの発信でもあります。このことが契機で、そのような考え方を女生徒が自らのうちに価値内面化して取り込んでゆくことは、そしてその教育的刷りこみ効果は、- 男子生徒を含め
- わずかであれ避けられないことでしょう。)
したがってこれは、生徒たちの身体の問題ではなく、教育者たちの精神の問題です。学校給食という制度事業を公共的な社会行為という概念枠組みにおいて俯瞰的、客観的にとらえることができているのか、という社会人としての認識能力の問題であり、給食内容における区別行為の意味やその心理影響を、学校生活における生徒の全人格的なことがらとして意識対象化できているのか、という教育者としての包括的な思考力の問題、教育者としての深い精神性の有無の問題、そして幾分かはおそらく、生徒たちへの愛情の問題です。そんなものがあるとして、区別することで実現される価値、目的と、確実に失われる何かを比較、考量することによってです。もっともこれらについて、今になってあれこれ言うことは簡単です。最も重要で困難なことは、これを実施しているまさにその最中に彼らがどのように考え、どのように気付くかということでしょう。といってそこで、女生徒の口からパンの大きさを同じにしてほしいと切り出すことを期待するのは、「乙女の心理」としても無理な要求でしょう。それだけに、「苦い思い」という言葉がせつなく響きます。同記者は続けてこう述べます。
「考えさせられたのは、いかに現状が私たちの価値観をつくっているか ということだ。」
現状が現状を肯定し、現状を支持するということでしょうか。あるいは或る社会的な行為や制度が事実としてあること、その事実性が社会的権威性に転化するということでしょうか。私たちは公私を問わず、いったんものごとが決まりそれが固定化すると、もはや現状に疑問を抱くことを止め、周囲にも流されて、考えることさえ自制してしまう傾向にあるのかもしれません。このように書いている私だって、その渦中にいれば十中八九、何もできなかったかもしれません。実際、世の中の多くのことは、自分ひとりの力ではどうにもならないことがほとんどでしょう。そのような場合に、その状況をむしろ正当化し、“合理化”してしまう自己の心理作用や世の大勢に抗うことは口でいうほどたやすくはないでしょう。そしてそうであればこそ、「そんなものだ」という自身の同調的な姿勢に気付くことは、その状況を主体的に揺さぶり、主体的に掌握してゆくことを可能にする重要な契機となります。そのようにして主体的に自由に考えること、そしてたとえ何かが過ぎ去ってしまった後でも、簡単に忘れたり水に流すことなく、徹底的に考え、こだわり続けることは、それだけでも十分に意味のある行為です。この世の中では、何かの問題をほっぱらかしにしておいても自然に改善したり、いつのまにか解決してまうなどということはほとんど起こらないのですから。そして何かを振り返って見つめなおしたり、疑問を抱くことからすべては始まるのですから。
いうまでもなく、「そんなものだ」は東京都にもあります。その一例を言いましょう。
それは、東京都が23区の特別区行政制度を今なお敷き続けているということについてです。この制度はもちろん導入の当初においては、少なくとも現在以上にそれなりの合理的な理由があったのでしょう。しかし情報・通信や交通手段などのインフラが著しく発達した今日、人口が密集し、さして広域ともいえないこの区部地域を、わざわざ細密に分化して行政を行うことは、行政組織をいたずらに肥大化させることであり、そしてなによりも、高度化した産業経済社会の趨勢に逆らって行政を“労働集約化する”ことに他なりません。つまり30年前の中国の工場のように、ひたすら人手をかけて仕事をするということです。(地理的偶然ですが、車を使えば私の住まいから荒川、足立、台東、墨田の4区役所すべてに20分以内で確実に行けます。)
具体例を出すと、都庁の職員は別にして、23区の区役所の国保年金課だけで1000人程度の職員が現在その任にあたっているはずです。(都内で4番目に人口の少ない荒川区でも同課に53名が在職中なので) 加えて、非正規の職員も別に各区で雇用されています。しかし民間の企業であれば、23区の1000人分の仕事を、当然のようにその何分の一かの人員で滞りなく業務遂行することでしょう。しかも職員だけではありません。23の区の議会とその議員、事務局などのコストも莫大なものです。全体として一体どれだけ無駄な行政コストを都民は負担させられているのか、さまざまの事業に振り向けられたはずの“機会費用”が財源としてどれだけ埋もれているのか、この問いに答えることはだれにもできないでしょう。(荒川、足立、台東、墨田の4つの区議会だけで議員の数は151名にのぼる。)
余談ですが、かつて荒川区の一角、隅田川沿いの公有地に広大な緑地帯が残されていました。しかしかれこれ10年以上前に大規模な開発工事が施され、あたり一帯は今や都内でも有数の集合住宅地帯へと変貌しました。もちろん、この宅地造成で供給された一部の公営住宅は公益にかなうものであるし、人口が飛躍的に増えて歳入(税収)が強化された荒川区にとっては慶賀すべきことでしょう。広い公園が確保されていることも言うべきでしょう。が、手放しに喜ばしいこととも思われません。例えば、東京全体の視点からみれば、林立する超高層ビルの出現は、そばを流れる隅田川の川風などもさえぎり、ヒートアイランド化を確実に進めたはずです。(同地区の車道がひび割れてアスファルトが溶け出しているのを真夏に見たこともあります。) なにより、なぜ“地域の再開発”が直ちにマンション群と商業施設の抱き合わせ建設になってしまうのか、その発想はあまりにも“ディベロッパー的”であり、投げやりな感じさえ受けます。(しかも広大な住宅地区に満足な図書館一つありません。知性の片鱗も感じさせない街づくりです。) 判断の猶予を含め、もっと多様な視点からの熟慮、超高層住宅の集中林立を避けることについての検討もあるべきではなかったか、と思われるのです。それに都であれ区であれ行政が今なお、もっぱら住民人口を増やすという動機の上に都市計画を策定し続けるならば、もはや時代錯誤というべきです。
つまりこの開発事例から私は、細分化された行政単位そのものが、細分化のゆえにもたらされる末端行政運営上の動機や制約性に引きずられることで、ある行政地区を東京全体のなかで俯瞰的にとらえたときにはじめて浮上してくる広域視点的な構想案や自然環境的な恩恵に対し、一種の社会利益相反的(利益対立的)な抑止効果を及ぼすことすらあるのではないか、と感じたのです。23という小単位での行政論理、判断が、都市像についての巨視的、包括的な、時間的にも空間的にも射程の大きな構想ビジョンを困難にしているのではないでしょうか。全体都市としての美的調和性や潤いのある都市空間という視点から、後世の同胞に何がどう遺されてゆくのか、と顧みて考えるとき、現在の東京都は、行政機構それ自体に原因するさまざまな理由のために、むしろをそれらをひたすら消去させつつあるようにさえみえます。(とすると区の財政も独立採算制ではなく、都区全体の“連結決算”方式で行うべきかもしれませんが。)
さてしかし、― 本論に戻ると、東京都庁のもとに、現在の区役所が末端行政として担う役割や働きをそっくりと認め、それらすべての機能維持を期しつつ、行政にとっても住民にとってもさしたる不都合、不便を生じさせることなく、その数を大きく縮減することは十分に可能です。このことは、東京都の23区と同規模の架空の都市を想定して考えてみれば明らかです。つまり、この想像上の都市全体が達成すべき行政事業目的と、その上限予算を厳格に定めた上で、「適切な行政管轄の区割り規模を考えて、自由に策定する」、という課題を設定するのです。そうするとこの課題においては、区割りの数を決める策定者の判断に連動して、域内の行政間接コスト全般も変動するわけですが、それは必然的にこの上限予算内で実施される事業全体のあり方や、規模、その費用対効果などにも波及作用を及ぼします。ではそこで、その都市の域内を23地区に分割して線引きしようとする人はいるでしょうか。おそらく一人もいないでしょう。なぜなら、必要な公共的社会機能(福祉保健、教育、図書館、各種の相談所など)の拠点さえ確保されるなら、10区以内での線引きでさえ、住民にとっての利便性は23区制と比べて大きく変わることはなく、しかもそうやって削減できた行政間接コストを事業費の内容そのものに振り向けることで、住民への便益や福利に貢献する施策それ自体を、質量ともに23区制に比べて格段に拡充し強化できるからです。
もちろんここにいう行政コストの削減とは、あくまでも間接コストのことであり、例えば公的な保育、介護事業などを担う末端の労働者の賃金をカットしたり、公共事業の工事費をひたすら切り下げてゆくような、そういった弱い者いじめ的な削減ではありません。そうではなく、23区制が生み出す適理性の低い、過剰な行政間接コストを削ることで、これらの人々に対する適切な生活給、生存給としての労働報酬を実現し、拡充するための財源、原資を確保することもできるのです。そしてそのことは、結果として都民の福利に直接貢献することでもありましょう。
ではこれを仮定の話ではなく、現在の東京都で実際に行えばどうなるでしょう。もしこれを10区として実現できれば、どれほど控え目に言っても一千億円をはるかに超える行政コスト、すなわち行政間接費、管理費を縮減することが容易に達成可能でしょう。10年間では、一兆円、二兆円も決して夢ではありません。この数字は衝撃的ですが、23区の会計報告書を分析すれば、中学生にだって難なく分かることです。まじめな話、社会科の授業でぜひこの研究調査に取り組んでみると良いでしょう。現在は未成年であっても彼ら、彼女らには、この問題について考え、社会に向かって発言する権利が十二分あるはずです。*
もし都民の側にさしたる不都合もなく、それだけの財源を納税者の負担なく生み出すことができるのであれば、何が減区の実現を阻むのでしょう。第一に、そして皮肉にも、東京都の歳入がきわめて大きく、強固な財政基盤を持っているために、23もの行政区を財政的に支えることが可能であるということが挙げられます。つまり、行政コストを抑制するために必要な強い内発的な動機が生まれにくく、現状が強く固定化されるのです。しかし勘違いしてはいけません。東京都の歳入規模が大きいのは(東京都の人口は20年連続して転入超過です。もはや、新築マンションの総量規制、オフィスビルの床面積規制さえ必要ではないのか)、一地方自治体としての東京都の手柄でもなんでもなく、− 無論、知事や職員の働きによるものでもなく − 国の首都としての地政的条件や国富の投下、都市の文化、歴史的背景に多くを負うものです。それゆえ、東京都がどれほど財政に恵まれているとしても、− 「総務省によると、地方税の人口1人当たりの税収額は、東京都と他道府県の格差が最大2.4倍で、地方法人二税(法人住民税、法人事業税)でみると同6倍の開きがある。」(朝日新聞 2018年10月17日) − そのことに関わりなく行政規模、行政コストの最適化という住民要請は、納税者および行政主権者の名において厳正に追求されなければなりません。経済都市としての東京が非常に豊かであることは良いことですが、だからといってそのことは、行政機関としての東京都が、特権的な財政恩恵の上に胡坐をかいて放逸な支出行為を行うことを許すものではありません。支出すべきコストであるかどうかという問題を、支出可能なコストであるかどうかという基準で判断してはならないのです。そしてそう考えれば、都民の視点からみて、一都市としての東京都が、23区制に固執し続けることを支持する公共的な理由や根拠は今やほとんどないでしょう。むろん、23の区分それ自体が自己目的的に尊重される、ということは容認されることではありません。
二番目の理由は、都民の多くがこの23区制度を「そんなものだ」とみなしているからでしょう。しかしそうして何ら疑問を抱くこともなく、達観を装っても、その代価はしっかりと支払わされているのです。例えば住民税です。現行の税率、つまり課税所得金額の10%でも十分に高い水準ですが(区民税6% + 都民税4%)、むろんこの税率は区役所の数、区役所の職員数と無関係ではありません。
それに、現行の住民税率を受け入れたとしても、財政を支える住民人口は確実に高齢化し、少子化の傾向も止まないでしょう。社会保障費は言うに及ばず、老朽化した都市インフラの保全や、更新、災害への備えなど、財政への要請はいや増しに増すばかりです。こうしたなか、23区制のもとで今後この税がさらに12%、15%へと改変されていっても、「そんなものだ」と言い続けるのでしょうか。あるいは財政難を理由に “行政サービス”の削減を突きつけられても、素直に受け入れるのでしょうか。そうなると、まるで社会組織としての区役所が、公共的社会的機能としての行政機能を人質にとって、あくまでも23区制での組織体制を墨守するような図絵にも見えてきます。そこでは、なにはさておき“23区制ありき”という大前提を据え置いて、その構図の下に行政(施策)と都民の関係性がとらえられ、規定されているからです。しかしそのような思考は、区役所という社会制度が、23区制としての自己組織のあり方を、都民の福利を差し置いて優先尊重することに他ならず、区役所とはそもそもなんのためにあるのかという、本来の公共的存立理由を置き去りにしています。
なお、この住民税について付け加えると、10%の固定税率は、年収が300万円でも、3000万円、あるいは3億円でも一律に適用されるので、所得が下がるほど生活を圧迫する度合いが増し、税の実質的な負担は相対的に重くなります《逆進性の問題》。 住民税の税率を、年収の高低に即して変動する累進課税にしないのは、都政のあり方として粗雑かつ怠惰、陋劣であり、多くの都民が共有するであろう社会的バランス感覚や、社会的再分配の視点から見ても極めて不適切な、社会理念なき、“どんぶり勘定的”行政施策です。一律10%にしたのは、簡単で切りがいいからでしょう。しかしそれは同時に、所得上位層 − 都知事、都議、都幹部も、区長、区議、区幹部もそうだ − に対する巧妙な税優遇策、自己優遇策でもあるのです。これが、行政的モラルハザードでなくて一体なんでしょう。品性の卑しい、うすみっともないことです。 東京都は都民の年収の中央値 − およそ350〜450万円くらいか − を基軸にしてこれをきめ細かく再構築し、根本的に改めるべきです。なおその際に、「国民負担率」の指標 − 国民所得に占める包括的租税負担と社会保険料負担の合計割合で、2015年度では約42%になる − も視野に入れると、所得分布の中央値ゾーンでは、課税所得の4〜5%くらいまでを住民税の上限とすべきではないでしょうか。国民としての都民に財布は一つしかなく、このグループへの10%は高率すぎるからです。都民の側に財布は一つしかないのに、国民負担率のあり方を総合統制する社会的、政治的機能がないままで、− しかしそれは必要ではないのか − 東京は東京、国は国で自由勝手に徴税するというのでは、都民はたまりません。そうではなく、国民が適切と考える包括的租税負担能力において地域行政庁の財政需要の上限も決定されるべきなのです。ひとり一人の納税者が、国と「地方」の両方をそれぞれ財政的に支えなければならない以上、憲法の前文にいう国政も、国会や行政府だけではなく、都道府県レベルの地方自治体もそこに含まれるはずです。したがって、国税と地方税の両者は単にそれらの合算結果としてではなく、国民負担としての包括的見地
からそれぞれの賦課水準が相互参照的に決定されるべきなのです。
住民税と行政規模の関係は
ところで、私たちが日本国内に居住し生活する日本国民である限り、私たちは必ずいずれかの地方行政地域にその住民として帰属します。私たちは、「地方」の住民でなく日本国に住むことはできず、東京都もこの意味では地方(地域)のひとつです。(「地方」はここで地理概念ではなく、「中央政府に対する」という意味での行政上の対置概念です。) それゆえ、この地方行政的(地方自治的)住民概念から国民概念を切り離したり、国家性を捨象することはできず、地方税としての住民税も、その本質は“日本国住民税”に他なりません。とすれば、日本国内の特定の場所(地方)に居住することに結び付けられ、根拠づけられた公課が(住民税、水道料金、社会保険料など)、とりわけ生活上の基本的ニーズにかかわるような公課が、地方税や地方公共料金として扱われることで、ときに小さからぬ地域間の格差を地方自治体の間に生み出している状況についても、私たちはこれを国民社会のあり方としてよくよく考える必要があるはずです。その地がどこであれ、日本国民がある「地方」に、ある地方自治体に居住することになんの賞罰もあろうはずはないからです。ただし格差とは、住民負担と行政施策の両面にわたってさまざまであり、では例えば東京都やその区部が、競うように住民への手厚い給付施策をあれこれと打ち出して、地域行政としての独自性を発揮していることについてはどうでしょう。そういう格差なら手放しで礼賛できるのか。(むろん異を唱える地域住民は皆無でしょうが。) 国の財布が一つしかないことを考えれば、公平性の問題だけでなく財政上の問題として、日本国住民税としての歳入が東京都にもたらす豊かな税収は、日本国全体にとっての財源でもありうるからです。であればこそ、東京都の突出した地方自治体歳入が、都政によって地域的財政報償のように利用されてはならないことが自覚されるのであり、そのひとつの論点として、23区制度を存続することの“財政上の必要性根拠”が、国民社会と地方自治体運営のふたつの観点から厳しく問われてくるのです。東京都内が23区でなければならない“行政施策上の必要性根拠”はとうの昔にないからです。市町村合併とは、単に財政逼迫した「地方」の問題ではなく、「地方」の問題に止めるべきでもないのです。(その名目はともかく、東京都が歳入の一部を国庫に拠出したとしても都民の多くは支持するであろうし、都は憲法第94条《地方公共団体の権能規定》に基く財産管理権を盾にしてこれをかたくなに拒むべきではないでしょう。憲法はたぶん、自治体間での今日のような歳入格差を予想してはいなかったであろうから。)
さて住民税も国民負担率としての租税の一部であるわけですが、税負担による国民負担率の決定とは、それによって国家の財政規模(予算規模)の大枠が決定されるということであり、両者はコインの表裏の関係です。だから税について考えることは財政(予算)について考えることに他ならず、コインの裏側を表側から切り離すことができないように、財政(予算)のあり方を論じることなく税のあり方を論じることはできません。税による歳入と財政による歳出とは第一に、国政の基本原理として、それらの収支において均衡調和していなければならないからです。それゆえ国民社会における租税のあり方は、租税それ自身の論理、いわゆる「公平、中立、簡素」という税の三原則だけで包括的に正当化したり、自己完結的に根拠づけることはできないのです。それらの原則は、社会における税のあるべき姿の一面をとらえているに過ぎないからです。税のあり方とは、見るひとの視点や立場がどうあれ、国民生活、国民社会全体のなかでとらえられなければならないし、税が財政のあり方との相互的な作用関係によって根底的に相互制約されていることの認識に基いて、財政と相互照応的に把握されなければならないのです。(これを、“税と財政の国政原理的関係性”と呼びましょう。)もちんその場合に財政のあり方そのものが、国民からみて無規定的、放漫的なものではないことが必須の前提となります。それを許せば結果として、税の賦課も放漫的になるからです。従って、このような両者間の原理的対応関係は、財政の側にも等しく及ぶのであり、国家における財政事業や主要費目の構成もまた、租税(歳入)に対する一定の比率割合で、分を超えることなく、適切に統制されなければならないはずです。なお、“財政が無規定的ではない”ということは、単に財政予算が国会の議決により成立しているという、その事実のみをもって十分に内容保障されるものではありません。財政の規範的規定性とは、財政がこれらの要請に従いつつ、熟議を経て、実体的に統制構築されていることを、そしてそのことを国民が十分に納得して受け入れていることを意味するのです。税と財政のあり方は税は税、財政は財政というように別々にそれ単独で論じることはできず、税を財政の視点から、財政を税の視点からとらえて考察することが重要なのです。
ここで、これらの前提をふまえつつ議論の土俵を拡げると、私たちが国家財政(国家予算)のあり方を考えるさい、その考察の出発点、思考の起点はどこに求めるべきでしょう。そのひとつはおそらく、“個人としての国民が、ひとつしか持たない財布から、住民税や消費税、所得税などさまざまな名目名称の租税や社会保険料を負担して、国家の財政を支えているのだ”、という事実を認識することではないでしょうか。この認識で重要なことは、私たち国民は国家の財政を、いくつかの費目分野に分割した上で皆で分担的に支えているわけではない、ということです。そうではなく、私たちは皆ひとり一人のめいめいが、どこに住んでいようとも、国家の財政をその包括的費用、包括的構造の全体性において全面的に支えているのです。
とすれば国家の財政が、個人の財布や個人の家計からどれほど離れて見えようとも、国家の(マクロ的レベルの)財政情況や財政のあり方は、国民ひとり一人の(ミクロ的立場の)担税情況と、まさにそのミクロ的な視点をとおして結びつき、関係付けることができるのであり、またそのように認識把握されなければなりません。このような対応関係が両者間で成立することは、私たちが税と財政の関係性を主権者としての立場から考察するさいに、たいへん重要な事実です。しかも国民の各人は、国政に対して主権者であることから、そこでの対応関係は、単に各人が財政状況を確認するだけの一方的、受動的な関係性としてではなく、財政に対する能動的な作用関係性としてあるべきです。つまり、国民であり地域の住民でもあるひとり一人の納税者は、中央と地方の両政府を合わせたマクロ的レベルの歳出状況(議会費も含む)と、自分個人のミクロ的な国民負担のあり方とを結びつけて掌握することができなければならず、そこにおいては、納税者のミクロ的視点より発するなんらかの財政統治的な作用関係が断じてあるべきです。それは国民が、国家財政のあり方を、要所要所の予算策定局面で、根底的に方向づけたり、配分統制するための財政構成の枠組み原理、財政統制の指針として関係作用するものです。これは、この統制枠組みによって私たちが一納税者としての立場から、国家の財政状況について最低限の納得や同意に達することができるようになる、そういった枠組であり、また国民負担率のあり方やその適切さの根拠についても、一定の説明原理となるものです。つまり税と財政とは、単に数字の上で収支均衡しているだけでは十分でなく、“どのようなあり方で両者は均衡しているのか”、ということも重要です。というのも、私たちが主権者として租税の国民負担全体を、自らの意思と判断で受け入れられるかどうかは、国政がどのように租税歳入を支出しているのか、どのような配分、どのようなあり方で財政(予算)を構築し、策定しているのか、ということに懸っているからです。(財政支出の半分が防衛費であってはならないでしょう。) 従って、主権原理のもと、国家財政に対するもっとも核心的な問いは、“財政が構築されているそのあり方を、私たち国民は、どのような判断規準において受け入れ、最終統制するのか、統制しうるのか”、ということになります。
国会を中心とする国政(機関)がそこにおいて、一定の実務的な社会機能を果たすことは勿論です。国政は、「国民の厳粛な信託」を受けて、税と財政の両面から国家の運営を委ねられているからです。
と同時に、国民の意思もまた、国政の主権は国民のうちに存するという、“国民と行政(国政)との統治原理的な関係性”において尊重されるべきです。国政としての財政事業は、なによりも国民の福利のためにこそあるのであり、どのような財政のあり方が国民にとってより福利的なものであるのかの判断は、国政に任せきりにするべきではなく、国民が選択するべきことだからです。とすれば、国家の財政を、“あまりにも大きすぎてよく見えず、よくとらえられない”、と決めつけたり理解放棄することは不適切です。事実はその反対で、私たちが財政の基本的な枠組みや骨格像を、自らのミクロ的な視点から、自分自身の問題として主体的に考え選択したときにはじめて、私たちは国家財政の総予算状況を、ひとりの納税者としての立場で把握し、その数値を社会的に意味づけられた数字として受容できるのです。予算の全体が何百兆円であろうとも、私たちはそのようにして、財政全体の基本的なあり方、基本的な構成原理を掌握できなければならないし、このことは役所一般が予算を配分する以前の問題です。
ではなぜこれをいうのか。それは多くの国民にとって、自分たちの納めた租税や社会保険料がいったい何をどのように負担しているのか、ということが今日ほとんど見えず、財政全体が一種“ブラックボックス化”しているために、負担の妥当性を納得することさえ困難となっているからです。もちろん行政活動の広範性や多様性、政府行政予算の巨大さなどによって、この見えにくさはある程度やむを得ぬものです。しかしだからといって私たちは、国民負担としての税一般と歳出構造の関係性を全面的に白紙委任するべきではないし、これを理解し一定の見通しをもつことを、あきらめたり放棄すべきでもありません。上述の国政原理的な関係性と併せて、税と財政の関係性は、これら二つの原理的関係軸から国民自身によって重層的に考察され、かつ統制されなければならないのです。
なぜならこの統制問題は、国民および国民社会に対する行政施策の内容やあり方の問題全般に直接つながるものでもあるからです。一方で、生活実感としての国民負担率は臨界点に近づきつつあるのに、− 貯蓄ゼロの世帯数は、年を追うごとに増加傾向にあります − 政府債務は減るどころか増える一方であること。にもかかわらず、例えば財政全体からとらえたときの公共事業の規模、科学・学術研究への助成金、教育事業への予算割り当てなどの行政施策パフォーマンスが、いずれの国際比較でも下位に位置する成績結果であるということ、これらの事実を国民はどう受け止めたらよいのか。戦後70有余年を経て東京の街はいまだに電柱だらけです。そしてこのことが東京だけの問題ではないし、電柱だけの問題でもないことを、私たちの多くはうすうす感じているのではありませんか。(無電柱化の達成率はパリとロンドンでは100%、台北95%、ソウルでも46%、東京は7%という。だから東京の現状は予算や歳入の不足ではとうてい説明できない。むしろそれは、財政の構造に起因する問題であろう。)
私たちの実感として、行政施策の内容やあり方が国民負担率に比して十分に見合うようなものとして感じられないとすれば、国家財政が巨大で複雑すぎるという理由だけから、その現状を無言のうちに受け入れるべきではないでしょう。つまり問題は、ひとり一人の国民が国や地域の財政を負担しているという単純な事実ではなく、その負担によって国民社会にもたらされる実質的な価値、効用(満足度)や国民への福利のあり方です。そしてこれらの国家財政に対する疑問は、国政の信託原則によって無視されたり、封じられたりしてはなりません。主権者としての国民の務めは、選挙権の行使や国政への委任とともに終わるわけではないからです。
では納税者および主権者としての国民に何ができるのでしょうか。問題の情況を確認するとここでは、税と財政との国政原理的な関係性と、国民と行政(国政)との統治原理的な関係性、という二つの関係軸が交わることによって、国家財政のあり方に関わるひとつの包括的、根源的な課題状況 − 税と財政をどのようなあり方で国民の視点から収支均衡させるのか、− が出現しているのでした。ただし、個人のミクロ的な税負担情況が、国家のマクロ的な財政構造を実体的に統制することができるためには、両者を媒介し、作用関係づけることのできる、なんらかの社会的統制メカニズムの視点と原理が必要です。
そうすると、直ちに思い浮かぶひとつの方法手段として、まず税と財政との国政原理的関係性の視点から、財政支出の中心的固定費である行政間接コストを統制するということが考えられます。これはちょうど、家計における食費や住居費などの基本的支出が、家計収入の水準によってほぼ自動的に決定されるのと同様に、財政支出としての行政間接コストも租税収入の水準に応じてその適切な水準が決定されるべきである、と考えるからです。家計において食費や住居費は必須の支出ですが、それらが自ずと収入の一定割合以下に管理されなければならないように、国家財政における必須予算である行政間接コストにも、自ずと歳入に対する一定の比率、一定の割合があるべきだからです。
しかもこのコストに対する予算管理の厳格化が、行政直接コストに先んじて求められるべきことは、国民と国政の双方にとっても当然のことといえましょう。生活者としての私たちが、借金をしてまで毎月の食費や家賃をまかなうことは通常ないように、− それでは早晩、家計が立ち行かなくなります − 国全体での行政機関の間接運営費用もあくまでも国の収入(歳入)の一定範囲内で、借金(公的債務、公債)に頼ることなく支払われるべきなのです。また、今の日本の財政情況からみても行政固定費の見直しが不可避であるのは、私たち個人が負債を負って家計費を削減する必要に迫られた際に、固定費の見直しを避けては通れないのと同じことです。国政および国政機関としての国家(国民負担によって支えられたものとしての国家)と、国民の基本的な関係原理が今日、国民が国家に奉仕する関係性としてではなく、国家が国民に奉仕する関係性としてある限りにおいて、国政費用としての行政間接コストも、租税公課としての国家歳入に直接関連付けられ、主権者国民の意思によってその枠内で厳格に予算統制されなければならないのです。(なお、行政間接コストの緊縮的な統制が、結果として政府債務の元本返済原資をも生み出してゆくというふうに把握すれば、これは国民への最小負担で財政の健全化に貢献することです。それは現実的で、ひろく国民にも受け入れられるような“減債政策” − 国の借金をその利払いだけではなく、元本ともども包括的に返済削減するための実体的な財政政策 − でもありえるのです。)
(行政間接コストの規定性には複数の見方があるかもしれませんが、その基本は一般企業と同じです。ここではコストの間接性、あるいは直接性について“濃淡の幅”を認めつつ、原則として行政管理事務費(管理事務に関わる人件費や諸経費一般)と定め、範囲の確定は個々の行政機関の特性や業務の実体的な内容に即して決めるものと解します。例えば、区役所の一般職員の人件費(間接労務費)はこれに該当しますが、それは道路課の職員や国保課の職員が、道路の補修や区民の健康診断を行うことはない《行政事業の当該直接労務費ではない》からです。他方、同じく人件費でも、植物防疫所の検査官、消防士、国の統計調査を行う担当職員などの労務費は行政直接コストとなります。理由は明らかでしょう。行政間接コストの確定は国民にとり決して曖昧困難な問題ではなく、そうすべきでもありません。行政事務や事業の外部委託費なども、本来は行政が行うべきもの、担うべきものについては、間接コストに繰り入れるべきでしょう。行政の領域では直接、間接コストの区分はできないという主張は、むろん受け入れられません。財政のあり方を認識し判断する上では、これを直接コストと間接コストに区分し、その間に中仕切りを置くことがどうしても必要なのです。この認識的中仕切りがあってこそ私たちは、財政の状況や構造を客観的に理解しとらえることができるからです。民間企業であれ公共団体であれ、この必要について何の違いもないのです。)
次にいま述べた、包括的な財政収支の均衡性という国政原理からとらえた行政間接コストの上限制約問題に、国民と行政との統治原理的関係性の視点を重ねると、東京都の23区制など、地方自治体の行政運営予算のあり方は、このような視点に基く主権的統制の適用例として最適な事例といえるでしょう。地方自治体の財政情況を、その地域の住民が行政間接コストの予算面で厳格統制することは、税と財政を収支均衡させるという国政原理の要請視点よりみるとき、まさに国民個人のミクロ的担税能力を、財政に対する直接的な統制作用力として適用し、機能させることがふさわしい具体的な事例です。というのも、特定地域のためだけにある行政機関の行政間接コストが、総額として、その地域内の住民各個人の租税負担能力の総和に調和し、この能力と釣り合った合理的水準に抑えられなければならないことは、住民(国民)による行政統制の視点からみて当然のことだからです。したがって、その地がどこであれ、地方レベルの議会、行政組織に関わる組織運営維持費としての行政間接費を、例えば“地域税”としての住民税によってひも付けし、国民の大半が納得し受容できるような“日本国住民税”に対する妥当な比率で、それらの行政組織の間接コストの総額規模を統制することは理にも適い、住民の利益にも適うことです。その際に、個別地域の人口規模や経済力などの特性に応じて、住民税に対する比率は適宜調整されるべきでしょう。ただし、基本的な考え方としては、あくまでも住民税に対する比率であって、外部からの補助金を安易に前提とすべきではありません。また、法人住民税や法人事業税など、他の財源についても、行政間接費用への使途には、適宜なんらかの制約規定が必要でしょう。これは、比較的小さな人口の町や市の財政が、大企業の域内操業などによって突出的に潤うとしても、あるいはその反対に東京都のような大都市の財政が特権的に潤沢であるとしても、行政間接費用のあり方に関しては、なんらかの縛りがそこに必要だからです。( そうすることで地域住民の行政に対する納得性や、行政間接コストの透明性も向上するのですから、このような考えに基く財政の統制原則を適用し、実行しない理由はありません。なお、地域における行政組織のあり方を、基礎的社会環境やインフラ条件に配慮しつつも、行政間接費用や要員数の面でいくつかの類型に平準化、モジュール化して最適化することは、民間セクターの知見やノウハウを借りるなどすれば困難ではないでしょう。むしろそのような外部の視点こそがいま必要なのです。
このようにして住民税と行政間接コストを結びつけることは、それ自体が権力行使のひとつです。というのは一般論として、ある主体が社会的な行為の過程で、何かと何かを関連付けたり、切り離すことはそれらの関係性を統制することですが、そういった社会的関係性を統制する作用や行為こそ、社会的権力の核心的機能だからです。だから反対に、このふたつの結びつきを妨げるような力や作用も同じく権力のなせるわざです。では政治的原理の問題として、地域住民としての都民には、このような権力が東京都に対してあるのでしょうか。(この権力主体がときに情況的なものとしてあること、あるいは関係構造的なものとしてあることについては、「判決を受けて3」で述べましたが、それはここでも言えるでしょう。)
するとここで、都民は税の使途目的を行政に委ねているのだからそのようなことを言う権限などないし、そこに介入すべきでもない、という指摘がなされるかもしれません。この指摘はすくなくとも、“ある行政局面においては”その通りでしょう。都民が行政予算の策定や執行を行政機関としての東京都に委ねたことは事実であるし、東京都にはそれらの遂行権限が確かにあるからです。しかしその指摘は、現在の都政が行政間接コストを適切に律することで都民の信託に応えている、という情況認識にまで拡張するのでしょうか。そしてその現状を是認する根拠となりうるのでしょうか。そうは思われません。なぜなら、いかなる社会的信託関係も、時間を超越して委託者と受託者の関係性を包括的、変更不可的に拘束するものではないからです。信託関係にあるということが、委託者としての都民から行政予算のあり方を検証したり、再検討する権利を奪うことはないのです。そしてもしこれを認めないというならば、それはもはや信託関係ではありません。都民は、“ある行政局面においては”、そして一定の政治的情況のもとでは、行政間接コストと住民税を結びつける権限、権力を保持しているし、そのことが信託関係という社会制度的関係性と矛盾するものでもないのです。それどころか、両者の連結を予算委任の枠組みである、と定めることさえ可能でしょう。ただし行政が、このような考え方や住民税による行政コストのひも付けに抵抗することはあり得ます。しかしこれが行政側ではなく、最終的には都民が統制すべき問題であることは明らかです。
住民税をどのように行政間接コストに結びつけるのか、つけないのかということについては都民の間にも様々な意見があるでしょう。しかし納税者としての都民が、行政間接コストのあり方についての最終選択、決定を、議会や行政への全面的権限委譲ではなく、自らの直接的権限としても保持していることは確かです。またそのように考えることが主権の行使であり、それを否定することは、主権者の概念とも納税者の概念とも相容れないように思われます。だからこの問題の本質は、単なる住民税や行政コストの問題にとどまらず、政治的、統治的存在者としての都民自身のあり方の問題にまで及ぶのです。
さて、東京都についていま述べた視点は、国全体に拡大適用することもできるはずです。たとえば、国民負担率に占める国全体での行政間接費の適切な割合を国民が決定し、− “国民行政間接費負担率”(あるいは、“国民国政間接費用負担率”)とでもいう統制指標を導入し − その枠内に行政間接コストを封じ込めるという統制方法が考えられます。これは、中央政府から市町村にいたる一般行政間接費の総計を、国民負担率の何パーセント以内に制限するという国家目標を設定し、工程表に基いてこれを段階的、着実に実現してゆくのです。なお国民が、国民行政間接費用負担率において、行政組織と議会組織の両者を一括的に財政統制することができるために、間接費用としての議会費用はあくまでも行政間接費用の費目において扱われるべきでしょう。国民の視点よりみれば、行政組織費用も議会組織費用もともに国政費用に他ならず、両者は行政間接費用という一つの上位費目のなかで扱われ、支出カバーされることが望ましいからです。(このなかには国と地方で行われる選挙の費用も含まれるべきでしょう。当然これも行政間接費であり、選挙のあり方は費用面でも主権統制されるべきだからです。また、ひとつの考え方として、すべての公務員の給与待遇を地方と国の区別なく、一括して取り扱い、国民負担率において一元的に統轄管理することができれば、国と国民の双方にとってもっとも簡素で、透明性の高い、そして社会効率的な財政方法といえるでしょう。)
ただしこれを行う際、現在の比率にとらわれることなく、まず自分たちが望ましいと考える比率を一種の理念型として見出すことが重要でしょう。これは、私たちが払う税金や社会保険料の総計のなかから、どの程度の割合を、行政間接コストの支払いに振り向けることを了解するのか、ということにほかなりません。このような作業を経ることで、私たちは現実の国政のあり方に直面することができるし、自分たちにとって望ましい国のかたちを考えることができるのです。いずれにせよ、税と財政の国政原理的関係性と、国民と行政の統治原理的関係性からの、いわばはさみ撃ちによって、私たちは社会にとって最適の行政費用を探索し、見出すことができるはずです。(防衛費をGDPの1%以内に抑えるという政策基準も、その水準の当否はともかく、このような数値が目安としてあるからこそ、国民は防衛予算のあり方に一定の考え方と理解の手掛かりを持つことが出来るのであり、また実際そのようにこれまで機能してきたのです。 − 対GDP比だけではなく、対歳入比でも統制される必要はあるでしょうが。)
中央と地方での行政作用が、行政の系統として別個のものであることに合理的な理由があるとしても、国民の財布が一つしかない以上、国民負担率において引き受ける行政間接コストの水準は、地方を含む国政全体を賄う行政費用負担として上限設定されなければならないはずです。そのようにして、このコストが包括的な国政費用として統制管理されなければ、納税者はこの費用をなんらの財政規範枠組みもなく、ただばらばらと払わされるだけだからです。第一そのような散漫で放恣な行政費用のあり方を許す経済的なゆとりは今日、国民にも社会にもありません。財政支出全体のなかで、行政間接費の割合をどの程度の水準まで認めるのか、割り当てるのかという問題は、そしてそのことを国民の意思をふまえて選択し決定することは、財政のなかで防衛予算をどこまで認めるのかという問題と同程度に、あるいはそれ以上に国民と国政の双方にとって今日不可避の課題なのです。
このようにして、住民税であれ国民負担率であれ、すでにある数字や指標を統制手段として縦横に活用しながら、国家財政のマクロ的あり方を国民ひとり一人の実体的なミクロ的担税力の視点から多面的、多元的に規律してゆくことは、納税者にとって非常に重要なことです。なぜなら、例えばある地域の住民税が当該地域の行政間接コストを統制すべきなのであって、その逆ではないからです。その総額間接コストは住民税とは無関係に、個々の間接費用を積み上げてゆく結果として算出されるのではなく、例えば域内歳入(住民税)の実体的な枠組みのなかで、上限設定されるべきことだからです。
わたしたち国民は、国や地域の財政に対して、単に徴税されるという一方向の受動的関係性にとどまるのではなく、徴税の裏面的国家作用としての財政策定のあり方を、少なくとも要所要所の枢要部門で実体的に掌握し統制できていなければ、− 自分の財布を自分でしっかりと握っていなければ − 語の真の統治的意味で国家の主権者とはいえません。この理解に立つとき、行政間接コストは、財政全体に占める比重の大きさから判断して、社会保障費とともにこの部門対象の筆頭にくるべきものでしょう。国民の立場、視点から行政間接コストを統制することが財政機能をより効率化し、納税者にとっての財政効用全般を増大させることは疑いないからです。しかもこのようにして、国と地方における行政間接コストの定量的なあり方を各個人の納税行為に結び付け、その個人内部で適切に標準規定化することで、わたしたちはこの費用のために自分がどの程度の金額を支出負担しているのかを、まさに家計管理上ではっきりと視認し、納得することができるようになります。国や地方の財政をそれぞれの議会、行政部門に委任することも、このような主権的行政費用統制のうえに据えられてこそ国民は受け入れることができるのであり、もしそうでなければこの委任は白紙委任となるのです。
なお、上記の主張に対して予想される反論のうちで、「合成の誤謬」的な反論 − “たとえ納税者のひとり一人にとっては、行政間接コストとしての妥当な負担割り当てでありえても、それが中央や地方政府の立場からみたときに、行政予算の全体的あり方として、妥当な行政間接コスト状況となるものでは必ずしもないのだ”、という主旨の反論 − に対しては、主権的社会選択の立場から同調できません。 というのも、この行政間接コストの問題は真偽問題や正誤問題ではなく、この反論も実際のところ、それ自身ひとつの社会選択的主張であるからです。では、社会選択としてその考え方は受容可能でしょうか。仮に、納税者の国民負担率に基いて、その一定割合から“理論的、理念的に導かれた”行政間接コストと、このコストの現状との隔たりがあまりにも大きくて、この方法で行政間接コストを統制することが、すぐには現実味のある改革案であるとは思われないという事態になったとしても、− そういうこともあり得るでしょう − それでその理論的コストが「誤謬」になるわけではありません。第一そうであってもその事態は、私たちが両者の乖離や乖離の意味、乖離の評価を一切知ることも考えることもないままに、なんら問題関心を抱くこともなく、漫然と現在の行政費用情況を黙過し続けることに比べれば、納税者のあり方としてはるかに望ましいことです。またそのような認知段階を経ることなくしては、行政間接コストのあり方を改善することは到底できないでしょう。それに、そのようにして見出された財政的乖離は、日本国民に現行の地方行政組織や地方議会のあり方について根底的な見直しを迫っているのかもしれません。私たちは自分たちの所得収入に照らして、身の丈以上に高価な行政組織を、“分不相応に抱え込みすぎている”のかもしれず、その乖離は、むしろ現行のコスト水準の異様さをあぶり出しているのかもしれないからです。ではなぜ多くの国民が、限られた収入で生活をやりくりしているように、行政機関も自己裁量の予算方式ではなく、国民負担率から導出された間接費用予算でやりくりしてはいけないのか。むろん主権原理のもと、いけない理由はなにもないのです。いずれにせよ、私たちが行政費用について無知であることが、無知や無関心そのものが、現行の行政費用状況や国の財政施策一般を正当化する根拠とは決してならないのです。
以上をまとめると、一方で国政は、国民負担率において国民を徴税権的に拘束します。しかしこの拘束を介して、両者間の作用関係は双方向的であり、国民もこの国民負担率において国政を拘束できるはずです。なぜなら、国政行為としての徴税行為は、あくまでも財政による主権者国民への福利実現を主なる目的としているのであり、徴税根拠としての財政ニーズの選択評価やその重み付けを、国民福利の視点からどのように統制するのかということについての最終権限も、主権者国民のうちにあるからです。しかもこの統制はそこにおいて、徴税権を持つ国政機関や地方自治体組織の財政的なあり方に対しても向けられています。というのは、私たちが財政について考えるさい、私たちは国政機関や地方自治体組織をもっぱら、財政予算を策定し遂行する行為主体として受けとめているわけですが、これらの組織機関もそれら自身の社会的な存在様態が、財政ニーズ、財政需要の巨大な発生源となっているからです。とすれば国民は、それら組織機関の間接コストのあり方も、財政の裏面としての税、つまり国民負担率によって方法統制することができるはずです。いや、その費用の規模や財政全体に占める負担割合の大きさからいって、しなければなりません。なぜなら、これらの組織機関に対する財政上の取扱いは、財政全体の実質的な効用性や効率性に直接深く関わることだからです。したがって、国政(機関)が徴税権を行使して、国民をどのような国民負担率において拘束するのかということと、国民が国政(機関)における行政間接コストの費用水準を、まさにこの負担率全体のなかでどのように重み付けし、配分統制するのかということとは、同時に論じられ、同時に扱われるべき不可分の一体的な問題です。国民は、この側面での財政配分統制を棚上げしたり、不問に付したままでは、徴税権による国民負担率の賦課が、その負担率の算出根拠となっている財政ニーズ、財政要請構造の全体的な構築性、全体的なバランスにおいて受容できるものであるかどうかを、納税者自身の立場から評価したり判断することができないからです。
憲法問題としての租税
ここで憲法が租税をどのように規定しているのかをみておくと、まず国政の徴税権は、憲法30条の「国民は、法律のさだめるところにより、納税の義務を負ふ」という規定に由来するものでしょう。そして【課税の要件】については、84条のいわゆる租税法律主義の定めがあります。憲法84条は、「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。」という規定であり、これは租税の賦課要件を、租税の法律準拠性に求めたものです。つまりここで、租税を課すことに必要な憲法法規上の根拠については、「法律の定める条件による」ということだけが求められているのであり(必要十分とされているのであり)、“法律又は法律の定める条件”のあり方については規定がありません。これらの条文は、法律制定行為をふくめて、国政行為としての課税行為のあり方を、その国政行為としての包括的なあり方において行為内在的に規範規定することなく、− たとえば、租税法律の委任についてどのような制約規定を加えているというのか − 単に国政機関における法律法令制定権力の原初的憲法授権性に依拠しただけの規定性にとどまるのみです。つまり法律法令制定権力の、その行使のあり方にまでは及んでいないのです。しかしこれでは、納税の義務や課税要件を憲法上で規定しているにもかかわらず、憲法の果たすべき本源的な役割として、国民に対するこの国政行為のあり方を規制する行為規範として、十分にその任を果たしているとは思われません。その行為の性質が租税の賦課徴収のように、国政が国民に対し、分けても国民の財産権に対して、強大な権力を行使するような性質であることを考えれば、なおのことそう思われます。というのも、国民に対するその国権行使の強制性やあり方こそが、租税には法律の根拠が必要であることを特に憲法の一条項として規定し、設けるにいたったことの主なる理由であり、目的ではなかったのかと筆者は考えるからです。それゆえ以上の観点から租税のあり方を包括的、国政根源的に考える時、これらの憲法条文は少なくとも、以下に述べる二つの問題を主権者国民に対し投げかけています。
第一に、そもそも国政機関には、その対象がどのような内容であれ、法案や法律を制定する権力権限が、憲法によって原初的に授権されているのであり(権限付与されているのであり)、立法府から行政府への“法律の委任”を含めて、その権限行使を抑制するような制度的契機は国政過程には内在しないことから、租税に関する法律も、立法行為そのものを妨げる素因はそこになんら存在しません。しかも、行政行為に法律の根拠が必要であるという原則は、租税以外の行政行為にもひろく適用される基本的な権力分立の原則であることから、租税に対してのみことさら法律制定性の必要性を言う必要は本来ないはずです。行政行為としての租税制度に法律の制定根拠が必要であることは当然のことであり、その必要性のみをいうだけならば、そのような規定は結局のところ、“行政行為は(徴税としての行政行為は)、法律の根拠を必要とする”、という行政全般についての一般原則、いわゆる「法律の留保」の原則から一歩も踏み出すものではないからです。しかもこの条文下では、憲法の国政への立法授権行為さえ、無制約的、無条件的なものとなります。憲法30条のもと、租税の根拠は手続き行為過程としての法律制定行為が充足されているという事実 − ある文書があって、それが法律法令として成立しているという外的事実 − のうちに内在し、その制定権限は立法権を有する国政機関に全面的に帰属するからです。
この指摘に対しては、“租税法律を制定する国政機関は、憲法全体によってそこで基本的に拘束されているのではないか”という反論があるかもしれません。これはもっともな反論のように思われます。なぜならもし憲法30条がなかったとしても、日本国に租税賦課に関わる法律があるであろうことに変わりはなく、− 30条がないと租税法律が立法できなくなるわけではないでしょう − その場合は皆そのように考えたに違いないからです。しかし現にある憲法30条も憲法の一部なのです。であれば、憲法30条が憲法全体によってどのように拘束されていると考えるのかはさておき、− それはすでに憲法解釈の領分に入っていますが、なぜ解釈の必要が出来するのかがそれとして問題でしょう − 憲法30条はここで「法律の定め」についての判断を全面的に国政に委ねているのだ、と考えるのが冷厳、かつ全体整合的な理解ではないでしょうか。国民にとって重要なことは、「法律の定め」が、どのようにそこで規定されているのかいないのかという客観的な事実であり、その事実に基く厳格な条文の読みです。とすれば憲法30条が一歩踏み込んで、どのような文言であれ、法律規定のあり方を法律のメタレベルで包括的に制約することなく、「法律の定めるところ」という語句のみで言及終えることは、そのことにおいて、憲法が「法律の定めるところ」や「法律の定める条件」についての最終的な正統性根拠の成立性のあり方までをも含めて、国民の納税義務を規定するこの条文文脈のなかで、全面的に国政機関の判断に委ねることになるのではありませんか。憲法自身がまさによのようなあり方で租税法の制定権を国政に授権していることにはなりませんか。
なぜそう言えるのか。 まず基本的なことを確認すると、この条文は国民が法律の定めに従って納税の義務を負うことを、単に一つの事実として客観的に、第三者の立場から述べているわけではなく、国民はそのような義務を国政に対して負うのだということを、憲法上の定めとして国民に課しているのです。憲法の有する規範的な拘束力としてこれは当然です。そうすると、憲法30条は、“(租税)法律のさだめるところ(の履行)は、国民の義務である”という文言に言いかえることができるでしょう。するとこの文は、主語である“(租税)法律のさだめるところ”を変更不可の所与とする、− なぜならそれは法律であるから − 規範的な定言命題(“AはBである”というかたちの命題)となります。この命題にあっては、“(租税)法律のさだめるところ”という語句のうちに、国民が履行義務として従うべき「さだめ」の根拠とその適理性が憲法によって前提され、確保されているというふうに了解せざるをえません。そしてこのように了解することは憲法がここで、「法律の定めるところ」を理念的にとらえているからだ、と考えれば納得できます。
しかし法律一般を理念的にとらえることが憲法という規範的論理空間のなかの、一定の思考情況の下で可能であるとしても、そのようにとらえられた法律観、法律理解を、そのまま横滑り的に現実の個々の租税法や租税制度に当てはめるとすれば論理の飛躍であり、しかもそのような論理操作は、国民にとって深刻な情況、事態をもたらしかねません。憲法30条の場合でいうと、「法律の定めるところ」という概念を理念的なものとしてとらえたままで、これを現実の個々の実体的な租税法律法令に規範適用するとなると、“法律の定めるところ”がどのように規定されているのか”ということはもはや二義的な問題となり、そのかわりにその理念的なるものとしての法律が、“法律として制定されている”ということ、つまり“法律である”という事実の成立性それ自体のうちに、この租税に対応する納税義務の法的、社会的根拠が求められ、成立してしまうからです。この条文は、実体的なるものとしての法律を純粋理念的に了解規定する一方で、このような理念的法律観のもと、国民の納税義務に対する実体的な拘束規定としても機能しているのです。
(同じことは、憲法前文の「国政は国民の厳粛な信託によるものであって」の語句にもいえるでしょう。これも国政のあり方を理念的に、理念型として述べたものであり、必ずしも特定の国政行為が国民の信託に値するものであることを保障するわけではないのです。)
しかし租税について制定される現実のあれやこれやの「法律の定めるところ」は、必ずや経済的、社会的、制度的条件などによって制約され、方向づけられているのであり、「法律の定めるところ」をそれらの側面すべてにわたって理念的なるものと解することは困難です。これは、なんであれ私たちがこの現実社会のなにかについて論じるさいに、そのなにかを社会理念の視点からとらえるだけで議論を終えることはできないのと同じことです。理想や社会理念の視点を法的思考においてもつことは重要ですが、そのことと、現実の特定の法律を理念的なるものとしてとらえる、理念的なものとしてみなすということとはまったく別のことがらであり、両者を混同すべきではありません。
また租税や社会保険料に関する議論で見過ごしがちなのは、或る租税法律と、これに関連する他の(租税)法律や公的社会制度との関係はどうなっているのかという問題側面で、これも当該の法律を理念的に了解するだけでかたづくことではありません。法源を共有する国保法と公務員共済法の関係はまさにその一例であって、その関係性のあり方を、各々の公課処分が法律に従っているかどうかという事実確認だけから判断することはできないのです。それゆえ私たち国民は、法律に基く租税処分をめぐって行政と争う可能性を完全に排除することはできないのであり、その場合には、「法律の定め」に対する憲法の諸原則からの拘束作用は如何、という論点での争いもあり得るでしょう。しかしたとえそのような疑義や争いが、法律法令に基くある租税処分事案をめぐって生じたとしても、この憲法条文は、それらに対して沈黙したままであり、その決着を国政機関の裁決へと委ねるのみです。なぜなら、憲法30条における「法律の定め」とは、純粋理念的にとらえられているだけで、その法律が納税義務の根拠としてどのようなものでなければならないか、ということについての視点や拘束規定はないからです。しかしそれでは、憲法の果たすべき社会的責任を十分に果たしているとはいえません。国政機関による法律制定行為を含めて、憲法は国政の傍観者や、国政機関の盲目的な擁護者に役割固定化されてはならないからです。それはまったく憲法の理念、憲法の精神に反します。憲法が法律や国政の理念的なあり方を高く掲げることは結構なことですが、同時に地に足のついた規定条文によって、主権者国民の立場から国政の立法権力を適切に制約し規律化することも、憲法がおろそかにしてはならない重要な責務です。その両面を押さえることが憲法に求められているのであり、それなくして租税法律主義などと銘打つことは看板倒れと言わざるをえません。もし憲法30条が、「法律の定めるところ」の制定成立性のうちに、国民を租税によって義務拘束するための“憲法上の根拠”を認証するのであれば、同時にその憲法は、この法律の成立性をあらかじめその理念性において、所与的に承認するべきではありません。もし憲法が納税義務の拘束性を正当化するために、法律を手放しで理念的なものとしてとらえるなら、思考のあり方として倒錯しています。そうではなく、その反対に憲法は、この法律の成立性のあり方そのものを、まさにあるべき租税法の理念的なあり方から規制しなければならないのです。まさにそのような目的のためにこそ憲法は法の理念を用い、理念的であるべきなのです。
繰り返しいうと、行政行為には法律の根拠が必要であるという一般原則と、ある法律原則がある特定の行政行為の法的根拠として制定されているという社会的事実とは、分けてとらえるべき二つのことがらです。というのも前者の規範原則から後者の規範原則の適理性を自動的に根拠づけることはできないからです。或る法律法令が或る行政行為の法律根拠とされているということと、この法律法令が或る行政行為領域の根拠規範として適切なものであるかどうか、憲法原則に違反していないかどうかということとは、同じく法律の根拠という言葉を使用してはいても、分離して別々に考えなければならない二つの異なる問題なのです。
しかも「法律のさだめるところ」については、立法過程についての社会行為的観点からも相当な注意が必要です。というのは、租税や社会保険料に関する具体的な法律内容の大部分が実際には多くの場合、行政府の作成した法案や政令に基いて成立しているという立法過程の厳然たる実態状況を、私たち国民は軽く見ることはできないからです。そのような情況で、行政機関が法律に反するような徴税行為を行わなければならない理由や必要は、初めからほとんどありません。たとえば行政府が法律の委任を受けて、自分たちで作成した政省令などの法令に従って処分を行うのは、当然過ぎるほど当然のことです。そこでは、立法府による行政府の分立権力的な統制も有名無実化しているといってよく、行政庁による徴税行為や租税処分が、「法律のさだめるところ」や「法律の定める条件」に従って為されることも当たり前のことです。しかもまさにそのことにおいて、徴税行為が「法律のさだめ」の通りに行われているというまさにそれだけのことにおいて、行政府、行政機関はそれ以上のことを手にします。すなわち、その行為の憲法原則的な正統性根拠を獲得し、主張することが同時にできるのです。憲法がそれを条文において保障しているからです。行政にとって、これほど心強いことはないでしょう。そうすると、憲法は一方において、立法府から行政府への法律の委任を認めつつ、他方では、そのような委任法(政令など)としての「法のさだめ」にも徴税権という強大な権力を無条件に認めているわけです。憲法の租税条項が容認する「法のさだめ」や「法律の定める条件」についてのこのような包括的情況は、国民の目から見てどのように評価すべきでしょうか。このような状況は果たして、憲法のあり方として、憲法のあるべき姿として適切といえるでしょうか。
そうは思われません。租税原則規定としての憲法規範に求められているのは、単に国政機関による法律、法令制定権力の行使をもって事足れりとするのではなく、この権力行使のあり方そのものを拘束し、租税法律制定権にクギをさすことです。それは、「法律のさだめるところ」それ自体を、国政と国民の統治原理的な関係性の視点から包括的、立法行為内在的に規範拘束し、かつそのことを【課税の要件】として国政機関に遵守させることです。主権者である国民は、憲法の前文に宣言された憲法の基底的規範意思において、国政機関による租税法律の制定行為の過程を、平等権をはじめとする憲法原則や、国民の福利、さらには国政の理念的なあり方などにおいて拘束できなければならないはずだからです。つまり憲法30条や84条は、“国民は、国民の全面的な白紙委任に基くところの、一方向的な国政行為結果としての法律や政令のさだめに従い納税の義務を負う”、ことにはなりません。また国政(機関)は、国民の納税義務を、「法律のさだめるところ」への疑義を一切許すことなく、自己正当化することもできません。権力的な作用を受ける国民にとって受け入れられないのは、租税をめぐる国民からの批判や訴えに対し、政治家や官僚や裁判官が(立法府や行政府や司法府が)、上にのべたような基底的規範の順守を言うことなく、ただ単に、「当該租税処分は法律のさだめに従って適切に行われているいる」、という文言のみをもって説明や反論を行うことです。そしてそのような説明の仕方に、国政行為としての最終的な正統性論拠が社会的にも、憲法条文的にも認められてしまうことです。しかしながら、国政統制規範としての憲法は本来、そのような事態をも想定して条文準備すべきです。憲法は、国政と国民とのそのような関係情況を未然に防ぎ、国民の権利が不当に侵害されないように擁護し保障しなければならないはずです。もし憲法が租税についての規定を特に設けるというならば、その核心的な意味と意義は、そこにこそ見出されなければならないからです。しかし現行憲法では、「法律のさだめるところ」や、「法律の定める条件」が、国政機関とまったく同一レベルの視点と立場に立ってとらえられ、非制約的に規定記述されているために、あたかも「法律のさだめるところ」そのものに、憲法上の正統性根拠が認められているように読めるのです。国政機関がそのように憲法条文解釈し、租税立法することを国民は容認できませんが、この30条が言質となってこの解釈を背後から支えるならば、憲法は法律制定行為の上位規範としての役割を十全周到に果たしているとは思われません。行政行為一般に法律の根拠が必要であることは − 食品添加物の認可範囲であれ、高速道路の上限速度であれ − 租税に限られないのですから、単に法律規定の制定必要性だけをいうならば、憲法84条に特段の実質的な意味はなく、これをもって租税法律主義などと麗々しくいうのは滑稽です。条文が国民にとって実体的な意味をもつのは、憲法がこの法律の制定性に対し、どのような内容であれ租税の賦課という行政行為に固有のなんらかの規範的制約性を認識し、これを特に憲法上の規定として“例外的に”追加負荷する場合に限られるのです。そうではありませんか。そのような実体的な内容の伴わない、法の制定性だけをいう空疎な「租税法律主義」など国民を愚弄するものです。以上が第一の憲法条文としての根源的疑問であり問題点です。
(実際この国保裁判も、「法律の定める条件による」租税処分としての原告の国保保険料賦課のあり方を、− 徴税権行使としてのあり方を、− 保険者荒川区長の保険料と比べることで、平等権のもとに争うものだった。もし仮に租税に関わる憲法条項が、政府内閣から保険者にいたる租税行政の一連の工程を、あるべき租税規範において厳格拘束していれば、このような事件は防げていたかもしれない。)
さて国政(機関)は法律を制定することによって、「新たに租税を課し、又は現行の租税を変更する」ことができるのでしたが、この憲法条文は租税のあり方を、あくまでもその個別単体性においてのみ対象規定としているので、租税の全体的なあり方についてはなにも規定はありません。
しかし国政による徴税権の行使は、その包括的な行使においてこそ国家の歳入を確定させ、国家の財政施策全体を支えるのであり、ひろく国民の福利に関わる施策や制度、社会のインフラ整備などを通して国民生活全体と結びつくものです。この一連の国政過程こそが国民に税を課し、国民が税を払うことの終極的目的でもありましょう。とすれば、租税のあり方はその全体性においても重要であり、その全体的あり方が国民にとって適切なものであるかどうかは、個々の租税法律が適切に制定されているかどうか、ということのみによって根拠づけることはできません。それは必ずしも、個々の租税法律の集積や延長上にある問題ではないからです。国政が個々の租税法の目的と定めに従って国民に税を課すのは当然であるとしても、その当然性は同時に全体としての租税のあり方が、国民にとって納得できることの根拠となるわけではありません。それらの法律はおのおの、ある特定の租税についての法律に過ぎず、租税全体のありかたについての規定ではないからです。租税全体についての法のさだめではないからです。しかもその結果、租税をめぐる国民と国政の関係性について重要なことが見落とされてしまいます。主権者としての国民の視点からみたとき、租税法律についての憲法の規定は納得のいくものでしょうか。
国民にとって租税は生活に深く関わる重要な問題です。だから私たちのなかで、“国が何にどう課税しようと、私たちは黙って国政にまかせていればそれでよい、国民と国政の関係はそういうものだ”、という考えに同調するひとは少ないでしょう。とはいえもし私たちが、“租税に関わる国民と国政の関係性は、主権者の意思において、憲法30条と84条がすべてこれを適切に不足なく規定している” と考えるならば両者の関係性は事実上、国政が国民を義務拘束するという局面だけの関係性に限られます。なぜならこれらの条文は、国民の納税義務であれ税の賦課内容であれ、議会が個々の租税についての法律を立法制定したというその事実をもって、それらの義務や賦課規定の成立根拠とするものであり、租税法律における国政と国民の関係性はそこにおいて、あくまでも徴税者と被徴税者としての関係性に限定されるからです。租税法における両者の関係性とは、そのような一方的なものだからです。それは税を国民が、国政にまかせきりにするということです。
しかし私たちが目を転じて租税のあり方を、国政におけるその全体像において俯瞰的にとらえれば、ひとつひとつの租税(法律)も決して単独的、単一目的のためだけにあるものではなく、国の財政施策全体をまかなうための国庫原資の一部として位置づけられるものでしょう。しかも歳入としての個々の租税や社会保険料は、国の予算や財政計画において相互に関わり合いながら作用を及ぼし合っているのであり、決して分離隔絶的な関係ではありません。これはたとえば、近年における政府の基本的な租税政策が、所得税など直接税からの税収がこの先それほど期待できなくなっているという見通しのもとに、間接税としての消費税の比重を増やしてゆく方向に舵を切っていることからも読み取れます。所得税と消費税とはまったく別の租税ですが、財政歳出の歳入源として密接に関わり合っており、しかも消費税という個別の税に影響を与えているのです。またガソリン税のように、当初は道路整備などを特定目的とする目的税として始まったものの、後に一般的な財政目的へと使途を拡げた租税もあります。このように租税や社会保険料は、個々の目的や役割を果たしつつも、同時にその全体性において国家の財政需要を支えているのであり、このことは個々の租税の法律制定性や立法目的に劣らず重要なことです。私たちは憲法30条や84条の主旨を踏まえつつも、同時に租税のあり方をその全体性においてとらえることを見過ごしてはならないのです。
それゆえ私たち国民は、憲法30条や84条の定めはそれとして、社会保険料を含む租税のあり方を、その全体性においてとらえることも必要です。なぜなら私たちは租税を一つひとつの税としてではなく、包括的にとらえることによってはじめて、租税を財政の観点から、租税の裏側にあるもうひとつの租税問題としてとらえることができるからです。さらにはそのようにとらえた租税歳入としての財政原資を、国政機関だけが考え扱う問題としてではなく、自分たち自身の問題、自分たちが負担し背負うところの租税の歳出側面の問題として、租税と一体的にとらえることができるようになるからです。しかもそれは財政を、国政機関に対する納税義務の裏面としてとらえることでもあることから、財政を国民の国政機関に対する権利の問題として、財政権利の問題、財政権限の問題としてとらえるということでもあります。つまりそこにおいて私たちは租税を単なる義務のことがらでなく、権利のことがらとして、権利義務の視点からとらえることができるようになるのです。
そうすると国民は、税と財政の関係性が同時に、国民と国政との権利義務的な関係性として成り立っているという認識に基いて、租税と財政の関係性が全体として自分たちにとって納得できるものであるかどうか、という問いに向き合わざるを得ません。なぜなら、国民が義務拘束されている納税のあり方が国民にとって納得し受容できるものであるかどうかは、決して個別の租税法律をひとつひとつみることによっては判断することはできず、租税全体の裏面にある財政のあり方が国民の意思を適切に実現しているかどうかとういことによってのみ判断され得るからです。当然ながらそのような判断を国民は国政に委ねることはできません。国民が権利の主体として持っている財政権を国民は、無条件で手放すことなどできないことだからです。財政権としての国民権利は、それが自分たち国民の権利である限りにおいて、もはやこれを全面的に国政機関に委ねることはできないのです。ではこのことは、租税や財政が国政の一部であるとして、「国政は国民の厳粛な信託によるもの」という憲法前文とどのように関係付けられるのでしょうか。
私たちはふつう憲法の前文に基いて、国政は国民の信託によるという言葉を、国民と国政とのもっとも基底的な関係原理を示す言葉として受けとめています。しかしこの文言をそのように受け入れるとしても、私たちが主権者としての立場からこの原理を掘り下げて考える労を厭い、信託関係の成立性を、具体的で検証可能な規定によって実体的に条件づけることなく受け入れるなら、国政としての租税と財政をめぐるどのような国民議論もつまるところ、単なる抽象的観念としての信託概念に回収されて落着するだけです。そうなると「国民の厳粛な信託」とは、受託者としての「国政」がいかなる租税・財政政策、いかなる国政行為、国政作用に対しても即座に提示できる、国民への万能の国政説明原理のようなものになってしまいます。事実、今日にいたるまでこの言葉はそのように社会機能してきたのです。国民はまさに信託法における委託者のような立場に押しやられ、そこでは委託者の財産権が受託者に移転されてしまうように、国政に関わるすべての決定権が完全に国民の手を離れてしまうのです。
では万能的説明原理としての信託観念が、その働きによってこの国民社会にもたらしたものはなんでしょう。それは、いったんこの言葉が口にされるや、国民は押し黙る他に術はなく、国政としての租税や財政施策に対するいかなる疑義や抗議もそこで打ち切られ、「国政」の意思において決着させられてしまうような、そういった我が国の政治的思考風土でしょう。のみならず、国民の間でも、結局はこの説明原理によってはねつけられてしまうのであろうという諦念の心理、社会風潮が強まってゆき、ひいては政治に対する無力感や無関心さえ広まってきたように思われます。むろん「国民の厳粛な信託」がそのようにして、国政を現状追認するためだけの手段になってよいはずはありません。とはいえ目下のところ私たちは租税と財政のあり方について、「国政」に対する国民の信託性の可否を検証するための実体的な規範基準を、憲法の定めを含めて、文字通り何ひとつ持ってはいないのです。しかしそれではこの関係性を信託と呼ぶことはできません。それは実際には国政に対する国民の一方的、無条件的な服従でしかないのです。
国民と国政との信託関係において、単にそれを信託関係と呼びならわすことが、委託者に実体的な権利保障をするわけではありません。重要なのはある関係に信託関係という概念を適用することではなく、委託者と受託者の関係性における具体的で明示的な信託規定の制定情況です。もしそれを欠いて、委託者の正当な権利を保障するための実体的な条件規定が不備であるならば、これを真の信託関係とはいえません。そのような場合、委託者は信託関係の停止を含め、そこでの関係性を主体的に統制することができないからです。しかしそれこそが、その存否こそがこの関係を単なる呼称ではない、実質的な信託関係とするのです。
では国民と国政との信託関係において、これを見せかけではなく、実体的な社会契約関係たらしめるような、そのような委託者国民の利益や権利とはいかなるものでしょうか。そして、国政の委託者であり主権者である私たち自身がこの信託関係を確かに統制しているのだということを、私たちはなにをもって自らに納得させることができるのでしょうか、納得できているのでしょうか。それは信託関係の成立要件内容としてどのような規定であり、これを実現し信託の関係性を統制する社会的制度手段としてどのようなものでしょうか。このような問いに対しては、“主権者国民は選挙権の行使によってそれらを包括的に実現する”、という回答が予想されます。たしかに国政選挙が国民にとって、そのときどきの政権政党の諸政策に対する“信を問う”審判行為であることはまちがいありません。国民がそこで自分たちの福利や権利を考慮しつつ下す判断が、国政の方向性やあり方に一定の作用を及ぼしうることも事実でしょう。しかし憲法前文にいう「国政は国民の厳粛な信託による」とは、それ以上のなにかを、国民と国政の双方にとってより根源的な関係性についていっているのではありませんか。またそのように了解すべきではありませんか。
なぜこう考えるのか。ここで憲法制定の基本目的に立ち帰ると、憲法前文にいう「国民の厳粛な信託」が求めているであろう委託者国民の実体的な権利とは、「国政」がさまざまな権力を行使するさいの、その行使のあり方に向けて要請されているものである、と考えるのがもっとも理に適っているからです。すなわちそれは、国民が国政に委ねる個々の行政施策についてのみいうものではなく、それら個別政策の以前に、国民が国の統治権という強大な権力を「国政」に委ねるにさいしての、いわば統治権力委譲の絶対的条件として、「国政」の国民に対する権力行使の基底的なあり方に向けられた要請として理解すべきなのです。
とすれば国政に対する「国民の厳粛な信託」を統制する国民意思は、国政選挙の争点になるようなことではなく、そもそもなりようもありません。それは政党間で争うようなことではないし、選挙の結果として実現されたりされなかったりするようなことでもないからです。それは元来、「国政」側が選挙のさいに国民に向けて提示する政策メニューや公約、マニフェストなどのなかに見出すことは出来ないものなのです。そうではなく、それは選挙の有無や結果に関係なく、国政選挙とは異なる手段、異なる社会回路によっていついかなる時も国政に対して発動され、作用しなければならないものです。とすれば国民に国政選挙権があることのみをもって、国民と国政の間に憲法の前文にいう信託関係の成立を直ちにいうことはできません。といってそれは漠然とした「国民の福利」というような観念にとどまるものでもないはずです。私たちはそのような単なる抽象的な観念や理念をもってして、いかなる実体的な信託関係をも社会上に築くことはできないからです。
たとえば財政についてこれをみると、国民が財政権という強大な国家権力を「国政」に委譲するにさいしては、国民と国政の間に、財政の基本的なあり方をめぐっての、なんらかの取り決めがあるべきでしょう。「国政」が国民の厳粛な信託を根拠にして、財政権をいかようにも行使することを国民は許容できないはずだからです。それがたとえ「国民の福利」を理由や目的にしているとしてもです。とはいえこれは同時に、そのような取り決めが両者の間で成立していなければ、国民は国政による財政の運営に対してなんらの発言権利も持たないし、これを統制することもできないのだということでもあります。そして事実この取り決めがない以上、私がここで力んで何を言おうとそこには何の客観的根拠もありません。にもかかわらず多くの国民にとり、今日の我が国の財政のあり様は、これ以上なくこの原則の設置を強く訴えるものである、といえるでしょう。現在の財政情況を主権者の目で仮借なく見るとき、おそらく大多数の国民にとって、社会原理としての国民の信託が適切に社会機能しているとは到底思われないからです。その結果として、予算法律の制定性、つまり国会の立法権さえも拘束するような基底的な財政規律が「国政」に課せられるべきことの必要性は、いよいよ明らかに、いよいよ否定できなくなりつつあるように思われます。そこでは、個別の予算費目の妥当性をうんぬんするそのはるか手前で、国家財政の包括的なあり方において、国政への国民の厳粛な信託そのものが根底的に問われているのです。社会保障をはじめ、財政の行く末についての国民の不安がもはや杞憂とも言い切れないなか、ではそのような事態を乗り越え、国民の厳粛な信託を回復するための実体的な方策は、「国政」に対する「国民の厳粛な信託」を、実体的な社会関係としてどのようにとらえなおすことで見出せるのでしょうか。
その手掛かりは、私たちが「国政」という言葉をどのような社会的内実として受けとめ、認識するのか、そこからどのようにそれへの関係性を結んでゆくのかということによって見出せるのではないでしょうか。いうまでもなく、言葉そのものを信託の対象とすることはできないからです。そうするとこの語の受けとめですが、「国政」が「国民の厳粛な信託によるもの」であるとしても、信託が実体的な社会関係である以上、「国民」が単なる観念ではなく一人ひとりの私たち自身のことであるように、「国政」もあれやこれやの国政機関のことであり、それらによる国政行為や国政作用のことでしょう。では「国政」をこのようにとらえた場合、国政と国民の原初的な関わりはどのようなものでしょうか。
ここでいきなり関係性にいくのではなく、まず「国政」の存立基盤的な成り立ちを確認します。そうすると、国政機関や国政行為としての「国政」が、社会的組織機関として実体的に存在し、社会的行為として実施可能でもあるためには、あらかじめ、それらが国民の財政負担によって支えられている必要がどうしてもあります。「国政」は国政自身によって自らを財政的に支えることはできないからです。では国民による財政負担が必須であるとして、この負担は“道理として”どのように成立しているのでしょう。国民の視点からこの国民負担の過程についていえば、まずこの負担に対する国政側からの要請あるいはニーズがあり、この要請に応じてこれが満たされるという順序過程があるはずです。のみならず、この要請が恒常的に満たされているということが社会制度的に保障されていなければなりません。このようにくどくどしく述べるのは、実体としての「国政」が財政的に支えられているという事態、およびその支えられ方がどのようなものであるかということは、国家の主権は国民に存するという前提を踏まえれば、国民にとって決して当たり前のことではなく、当たり前であってもならないと考えるからです。私たちは当たり前のように、「国政は国民の厳粛な信託による」といいますが、そもそも「国政」の存在それ自体が財政の視点から見て少しも当たり前のことではないし、そう考えるべきでもないないのです。この当たり前ではないものとしての国政こそ、私たちが国政をとらえるさいの出発点であるべきでしょう。
それゆえ「国政」は、国民負担による財政的基盤があらかじめ原初的に確保されていなければ、そもそも信託関係における実体として存在することさえできず、したがって憲法の前文にいう信託関係を国民と取り結ぶことさえできないのです。財政基盤を欠いた「国政」とは、単なる観念であり絵に描いた餅に過ぎないからです。それゆえまた、最初に「国政」としての政治的、統治的実体が財政に頼ることなく自立的に存在しており、そのような「国政」と「国民」との間に信託関係が結ばれるわけではないのです。そのような「国政」はそもそも実体としてどこにも存在しません。この「国政」は国民の外部に、国民から独立してあるものではなく、すでにその始原において国民の財的資源に全面的に依存しているのです。その構造的な依存関係状況を踏まえた上で、この信託関係は始まり、かつ成立することができるのです。とことでこの財的資源とは、ふつう国民のおさめる租税によって調達されるものです。そうすると、この租税の徴収がそれ自体において国政のひとつとして行われている限りにおいて、「国政」は国民の信託を先取りしている、あるいは前借しているといえるかもしれません。それゆえまたこの国政信託原理の原初的成立性において、信託概念そのものが「国政」の財政依存的な関係側面から審査され、検討されなければならないということになります。
従って実体としての「国政」は、その存立基盤において租税歳入による財政歳出という一連の過程を、国政の枠組みとして必然的に要請します。この基盤局面における国政と国民の構造的関係性を、“原初的国政国民関係”と呼ぶことにしましょう。私たちがふだん「国政」という言葉で語るところの国政行為一般、国政施策は、この原初的関係性の基盤の上に行われることとなりますが、ここで強調したいのは、国民と国政の原初的関係性の視点からみるとき、租税のあり方を単純に国政施策のひとつとしてとらえることはもはやできないということです。なぜならその局面において、国政はすでに財政依存的なものとして存立しているのであり、その財政依存的なあり方を不問に付したままで、国民が国政に租税の絶対的な裁量権を付与することはできないことだからです。しかも国民の立場からみれば、国政からの財政要請は原初的国政国民関係性の視点から、決してこれを無条件の全面的な承認として受け入れるべき性質のものではありません。というのも財政要請としての租税はそこにおいて、国民の信託に基く国政の裁量権に委ねられたものとしてあるものではなく、財政と一体化して、国民と国政の関係性を信託関係として成り立たせるために必要な、信託関係の原初的成立要件としてあるべきものだからです。
ここで憲法の前文にもどると、ではこの始原的国政国民関係性のあり方そのものがいきなり国民の信託の対象となるのでしょうか。「国政は国民の厳粛な信託による」という規定性は、“遡及的”に「国政」の原初的な財政存立基盤性にまで及ぶのでしょうか。そうは思われません。なぜなら「国政」が国民からの租税に依存しているということにおける原初的、基底的な存立構造は、あくまでもなにより先に、租税と財政の両者を貫く権利義務の関係概念によって捕捉されるべきことであり、信託概念によるべきものではないからです。租税と財政の関係性はあくまでも、国民と国政との権利義務関係において“詰められなければならない”のであって、それをすることなく信託関係に持ち込むことは、信託概念を不当に拡大適用することです。このことは権利義務関係という関係性について考えてみればわかることです。一般に権利と義務の関係は、どこまでいっても権利義務の関係性として貫かれねばならないのであって、これをどこかで信託関係に変換したり移行することはできません。もし私が何らかの義務をある他者に負うとすれば、私はこの義務をどこまでいっても義務として負うのであり、それを信託の関係に変えることはできないのです。権利や義務の主体が個人であれ、企業であれ、公的機関であれこれは同じです。権利と義務のそれぞれのあり方は、権利と義務が分離することのできない一体的な関係性にあることの認識に基いて、あくまでも相互照応的、相互作用的に規定されなければならないものであり、そのようにして規定内容を詰めることなく、どこかで一方の判断に権利義務関係の実体的なあり方を委ねることはできないことなのです。
これに対して、私たちがふだん租税を国政のひとつとして理解するのは、租税を個別の租税(法律)としてのみとらえ、従って租税を財政の視点からとらえることができず、そしてなにより主権者国民の統治的な視点から、国政を統制する視角を失っているからです。
そのような理解はきわめて皮相的、視野狭窄的なものですが、というのもそれは
租税と財政とあわせてこれをあくまでも国民と国政の基底的関係性の視点から、そこにおける関係的なるものとしてとらえることの必要性です。なぜならこの両者は、単に国政における歳入と歳出の関係性として一体的であるのでなく、国民と国政の間の権利と義務の関係性において一体的だからです。その関係性において租税と財政はとらえられるべきだからです。
重要なことは、この権利義務関係のあり方を最終的に統制している主体は誰なのか、誰であるべきなのか、という問題です。
一体的なるものとしての租税と財政は、国民と国政の間の権利義務の関係性からみられるべきだと述べましたが、このような見方は今日でさえ一般的とは言えないし、ましてや国家統治のいかなる歴史に根ざすものでもありません。いうまでもなく、一般にさまざまな国民国家はそれぞれ固有の歴史的過程をもっているものであり、近世から現代にいたる世界の各地域ををひろく見渡せば、封建制や専制君主制から民主制や社会主義制度などへと統治体制が移ろうとも、租税制度はもっとも普遍的な国家統治制度のひとつとして、それらの歴史を貫いて存続しているものです。日本も例外ではなく、歴史をさかのぼれば、“石高”制度に基く“年貢米”としての租税に行き当たるであろうし、現憲法が制定されたときにおいても、旧憲法の時代から存在していた財政という国家の仕組みが新憲法下の国政に引き継がれたです。かくて租税制度が長い歴史に根ざしたものであり、いかなる国家にとっても国家の土台を形成する制度であることを私たちは十分に留意すべきでしょう。しかしまさにそのような歴史経緯を視野に収めつつ、「国民の厳粛な信託」にとって租税制度がどのようなものであるべきなのか、その位置づけを真正面から問うべきです。なぜなら国民が租税制度にどのように関わるのか、関わっているのかという国政の問題こそは、その国の主権が真にどこにあるのか、その国の統治の実体がいかなるものであるのか、ということをもっともはっきりと、
しかも驚くべきことに、租税に関する定めをみると、日本国憲法は明治憲法と事実上同一文でさえあります。(旧憲法、“大日本帝国憲法”にも21条で納税義務が、62条で租税についての規定がみられるが、その内容は現憲法と同一である。とすれば、こと租税に関する限り、日本国民は、明治以来このかた120年以上、同一不変の憲法、同一不変の国家統治思想の下にあるということか。)
実体的なるものとしての「国政」が、財政的に支えられているということは、その段階ですでに租税制度を前提としているというこでもありましょう。財政は税の裏面としてのみあるものだからです。とすると、国政が国民の信託によるものであるとしても、この関係性は、その内部に一種の矛盾を内包しているともいえます。国政は国民の信託によるといいつつ、その国政はすでに租税という権力作用を伴う国政行為を先取りしているからです。このことをどのように考えたらよいのか。これは、実体としての国政がその存立性の局面で租税制度を必要としているということと、憲法前文にいう国政への信託関係とを切り離してとらえる必要があるということではないでしょうか。つまり一口に国政といっても、それが実体的に意味するところの国政状況や国政様態にはさまざまな段階があるものであり、それらをすべてひっくるめて同列に論じ、同段に扱うことはできないということです。
しかし国民が、この租税制度の継承を受け入れるとしても、ここで重要なことを見過ごすべきではありません。それは、新憲法の成立とともに主権の所在も移動したのであれば、租税や財政のあり方も根底的に変わらなければならないはずだということです。それは主権原理の下、租税と財政が国民と国政の権利義務関係において国民によって統制されるということに他なりません。現憲法が旧憲法を色濃く
それゆえ私たちが今日、租税や国民と国政の信託関係という概念を国政を説明するための万能原理とするのではなく、その反対に、信託関係そのものを、権利義務関係としての租税と財政との関係性を国民が実体的に統制することによって可視化し、検証可能しなければならないのです。
加えて、この「国政」に対する財政負担は国民の納税によって支えられている、という事実を軽視すべきではなく、それどころかそのことは国民にとって、「国政」のあり方を規定する基礎概念として、「国民の厳粛な信託」と同じような重みをもって受けとめるべきであると考えるからです。「国政」とは、「国民の厳粛な信託による」ものであると同時に、“国民の財政負担によるもの”でもあること、このことも確かなことなのです。もちろんここでも国民の厳粛な信託を万能の国政説明原理として使えば、“財政は国民の信託による”と考えることもできます。しかし国民による財政負担とはすでに見てきたように、国民と国政機関の権利義務関係性において成立するものなのでした。すなわちこの財政施策、事業の原資は、租税の徴収というそれ自体が国政行為のひとつであるところの国家機関による強制的行為によって遂行されるものであり、それゆえ国政としての財政は国民にとって、納税義務の反射としての権利性においてとらえられるべきものでもあったのです。
しかも社会的関係としての権利義務関係は、この関係の当事者双方が、権利や義務の実体的なあり方をともに了解し、ともに受け入れることで成立する社会関係であって、この権利や義務の規定内容の決定を包括的にどちらか一方が他方に委ねたり、信託することはできません。そうなるともはや権利義務関係ではなくなるからです。従ってまた、私たち国民は、「国民の厳粛な信託」という言葉を理念的、観念的にとらえることによって、そこから国民の国政機関に対する財政負担を無条件の納税義務として導き出すことはできないのです。もし信託の語を底に適用するならば、信託関係とはあくまでもこの相互の了解性の成立を踏まえた上でいわれるべきことでしょう。
いうまでもなく国民は国政(機関)に対して、主権者としての立場を保持しているのでした。そうすると権利義務関係としての租税と財政の関係性を、国民がその財政権を介して具体的に統制する過程は、まさに国民が「国政への厳粛な信託」を単なる抽象的な観念ではなく、検証可能な社会関係として実体化することのできる格好の実例であるといえましょう。
絶対無条件的な国政への信託関係がまずあって、しかる後に、この信託関係に委ねられるようなあり方で権利義務関係としての租税と財政という国政行為が成立するのではなく、あくまでも国民がこの権利義務関係としての租税財政行為を統制することによって、「国民の厳粛な信託」は国民と国政との実体的な社会関係としての内実を獲得するのです。
さてそうすると、「私たち国民は、国政機関への財政負担をどのように納得しているのかいないのか」という問いを、果たして私たちは自分自身に投げかけることができているのか、という問いこそまず最初に問われるべき問いであるかも知れません。そしてもしそれができていないとすれば、なぜそれができていないのか、なぜその問いが問われていないのか、その原因のなかにこそ「国民の厳粛な信託」をめぐる根源的な問題が見出されるべきかもしれません。
それができないとすればその理由のひとつは、私たちが財政を国政に対する国民の権利の問題としてとらえていないからでしょう。そしてその原因のひとつは、明らかに憲法が国家における財政のあり方を、国民の権利という視点からとらえていないからです。そしてさらにまたその原因のひとつは、租税を単なる個々の租税に対応する租税法律によってばかりでなく、租税全体のあり方において包括的に規定する視点を持たないからでしょう。
それゆえ「国政」の信託と「国政」の財政負担は重層的に絡み合いながら構築されています。ではそのように理解しないとどうなるのか。その場合、権利義務関係としての租税財政関係も信託の名のもとに国政機関によって一方的に統制されることとなります。国民の納税義務はその裏面としての財政権を失って、国民はただ一方的に国政の自己都合だけで義務拘束されることとなるでしょう。しかし明らかにこれはおかしなことです。民主制とは国家権力が不断に国民からのチェックを受けることであり、信託関係についても例外ではありません。絶対的、不可浸の信託関係がまずあって、その上に国政による租税財政制度が構築されるわけではないのです。国民の国政への信託とは、国民の納税義務だけではなく、国民の財政権によっても支えられ、承認されなければならないのです。
しかし国民の納税義務が憲法上の義務として確立しているのに対して、国民の財政権は憲法上の権利として確立してはいません。ここにいう国民の財政権とは、国会が議決した財政予算のことをいうものではなく、国会を含む国政機関の財政的なあり方を、主権者であり納税者である国民の立場から財政統制したものをいいます。その規範拘束の水準は、当然法律レベルではなく憲法の水準に求められるべきものですが、現行の憲法には、租税全体のあり方が国民と国政にとってどのようなものでなければならないのか、租税のあり方が租税の裏面としての財政においてどのように関連付けられなければならないのか、といった視点からの規定はないわけです。その結果、私たちは憲法上の規定において、租税全体がどのようなものでなければならないのか、租税全体が国民や国政にとってどのようなものでなければならないのかについてなにも知識をもたないのです。そのかわりに私たちは租税や財政を、国民の厳粛な信託のもとに、国政に委ねるしかないと考えているのです。これらの当然の帰結として、財政を主権者国民の国政に対する権限の問題としてとらえる視点や考え方は、ひろく社会のなかにも、公法学という学問のうちにもほとんど見られません。
また国政に委ねる以前にという意味は、財政の問題を国政への信託によって国政に委ねるその以前に、国民と国政との間の権利義務関係という視点からとらえるということです。この権利義務関係という枠組みとは別のところで、この枠組みに拘束されることなく、国民が国政機関に財政を白紙委任するということはあり得ないのです。
しかもこの権利義務関係性において私たちは、今度は租税を財政の視点、財政のあり方からとらえ返すことができるのですが、そのようにして国民は租税を単なる義務で終わるものではなく、財政権としての権利の視点からとらえることができるようになるのです。
ようになるからです。そして租税と財政をめぐる国民と国政との関係性は、国家統治における最重要問題のひとつであることから、この関係性についての規定を、憲法上の
私たちが租税を、財政と一体的な複合的、包括的な国家作用としてとらえれば、税における国民と国政の関係性は一方的な義務関係で片づけられるものとはなりません。なぜなら、租税が財政事業を支える国政の手段としてある限りにおいて、国民の租税に対する関係性は、国民の財政施策に対する権利や権限の側面からもとらえられるべきだからです。
義務としての納税は、この包括的な国政行為においてその半面に過ぎず、しかもこの国民義務は
租税が財政を支えているということは、租税をその全体性においてとらえたときに言い得ることでしょう。また両者のあるべき関係性についてもやはり、租税のあり方を包括的にとらえることが必要でしょう。
租税がその包括的な全体性において財政としての国政を支えるとしても、では租税はどのようにして財政を支えるのか、ということが次に問題となってくるでしょう。
という関係性
もその裏面に見出されるべきです。それどころか、考え方の順序として、この関係性は租税の賦課徴収に先立つものであるといってさえよいことでしょう。なぜなら最初に先ず、財政のあり方が国民にとって受容できるようなものであることが、国政がそのような財政要請に基いて国民に税を課すことの根拠となるからです。
主権者である国民が租税のあり方を統制するという契機はそこから生まれません。
ここで問題となるのは、国民代表議会に国民の意思が負託されているとしても、この議会が社会的に独立した自律的な組織体である以上、この議会そのものを、法律制定を租税制度において、根底的に規制する国民意思、主権的意思が必要なのではないか、ということです。
租税と財政は一体的なものであり、国民が財政を統制するとういことは、国民が財政の財源としての租税を統制するということでもあります。つまり租税は単に納税義務としてばかりでなく、財政の統制権という視点からもとらえられるはずです。税をめぐる国民と国政の関係性は本来、この二つの側面を押さえることによってはじめて、主権原理と整合し得るものでしょう。
もしこのような規定があくまでも財政についての規定であって、租税についての規定ではないという意見があるとすればそのような主張は、租税と財政が国政において不可分の一体的なものである、という基本的な国政原理を理解できていないことを吐露しているも同然です。なぜなら租税がまずあるのではなく、まず財政の需要があり、この需要に応ずるために租税があるからです。
私たちが租税のあり方をその全体性において認識し、統制することができなければ、私たちは財政のあり方を統制することもできません。私たちは租税の全体的なあり方を統制することを通してのみ、財政のあり方を統制することができるのであって、財政を租税の全体的なあり方から切り離して、財政だけを単独的に統制することはできないからです。
国民の担税力に一定の限界がある以上、合成の誤謬としての租税もあり得ます。憲法は全体としての租税負担、つまり国民負担率としての租税が国民社会、国民生活にとってどのようなものでなければならないのか、という側面については規定していないのです。
このことは逆に言えば、少なくとも憲法を介して国民は、租税をその全体性において、租税制度の包括的なあり方において統制することはできないということでもあります。
とはいえ、国民が全体としての税のあり方について論じ、判断することができるためには、税の目的である財政のあり方をどのように評価し、統制するのかという議論どうしても必要です。
だから全体としての租税についての規定がないことは、そのことの反射として、国民が全体としての財政のあり方を租税の視点から統制することができないということに他なりません。
それゆえまた、両者間の相互的な関係性は、ことばの広い意味で、これを一種の“権利義務的な関係性”、としてとらえることもできましょう。国政(機関)は税と社会保険料において、“自分は国民を拘束する権限をもつが、国民から拘束される義務はまっぴらだ”、というわけにはいかないのです。そうではなく、国民と国政はそれぞれ、この国民負担率において、権利と義務の両面を相手に対してもつことで、相互的、双方向的に拘束されているのです。
繰り返すと、私たちが国民負担率のあり方を納得できるかどうかは、その率の高低だけによるものではありません。それに加えて、租税の裏側にある財政のあり方が、主権者である国民の意思に沿いつつ効率的、国民福利的に統制されているかどうかも重要です。そしてこの統制には、国民が国政のあり方を、国政機関それ自体の財政費用的なあり方で方法統制することも含まれます。ではなぜ国会ではなく、国民による統制なのか。国民は国政を信託すべきではなかったのか。
まず、この費用の支出対象は、国会を含む中央と地方の国政機関組織に限られるので、国民一般は費用の対象外です。とすればこの経費は、純粋に国政内部の問題、事案であり、国民がその費用内容に立ち入って要不要や適否を、国民自身の問題として主張することは本来できないはずです。間接費用とは、直接費用による行政事業を多面的に支えるためにこそあるのであり、その予算の意義と目的は、そこでの補完的な機能として尊重されなければならないはずです。
他方しかし、そうであるからといって行政間接費用を国政機関任せにするとどうなるか。歳費、給与、諸手当をはじめとするさまざまな人件費から、用地・不動産の取得費、施設管理費などの間接コストを、国政が何者にも干渉されることなく自己決定できるとなるとどうなるか。その場合おそらく、いわゆる“お手盛り”や甘い査定、自己優先的な予算配分、などを排除することは困難でしょう。(大企業のなかには役員の報酬額の決定を、外部の報酬委員会に委ねている会社がありますが、これも同種の考えに基くものでしょう。) そのような状況下で、なんらの費用原理の方法枠組みもなしにこの間接コストが要請されると、その予算総額は勢い単純積算による青天井となるでしょう。“何を根拠に”、と問われるならば、東京都の23区制がまさにそれでしょう。民間企業であれば100人くらいでやりこなす仕事を、区役所を乱立させて1000人がかりで行うことは、納税者にとっては受け入れ難いことです。このような状況は、国民負担率を必要以上に高止まりさせる原因となるものであり、納税者都民によって変革され、統制されなければならないはずです。
ただし、行政自己決定による行政間接費用の策定で、国民の目から見てさまざまの不適切やモラルハザードが問題となるのは、それがお手盛り的、自己優先的予算獲得を引き起こすからだけではありません。より重要なことは、“財政における行政直接予算と間接予算の両者は、財政効用の国民視点からみて、トレードオフの関係にある”、という財政の基本構造についての気付き、問題意識です。トレードオフとは、二つの事象が同時に成り立たない関係情況にあることを指していうものですが、財政の原資である税と社会保険料収入が一定である以上、直接と間接の二つの予算を同時に増やすことは出来ず、それぞれの予算枠はもう片方の予算の増減、動向によって、直接の影響を受けます。これは、仮に私たちが、そのような視点から財政をとらえることがなくとも、その自覚の有無に関係なく、財政効用の水準はこの関係構造によって規定されているということです。例えばある地方自治体が、高名な建築家に依頼して公益的な必要目的をはるかに超える予算と内容で − 住民の大多数が、地域の住民税の歳入規模からは乖離しているとみなすような予算規模で − 庁舎を建て替えれば、そのような間接費の支出は必ず行政施策のどこかに、いわば住民にとっての“遺失福利”として、何らかの作用を及ぼさずにはすみません。地域住民の経済力と釣り合わないような高額な公共建造物を建てることは、住民の生活に直接結び付くさまざまな公益的な施策の実現可能性と、− 公立病院の存続、域内森林の保全環境整備、学校教育活動への資本投入、無電柱化事業の促進など − 財政全体のなかでトレードオフの関係にあるからです。もっともこれなどは、分かりやすい間接費用の事例なので、住民の容易に知るところとなりますが、その大半は知られることさえないのが実情でしょう。(この視点から、自治体公共建築物の総ざらいの評価をするべきでしょう。) また、上は政府内閣から、下は末端の行政ユニットにいたるまでの行政組織が、“緊縮財政”の必要を訴えて、さまざまな施策を財政的に引き締めようとするとき、もし国民が行政間接費用の負担割合を知らなければ、それが本当に必要なものであるのかどうかを、自分たちで判断することさえできないでしょう。こうして行政間接コストからの財政要請が大きくなると、その影響は行政施策にまで及びかねません。果たして、行政が税収を増やそうとして、強引な宅地造成をしたり、カジノ施設を誘致しようとすることなどの背後にも、このような問題状況がないと断言できるでしょうか。そんなことはない、と言う人はよほどお目出度い人間です。つまり、そこにいう税収の確保とは、本当のところ主に行政間接コストの確保であるかもしれないからです。無論そのことが行政に意識化されることはないであろうし、指摘されても否定するでしょう。しかしその否定は、二つの費用の割合を明示しない限りは住民にとって十分な説得力に欠けるものです。
そもそも住民(国民)が財政予算に占める行政間接費の割合上限を、あらかじめ方法的に統制していれば、行政が行政自身のために予算の大判振る舞いをすることもないし、住民にとって納得性の低い、商業主義に傾いた施策や開発投資を行って、住民が不審を抱くことも起らないのです。行政は、必要最小限の陣容で、最大限の財政施策を住民の福利実現のために投入できるはずであるし、投入すべきなのです。そしてこのことは、決して国民が国政を厳粛に信託することによって実現されるわけではありません。いずれにせよ、二つの行政費用の配分比率についての認識や目配り関心は、私たちがひろく税制や財政の方針や方向性を論じる際に、− 緊縮財政においても財政の出動においても − それら議論すべての基本枠組み、ファンダメンタルズをなしているのであり、この認識理解を欠いたいかなる財政論議も認知的遺漏のそしりを免れません。そのような類の議論は、納税者の視点から見れば、社会を見る視野の狭さに加えて、国政統治論として底が抜け落ちています。例えば、国民健康保険制度に占める行政間接費用の負担率は、かつて人口に膾炙したことすらありませんが、民間の企業であれば事業間接費の算定を除外したままでは、いかなる種類の保険商品の保険料も算出できないはずです。(公的な社会保険制度は私的利潤を求めていない、という指摘は反論にならない。国保制度も財政の効用性や国民の福利という社会的価値、公共的利益に拘束されているからだ。)
二つの行政費用の関係性如何、その比率のあり様は、財政が果たす国民福利の実現内容と密接に関わることから、財政構造が内包するトレードオフの費用関係性は、私たち国民に国政への信託というよりも、むしろ国政の監視、国政の統制を要請しているはずです。すなわち、両者間の関係を適切に統制することは、主権者である国民がこれをいわば“主権的財政権”として掌握していなければならないはずなのです。(もちろんそのためには、適切な関係性とはどのようなものであるかを国民が知っていなければならないわけですが。)
再度しかし、トレードオフの関係性を認めたその上で、行政間接費用の扱いも“国政”に委ねるべきであるという主張があるかもしれません。ではなぜそれはできないのか。それはまず、国政原理の根拠としての国民代表制統治の視点からみて、行政間接予算を策定する行政府が、納税者としての代表立場を持たないこと、さらにはこの予算案を受けて、「国の財政を処理する権限」(憲法83条)をもつ国会さえもが、ここにおいては主権者の意思判断を全面的に代位することはできないからです。これは、国民一般と国政の間には、行政間接費用に対する根本的な“社会的関係”の違いがあり、そのために国民は少なくともその局面では、国政を無条件に信託することが困難だからです。国政への厳粛な信託はここで、根源的、原理的な困難に直面しているからです。
では、行政間接費用に対する“社会的関係”とは何か。当然ながら、“国政”の背後には必ず国政を動かす人間、つまり公務員や国会、地方議会の議員(「特別職公務員」)がいます。そして、これら国政(機関)を支える一人ひとりの公務員も国民であり納税者です。しかし私たち国民が、“税の裏面である財政において、財政(税)の効用を最大化するために、行政間接費用のあり方はどのように統制したらよいのか”、という課題に納税者の立場から向き合うときに、納税者としての公務員の考え方や視点は、一般国民のそれとは切り離して別にされるべきです。なぜなら、公務員が払う税や社会保険料の原資は行政間接費用であり、所得の原資も当然この行政間接費用であるからです。つまり、一個の職業人、一個の社会的存在者としてこの予算のあり方と、直接の社会的関係をもつからです。行政間接費用によって支えられる議員や公務員の定数も、この費用によってもたらされる快適な職場環境や労働条件も、そこで雇用される公務員にとっては少しも間接的なことではなく、直接当事者としての問題なのです。であるがゆえに、“財政が国民に対してもたらす効用は、どのような行政費用の比率構成において実現されることが望ましいか”、という課題に対する納税者としての立場も問題意識も、両者間では根本的に異なります。むろん待遇の快適さは多種多様であり、費用のあり方としてそこに線引きをすることは誰にとっても困難なことです。しかし、これらの間接費用のあり方や、直接費用との兼ね合いなどの問題は、あくまでも納税者である一般国民の立場から、公共的、公益的なマクロ財政コストの問題として、一括的、方法的に扱われなければならないはずです。国民行政間接費負担率はその方法の一例でした。他方、公務員にとって行政間接費用の縮減は、それがいかなる理由から実現されるにせよ、組織全体としても、一個の生活人や職業人の立場にとっても、利益相反的な事態でしょう。ただしここにいう利益とは内容的に、conflict
of interests の interests でもあり、単なる“損得利害”のことではありません。それはなにより、“行政費用が目的とする福利や公益性とは何か、私たち納税者はそれをどのような予算のあり方、予算の構築性によってより良く社会実現することができるのか”、ということについての“関心”であり、問題意識です。そしてそうであればこそ、公務員の意思だけによってこの行政間接費用のあり方が自律的に決定されるべきではありません。予算の策定者自身が、行政間接費用と直接的な社会的関係によって拘束されている限り、行政間接費用に対する意識や関心のあり方も、当然この社会的関係によって決定的な影響を受けないわけにはいかないからです。したがって、“国政”が、一般国民と同一の立場に立って、一般国民の社会的関心や利害関係の視点からこの費用を予算策定することは、社会関係的、社会原理的視点よりみて不可能なことなのです。
(公務員が加入する公的医療保険制度や公的年金制度は、公務員共済制度として包括的に制度設計されているものですが、この制度において、被保険者が負担する保険料(「料率」と呼ばれていますが)とは別に、国や地方公共団体が共済組合を通じて財政負担する部分は、民間の厚生年金制度や健康保険制度では雇用主である企業が負担する部分に相当するものでしょう。そしてその原資も、言葉の広い意味では行政間接費用とみなすべきです。その財源は、国保被保険者を含む一般国民が払う税金以外の何者でもないからです。それゆえ、医療保険制度について言えば、この部分についての財政支出のあり方も、国民皆保険制度における被保険者側の応能負担での水平的公平性という視点から、一般納税者、すなわち共済以外の各種制度被保険者からの理解を得られるように統制されるべきです。一般国民は保険料を税として徴収されているのですから、行政間接費用によって支えられている共済組合が、そこからの拠出金のあり方によって、共済組合員とそれ以外の被保険者との間に、同一所得水準での保険料格差を生じさせてはならないのは当然のことです。− たとえ国や地方自治体の行政間接費用財源がどれほど豊かであるとしても 、です。そこにおける拠出のあり方は、税金によって支えられている共済保険組合の財政負担能力の大きさによってではなく、応能負担の公平性という租税原理の地点から、いわば逆算的に、恣意的な行政裁量権(行政間接費用裁量権)を排して決められなければならないのです。もっとも原告がこの裁判で実証したように、現実には共済と国保の間に大きな格差が生じているわけですが。
ともあれ、国民がこのような視点からも行政間接費用を統制管理することによってのみ、我が国の社会保障制度は、国家財政における社会公正的な取扱いを通して、制度横断的に公平、公正な包括的社会制度へとなってゆくのです。国民が国政に対して、国民の一人ひとりを、公務員であろうとなかろうと、さまざまな意味での社会的関係性に関係なく、真に社会公正的に、行政費用公正的に扱わさせることによってです。そしてそれを財政的に最終統制し得るのは国政でなく、主権者国民でしょう。)
ここで国政原理としての民主主義を、“主権者である国民が国政行為に対する承認の根拠を、国民代表議会の当該議決行為において確認し受け入れる政治制度”、と大まかにとらえた上で、国政としての財政行為(予算策定行為)を考えてみると、上で論じた財政における行政間接費用の取扱い問題は、まさに国会の議決を根拠とする国民の国政過程への信託という政治原理に対しても、私たち国民に根底的な再考を促しているように思われます。
確認すると私たちはたったいま、行政間接費用に対する国民、および国政機関のそれぞれの社会的関係のあり方についての検討から、国家財政の執行のうちには、国民が国政への厳粛な信託に全面的、無条件的に委ねるだけでは済まされない領域のあることを論じたのでした。その主張根拠は、行政間接費用の策定に関わる財政権に対しては、“社会的関係性”の視点から国政に委任することはできず、− 国民代表議会に委任することはできず − 納税者としての国民自身がこの間接費用のあり方を統制しなければならない、と考えたからです。つまり、国民を国民負担率によって租税拘束する国政(機関)の財政的なあり方を、こんどは国民が財政の効用的、国民福利的視点から、国民負担率そのものを介して、国政機関の外部から拘束し返さなければならない、と考えたのでした。そうするとこれは国民が、そのようにして税と財政のあり方を、国民の立場から一体的に掌握し、相互照応的に方法統制することができたときに初めて、主権者であり納税者でもある国民は、国政による徴税権と財政権の統治権行使を、国民への一方的な権力行使としてではなく、国民による国民への自己統治として − 民主制のもっとも核心的な意味規定性における発現において − 包括的に受け入れることができるのだ、というふうにとらえることができましょう。国民によるこの財政統制権の確保と掌握は、語の真の意味における財政民主主義の実現、つまり財政行為における国民意思の実現にとって必須の要件なのです。
その反対に、この意味における国政(機関)と国民との相互拘束的な作用関係を欠いたままでは、たとえ国政が行政間接費用の策定過程を法的に説明し得たとしても、それだけではそこに国民による自己統治の契機を必要十分に見出すことは困難です。なぜなら、そのような法令は、立法府および行政府としての国政機関が、国政の組織内部の財政論理から、この費用対象の当事者自身としての論理や要請、そして“社会的関係”に従って法構築しただけのものだからです。その場合、たとえそれが法律や法令としての制定手続きを完全に満たしたものであったとしても、この法律内容のうちに国民代表性の実体的な足跡は見出せません。財政民主主義、あるいは財政の民主的な統制を、そこに確認することもできません。もし国民が国政(機関)による予算案過程や予算立法過程を信託することができるとすれば、あくまでもそれはそれらの過程に先だって、前国政的に、国民が国政機関自身の財政的なあり方を、行政間接費用の財政配分において方法原理的に統制することが出来ており、かつ予算の策定から議会議決にいたる国政過程が、この統制の枠組みを遵守し、ふまえている場合に限られるのです。これは、国家財政のあり方において、国民の国政への厳粛な信託とは、決して無条件的、無媒介的なものではあり得ないということでもあります。財政行為としての行政間接費用の取扱いに関しては、国政側に全面的な委任権や決定権があらかじめ確保されているのではなく、国民の側に決定権と統制権が帰属していると考えるべきだからです。これが財政の主権的統制、財政の民主的統制の要請根拠であり、それは国政原理としての国政への「国民の厳粛な信託」そのものを拘束し、制約しているのです。
(その実現方法はさておき、国民負担率を介した行政間接費用の上限統制が、国や地方の財政予算のなかでどのように目標設定され、どの程度に達成実現されているかを見るということ、これこそが、納税者の視点からみた財政民主主義の到達の度合いを、それらの客観的な数値や指標において証するものであり、国民自身に突きつけることである、ともいえるでしょう。)
税と財政が一体的なるものとして構造的、規範的に関連付けられ、少なくとも財政のある部分に対しては、国政の外部から国民の意思によって統制されなければ、議会を含む国政としての社会的人間集団は、多くの閉鎖的な意思決定集団が通常そうであるように、自らを客観的にとらえて自己規律することがどこかでできなくなり、結果として、国や地域の財政は、際限のない債務の膨張と、もはや国民の福利のためと言うことも困難な、止まることのない増税に向かって突き進んでゆくだけです。しかし国民にとってもっとも憂慮し危惧すべきは、徴税権によって歳入を保障された行政(人間集団)が、そこで世の中の経済感覚や社会的感覚、現実感覚を失い、一種のアノミー(規範意識の喪失状態)に堕してしまうことです。それは行政(人間集団)が、社会の現状や将来を真剣に展望し熟慮することなく、目先のことばかりにとらわれて、ただ予算を機械的に執行消化したり、与えられた行政課題を自分たちの在任中に大過なく遂行することをもって全目標とする、というような意識状態に陥いることです。このアノミーは例えば、いかなる財政情況や経済環境のもとでも、自分たちの給与だけは常に増額するというような利己的、刹那主義的な財政支出から典型的見てとれます。 一体なぜそのようなことができるのか。そのような行政判断は現在の我が国をみれば、全体への奉仕者として、もはや理性的な判断力を失っているわけですが、それらの一連の行政行為が、すべて法の定めや法の手続きに従っているということについても、私たちはこれを国家統治の視点から真剣に考えなければならないでしょう。(いくぶん飛躍した、個人的感想ですが、東京都が、高濃度の土壌汚染を知りつつ豊洲の新市場建設に踏み切り、土壌改善対策費として600億円を投じたことも社会感覚、経済感覚として理解できません。それは現実感覚の喪失 − まさに英語で言うところの “out
of touch” − であり、東京都がそこでこの費用に疑問を抱くことさえなかったことに戦慄さえ感じます。)
翻って、さまざまの国政組織や国政事業のマクロ的レベルの予算総計が、政府一般会計や特別会計予算の現状にみるごとく、国民全体の担税力をはるかに超えている理由はなんでしょうか。それは、国政が自身の裁量的行政判断を縛ることになるような財政規制規律を斥けているために、そして国民がこれを黙過しているために、マクロ的財政運営のあり方が、あたかも糸の切れた凧のように、予測も統制も不能な状態に陥ってしまっているからではないでしょうか。じっさい、多分に行政操作的に条件設定された基礎的財政収支目標である「プライマリーバランス」 − これは減債政策ではないどころか、債務の利払いさえ手当てされてはいない − でさえ政府は実現できてはいません。 ただしここにいう財政規律とは、一義的に定義できるようなものではなく、多様なあり方で国政や行政のあり方を拘束するものです。それはその規律の不在においてはじめて認知されるものであり、敢えて言えば、国民の目から見てなんらかの“歪み”や“緩み”として感知されるものです。国政ではありませんが、東京都における一律10%の住民税や、23区制度も巨視的にみればそのひとつであるといえるでしょう。またこれが、決して法律上の問題ではないということも重要です。それどころか、この歪みや緩みが法令に基いているということこそ国民にとっては問題なのです。国民のミクロ的な担税状況が財政のあり方を規律すべきである(であった)、という事例をひとつあげましょう。それは、わが国の公的な年金制度で著しい世代間格差が生じており、今やその将来財源の確保さえ危ぶまれるにいたったその原因は何かという問題のことです。これは決して人口構造、人口動態の著しい変化や(年金保険料を払う人口と年金を受給する人口の構成比の変化)、経済成長率の低下に起因するものではありません。そうではなく、旧厚生省が制度の発足当初に年金制度の運営原理を浅慮にも、積み立て方式ではなく賦課方式としたために、年金保険料と給付年金の実体的関係(ミクロ的な保険料負担とマクロ的な財政給付支出との実体的関係)を、世代間を貫いて一定範囲の安定的な比率、給付条件で持続的に統制実施することに失敗したからです。つまり、“世代間の扶助”という一見もっともらしい考えを、不適切な仕方で年金の運営方法に適用した結果、制度を行き詰まらせ、国民の基本的な信頼さえをも失ったのです。この失敗は十分に予見することのできた失敗であるがゆえに行政は厳しく批判されるべきであり、− 厚生省は何のために「人口問題研究所」(設立は1939年)を附属機関として設置したのか − 私たちは結果としてここに、国政における財政規律の欠如と財政政策の歪みを目撃するのです。
すなわち財政の規範性とは、納税者としての国民の視点よりみた租税に対する規範的要請の裏面的帰結に他なりません。国民が負担する租税や公的社会保険料とは、「国政」にとって単なる財源ではなく、財政構造や行政組織、行政事業のあり方など、国政および地域行政的なるものすべてを拘束する規範的制約性おびた社会資源、あるいは公共的社会資本なのです。この社会的資源としての国民負担が国政に求める規範的要請とは社会的、政治的、行政的、経済的な要素や背景からなる複合的なものであり、政省令を含む単なる法令制定性によってのみ根拠づけられるようなものではありません。またこれらの規範的要請が国政において十分に尊重され、実現されているかどうかの判断は国民によって下されるべきものです。なおそのさいに、財政における収支の均衡性も、租税に内在する規範的拘束力の要請として重視されなければならないでしょう。それは、“国民の財布がひとつしかなく、その担税力にも一定の限界がある以上、国も地方も合わせて、一般と特別の会計区別もなく、すべての公的財政需要は事業費と組織運営費の両方とを、このひとつ財布でやりくりしなければならない”という社会的枠組のことです。そしてこの規範的要請命題に対して行政裁量権の入りこむ余地はなく、法令制定権さえこれに統制されるべきなのです。
憲法の前文は国政について、「その福利は国民がこれを享受する。」と断じますが、上で触れた公的年金制度をここに重ねると、この制度による福利が、特定世代の上に偏重することなく、多世代にわたる国民の上に可能な限り均等的に及ぶためには、客観的に判断して、同制度を近視眼的な発想に基く賦課方式ではなく、積み立て方式によって運用するより他に選択はなかったはずです。このようにとらえると、公的社会資本としての年金保険料やその運用方法を制約する社会的規範性が、単なる観念的なものではなく、いわんや所管行政庁の裁量に委ねられたものでもなく、主権者国民の福利 − 制度設計者や目前の受給世代だけではなく、遠く離れた将来の受給世代にも及ぶ福利 − という実体的な価値によって厳しく統制されるべき実体的な社会規範性としてあったことがはっきりとします。つまりここにいう規範性とは時間的な射程をともなう規範性なのですが、我が国の財政が長らく単年度会計あることのいわば近視眼的な思考習性が、そこで弊害として影を差しているようにも感じられます。しかし私たちの多くが、家計を長期的な視点でとらえているように、国家の財政に対しても、本当は時間的な思考枠組みが必要なのです。(厚生年金と国民年金は現在、独立行政法人によって運用されていますが、積み立て方式で制度出発していれば、そもそもこれをリスクを伴う投資で運用する必要など始めからなく、運用に失敗して巨額の赤字を出すこともなかったのです。こんなことは経済のイロハでしょう。)
しかしこの社会には現下のところ、思考の道具概念としても、実体的な社会制度としても、国民個人の担税力から、マクロ的な財政状況としての国政のあり方を、同一の思考平面上で補足し、統制するための社会的媒介物が皆無であるために、ミクロ的な国民視点からマクロ的な財政問題に接近し、これを拘束するという社会的統制機能が完全に欠落しています。(公的年金制度も例外ではありません。)このことは例えば、学問としての「租税法」と「財政学」が内容的に完全に切り離されており、租税学が租税の視点から財政設計の規範的、均衡的なあり方やその実現方法についての考察や発言を行わないことからも見て取れます。これはおそらく、租税規定を国家財政の裏面的要請であると同時に、その裏面的制約、裏面的被拘束性としても把握したうえで、租税の賦課を財政の一方的な要請論理や徴税権の一方的な行使によってではなく、国民の担税力(国民負担率)の合理的水準や、主権者国民の国政統治的(国民福利的)視点から包括的、“自律的”に最適化し、さらに今度は、そのようにして国民の適切な担税力水準によって統制された租税規定(国民負担率)をして、財政要請の水準を歳入均衡的に最適化し、統制するための外部条件や枠組みとしてあらしめ機能させうるような、そのような租税制度と財政設計の両面的、相互作用的探求を行うことは、これらの学問の研究方法でも研究対象でもないと現在のところ考えられているからでしょう。しかしそのような相互参照的、相互反照的探求のみが、租税と財政をふたつの分離独立した国家作用ではなく、ひとつの統合的国家作用のふたつの側面としてとらえ、その結果として、包括的、適切に国家財政を統制することを可能にするのです。
なぜなら、租税(国民負担率)は一方では国民にとり適切な水準でなければならず、と同時にそのような水準での賦課において、国政は国民の求める施策に可能な限り応えていかなければならないからです。この困難な課題に取り組むにあたって、国民の租税負担能力(国民負担率)による統制なき財政設計も、財政要請に対する主権的統制を欠落した状態で算出される租税規定(国民負担率)のあり方も、ともに片翼的、不十分であるし、そればかりか国家財政(規律)を歪め、我々の子孫に不当で理不尽な負債を押し付けるだけです。しかし租税は国政が国民に課す命令規定である同時に、国民が国政としての財政要請のあり方を根本的に統制する国政の基底的な枠組みでもあるのです。とすればこれらの相互抑制的作用、相互拘束的作用の必要認識に基く、“財政租税学”、または“租税財政学”の立場こそ、国民が租税や財政をとらえるさいの基盤的視座となるべきものでしょう。
(実は、この裁判で争った国保保険料の格差問題も、ミクロ的な租税負担の問題とマクロ的な財政問題の両側面が交錯することによって生み出されたものです。そこにおいては、被保険者におけるミクロ的な租税応能負担としての公正性の問題が、共済と国保という二つのマクロ的な保険財政制度の分離、分断作用によって非可視化されているわけです。この非可視性はしかし、「地方税」としての国保保険料が、共済保険料ともども行政庁の「税務課」において一元的に取り扱われることになれば、ただちに顕在性に転じることでしょう。これを国政原則的に一般化して言うと、私たちの居住地や職業がどうあれ、公課体系としての国民負担率は、“法源”が同一である限りにおいて、− 地域ごとの住民税や職業別の社会保険料などもそうでしょう − 同一所得水準において水平的に公平な賦課であるべきなのです。このことは、地方自治の原則となんら法的齟齬を発生させるものではなく、そのことを理解できないような行政府は、率直に言って頭脳なき機関です。)
ここにみられるような、租税をめぐる思考的被拘束性の社会全般的な傾向のために、個人としての国民は抽象的、概括的な政策大義や公益観念のもと、「国政」の命じる住民税や消費税、社会保険料などを言われるがままに支払うよりほかありません。マクロ的レベルの財政状況は、ひとり一人の国民からは完全に遊離し、国民の統制力も、国政の自己規律力も欠落した統御不能の状況に陥っているのです。この状況は、国民が“国のかたち”、“国の骨格”を決定するための思考の方法や手段を保持していないということでもあります。
とすれば、東京であれ、どこであれ、地方自治体の役割がどれほど重要で、かつその独立性が尊重されるべきであるとしても、− あるいはそうであるがゆえに − このようにして、ミクロ的な問題認識から出発してマクロ的な財政状況に切り込み、これを統制するための社会的な判断機能が必要になってきます。またそれなしには、つまり個人の実体的な担税力が、行政間接コストを含めて、国と地方双方の予算執行状況を有効に統制し得るような社会作用の介在がなければ、国民が国民負担率を、単なる数値以上の、納税者個人における納得性において受け入れ、統制しているとは言えません。いやこの社会統制作用がなければ、「国政」自身さえもが、自分たちの財政規律的な状況を把握しているとはいえないでしょう。
そもそもなぜ国民には納税義務があるのでしょうか。それは国民のために行われるさまざまな国政事業の遂行が公共益としてとらえられ、この公益的事業を国民が財政的に負担し、まかなう責務があるからでしょう。つまり社会保険料を含む国民の納税義務の根拠とは一般に、公益的な国政事業からの財政要請(財政需要)に応じて国民の側に生じる財政負担義務、つまり「応益負担」の義務にあるとされます。(この財政要請は、国および地方政府の作成する予算書により国民/議会に提示される。) しかしこれだけでは、重要なことが見過ごされてしまいます。というのも、適切な水準でとらえられた国民のミクロ的租税負担が、財政要請の公益性のあり方そのものを抜け道を許すことなく、全体統制していなければならないからです。財政要請の根拠としての国政事業への応益負担性そのものが、特別会計を含む提示予算の全体性において、国民の合理的な財政負担能力によってあらかじめ制約されているからです。それゆえ最初に無制約的な財政要請があり、しかる後にこれが自動的に国民への応益負担の要請根拠となってゆく、という一方的な作用関係としてとらえてはならないのです。なお、財政要請に対する主権的統制とはむろん、財政収支における数字あわせのことではなく、したがって公共事業の安易な削減や近視眼的な民営化、国民の福利を削るような施策手段などによって実現されるべきではありません。それは行政として下の下の選択でしょう。そしてそうであればこそ、そこに国民の統制が必要なのです。
それにしても、租税の根拠としての「応益負担」という言葉は“曲者”です。なぜならこの言葉はふつう、その対象内容がなんであれ財政要請のあり方を包括的、統合的にとらえたうえでその「公益性」を主張するものですが、私たちはいかなる行政施策や行政組織のうちにも、なにほどかの公益性は必ず見出せることから、財政要請における公益性の存在を頭から否定することはできず、その委細内容を問いつめたり、問い返すことにもためらいを感じてしまうからです。しかし私たちは、財政要請の論拠を、そのような概括的、あるいは総花的にとらえられた公益性の様態において了承すべきではないし、財政要請の根拠や必然性を言われるがままに受け入れるべきではありません。それどころか、もし国民(あるいは地域住民)の現実的、受け入れ可能な水準における租税負担能力が、国政(あるいは地域行政)の財政要請全体を適切に規律統制することなく、国民がこの統制を社会事実として確認できなければ、そのような財政の公益性は納税者の同意なき、いわば行政の身勝手な公益性に過ぎません。その場合、財政要請の根拠としての応益負担の要請は、まさにその応益負担のあり方として正当かつ適切な財政的根拠を欠いています。なぜなら、国民の同意しうる租税負担能力による統制を受けることのない財政要請は、いま現在の国政がそうであるように、際限のない租税賦課を応益負担という大義名目のもとに国民に求め続けるものであり、しかも他方では、政府債務を歯止めなく積み増してゆくだけだからです。それゆえ、財政要請がその要請根拠として持ち出す公益性および応益負担の概念それ自体が、その負担の適理性を主張論拠として支える“財政的正当性根拠”を必要としているのです。その根拠のあるなしの判断基準とは、さしあたっては国民の現実的、合理的な担税能力がその財政要請を収支均衡的に律し、そのあり方を統制しているかどうかということに他なりません。そして、この統制作用によってあらかじめ拘束されていない応益負担とは、納税者の視点よりみて国民への財政要請の要請根拠とはならないのです。「応益負担」という概念はだから、それ単独で、国民への租税賦課や徴税権を正当化するための絶対的な論拠としてあってはならず、それどころか反対に、国民が財政要請や徴税権のありかたを実体的、内在的に拘束するための財政規律の枠組みとして、あるいはこの枠組とともにあるのです。
いま述べたことを掘り下げると、財政要請(財政需要)の根拠を納税者の応益負担という視点からとらえるさいに、行政機関の公益性を、行政機関の官制的な属性概念からいったん切り離し、両者を区別してとらえる視点も重要でしょう。なぜなら、行政機関やそれらの施策の公益性とは、それらの機関や施策が、“官制的な制度としてある”という側面ではなく、あくまでもそれらが社会においてはたす“公益的な社会機能やその実体的な活動”のうちに求められるべきだからです。
とはいえ、私たちの多くはふだん、行政機関を一律に“公共機関”と呼びならわすことで、それらのあり方を直ちに、かつ全面的に公益的なものとみなしてはいないでしょうか。行政予算(財政要請)やその予算根拠すべてを含めてです。そしてその場合しばしば、公共機関団体としての公益性とは、もっぱらこの行為主体や要請主体が“官制的である”ということのうちに、その根拠が了解されているのではありませんか。しかしながら、いわゆる公共機関団体およびその職員が、“官”としての制度組織(員)であることは、あくまでも行為主体の社会組織的属性(“属機関的な”属性)に過ぎず(団体や職員の法的身分側面も含めて属機関的な社会的属性です)、その団体の官制的社会属性そのものがひとつの価値として、しかもその価値の所与性において、何であれ財政要請の公益的根拠や、行政施策の社会的公正性 − たとえば、国民皆保険制度における健康保険料の公平性などもそうです − に価値通底的に結びつき、そのようにしてそれらを自動的、即時的に価値保障するものではありません。(司法に従事する者は、このことを肝に銘じるべきです。)
「公共性」という言葉、概念が、発話文脈のなかで使われて積極的、肯定的な価値を発揮するのは、その言及対象が何であれそれが、「公共の利益」や「社会的公正性」の価値を宿し、これらと調和するときでしょう。このことは、しばしば誤解されているように、この概念が、官であれ民であれ、ある特定の組織団体に無条件的に帰属し得るような価値概念ではないことを、つまりこの意味における公共性とは、決してそれが、“属機関的な属性概念”ではないことを意味します。それは官民を問わず、“ある組織機関である”という組織の存立事実性それ自体のうちに内在する価値としてあるのではなく、この組織が行う行為や判断のあり方をその都度確かめることで、初めていわれうることです。
公共機関の属機関的な特性とは、あくまでもそれが租税や公債(国債、地方債)などの公費、官費によって設置され、運営されているという組織の財政基盤的な社会属性のことであり、仮にそれをもってこれら機関の公共性を言い得るとしても、その公共性は公共的な利益と無条件的に同一、同義ではありません。ここで紛らわしいのは、行政間接コストと直接コストのふたつが、ともに公共性として概念把握されることで、それらが公共機関における予算の配分をめぐって、あたかも公共的利益間の分配のように扱われてしまうことです。しかし上でも述べたように、両者は公益性のあり方において別異であり、同一平面上での競合はあるべきではありません。公共機関の存在理由が国民の福利のためにある以上、行政間接コストがそれ自体において財政需要の優先目的となり、行政施策を圧迫することはあってはならないことだからです。「公共性」という概念は多面的で多義的な、それゆえしばしば人々の間に意見の対立を呼び起こすような概念でもあり、であればこそ私たちに注意深く考えることを求めるものですが、それはここでもそうです。すなわち公共性の価値を、“行政機関による財政要請の公益的根拠”という局面でとらえる場合、私たちはそこにおける公共性を、一枚岩的、単一属性的な価値として了解するのではなく、“官制的社会組織属性としての公共性”と、“社会行為的機能属性としての公共性”とを明確に区別しなければなりません。両者は公共性の価値様態として別異のものであり、公益性の価値的比重においても、その局面で等価ではないからです。
いま述べたことは、東京の都庁舎や23もの区役所が、官制的社会組織の官制建築として、どれほど多額の財政予算を費やした立派な建造物であっても、またその維持費に何百億、何千億円の税金が投入されるとしても、それが財政行為や行政施策として、都民の生活環境や福利とはほとんど関係ないことを考えれば明らかです。それだけではありません。現実には、ある行政機関が、まさにその官制的存立性において著しく社会の公益性に反することさえありえます。たとえば旧原子力安全保安院が、公共の利益のための公共機関であったという評価に今日多くの人は同意しないでしょう。というのも、保安院が実際に果たした社会的組織機能を仔細に検証すれば、同院は組織の実態的あり方としてむしろ反公益的にしか社会機能しなかったからです。それゆえその機関の“官制性としての公共性”は、保安院が本来は果たすべきであった“公益性としての公共性” − 原子力発電事業の安全性を最大限の行政監視努力と注意をもって確保すること − を伴うことはありませんでした。旧原子力安全保安院が官制的という意味で公共機関であったことは紛れもない事実です。と同時に、そこで官制的な行政権力によって遂行された数多くの業務は、日本国民と日本社会に公益をもたらすことはありませんでした。しかし、そのような公共機関の社会機能において、公共機関としての保安院のなにが社会的に擁護されるのでしょうか。単なる官制的な属機関属性としての公共性は、決してそれ自体において、公益的社会機能としての公共性を無条件的に保障するものでも意味するものでもないのです。当然その公益性は多角的に、とりわけ財政の視点や、租税や国民負担率の視点からも検討されるべきでしょう。そしてそのように考えれば、旧原子力安全保安院だけが例外的な事例ではありません。たとえば、東京都の23区制は、はたして都民にとって公益的な行政制度といえるのでしょうか。公益的な官制制度体制といえるのでしょうか。
他方、民間の組織や私的なグループ活動であっても、公益的、公共的な社会活動を行っていると認められる非営利の団体や、有志の集まりなどが今日数多く存在することはいうまでもありません。それらの非官制的活動の公益性、公共性が、非官制組織的な社会属性のゆえに、“公共機関”のそれに比べて一段価値の低いものになるわけでもありません。行政施策であれ、行政予算であれなんであれ、行政機関における公益性の実体的実現は、必ずしもそれら機関の官制的属性によって根拠づけられるものではないのです。
では“公共機関”における官制的側面とは、財政要請(あるいは財政需要)の内容としてどのように現われるものでしょうか。それは多くの場合、公共機関を官制的行政組織体として存立機能させるために必要なもろもろの事業費として現われます。そしてこれは、事業費全体のなかで間接コストとして分類できるような費目と重なり、費用として符合するものでしょう。ここで強調したいのは、私たちが往々にして行政の公益性や公共性の根拠としてとらえる公共機関の官制的側面が、国民に対する財政要請の視点からとらえれば、行政事業費の間接的なコスト面であるということです。そしてこのことは、国民に対する財政要請のあり方を国民に対する応益負担という視点から考えたり評価するさいに、じゅうぶんに注意し自覚すべきことです。無論この間接費用も社会全体にとって必要な支出であり、財政によって手当てされなければなりません。しかし同時に、この間接コストのうちに直接コストと等価の社会的公益性を見出すことはできないでしょう。したがってこの間接コストを応益負担という視点、あるいは理由から国民に請求することは困難であるし、これが必要なコストであることを認めるにしても、その必要性は直接コストのそれとは価値的に区別して認識され、行政コストとして扱われるべきなのです。
となると私たちは、行政予算の出発点である財政要請の局面で、財政要請のあり方を、公益性の基準から区分し統制することが必要になるわけですが、その区分枠組みのひとつとして、“直間比率”という概念も有効な指標になるでしょう。ただしここにいう直間比率とは租税用語としての意味、つまり直接税と間接税の比率のことではなく、納税者の視点からとらえられた行政直接コストと行政間接コストの割合のことです。この語にこのような意味合いを持たせて使う理由は、財政要請を公益性側面から検討する現下の文脈では、税の徴収経路区分ではなく、税の使途目的区分の機能としてこの語を用いる必要がどうしてもあるからです。
事実この“直間比率”(“行政費用直間比率”)の認識枠組みは、私たちが財政要請の公益性をどのようにして確認することができるのか、また高めてゆくことができるのか、という問題に直結しています。というのも、財政における応益負担の根拠、すなわち財政要請の根拠としての財政公益性とは、行政機関による施策選択や予算配分行為だけによって、行政機関単独的に決定されるよりも、それらを納税者の視点から、納税者にとっての福利や効用性(満足度)、社会意識において確認し、とらえ返すことができれば、実体的内容としても、決め方の手続き過程としてもより望ましいものになるはずだからです。そのようにして、財政公益性の実体的なあり方を国民が最終統制することで、財政(要請)の公益的根拠は、より多くの国民(住民)の総意、納得の下に確保されるようになるはずだからです。では、財政要請の公益的なあり方を国民が統制する、とは具体的にどういうことでしょう。これについては、当然さまざまの方法や手段が考えられるわけですが、その方法手段が、国民と行政との意思疎通を容易化し、社会的な合意過程を促進するような方法として、つまり透明性の高い議論によって実施することができれば、それに越したことはないでしょう。いえ、それこそが望ましい方法でしょう。そしてそのような方法は実際あるのです。それは、財政の公益性という抽象的な問題を、具象的な問題として扱うことによってです。具象的、というのはここで、定量的ということです。
その“定量的な方法”のひとつは国民が、“行政コストのあり方としての財政要請”を根底的に統制することです。すなわちそれは、このコストのあり方、つまり行政費用の直間比率を、国民(地域住民)が受容できる水準で実体的に統制することに他なりません。なぜなら、行政費用直間比率の水準とは、この比率によって構築される行政予算(財政要請)が全体として、納税者(地域住民)にとってどの程度に福利的なものであるのか、どのような実体的効用を社会(地域社会)にもたらすのかという問いに対し、行政予算(財政要請)の公益的達成水準を、まさにこの比率自身において表示している、あるいは代位しているものとして解しうるからです。つまり通常は、定性的な価値意識においてのみ認識されるだけで、数値で表すことはできない財政の公益性や効用性という諸概念が、この直間比率の算出を介することによって、定性的な属性を保持しつつ、“それらが定量的なあり方で表示されている”、というふうに重層的に読みとることが可能となるからです。この定量的な数値を、まさにその定量性において、ひとつの包括的な、定性的価値の独立指数としても読みとることができるからです。(そのようにして読みとる行為そのものがひとつの主権的行為でもあります。) それゆえ、たとえ多少の曖昧さや解釈の幅がその算出過程に付随するとしても、− それらを完全に排除することはできません − この直間比率には、財政(行政予算)のあり方や公益性について、私たちが客観的、合議的な判断を下すさいの、“数値指標的よりどころ”として用いるに足る十分な妥当性と資格があります。例えば、この希望的数値をいくつかの候補に分けて、選挙時に住民がその中から最適値を選択することも可能でしょう。あるいは財政の効用性という視点から、特定の事業費目と間接コストを比較する、という問題意識をもつことも可能でしょう。そのようにして、また住民税や国民負担率によるひも付けなどとも組み合わせるなどして、国民が行政費用直間比率を掌握統制することは、そのことにおいて、国民が財政要請の公益性を主権的に統制してゆくための重要な要件です。他方、もしこの比率の最終的な決定権が行政の裁量権のもとにあり続けるとすれば、そのような比率の上に策定された財政要請が真に納税者の意思に調和するものかどうかは疑問です。その場合、財政要請の根拠としての財政の公益性は全体として不透明であり、住民が気付くこともないうちに、財政の効用性の度合いが薄められていることさえあり得るでしょう。。
(“行政コストのあり方としての財政要請”が直間比率以外にも検討すべき側面をもつことや、行政直接コストにおける使途目的の妥当性という問題の重要性についてはいうまでもありません。しかしそれはそれとして、行政費用直間比率はそれのみで、財政公益性指標としての独立的な価値を持つのです。) **
ところで、納税者にとっては直接税と間接税の比率が変化しても、全体の税負担(国民負担率)が同一であれば、私たちの財布から出ていく税金の額は理論上同一です。また財政の効用にも変化はありません。しかし、同一の税負担でも行政直接コストと間接コストの比率が変化すれば、財政効用は量的にも質的にも変化しえます。そしてその変化の意味するところは、納税者にとっても社会全体にとっても小さくはありません。つまり、財政用語としての直間比率は、租税用語としてのそれに少しも劣ることなく、財政ばかりか、租税のあり方や効用についても私たちの思考と理解を深めてくれるのです。そう考えると私たちは、「直間比率」という概念枠組みを租税だけでなく、租税の裏側にある財政にも適用して、この語を財政用語としても重用するべきでしょう。
ここまで、東京都の住民税の賦課水準の問題から出発して、租税がどのようにあるべきかという問題を、租税の裏面としての財政の側面から述べてきました。議論の流れを振り返ってみると、まず、巨大かつ複雑な国家財政も国民個人のミクロ的な担税力によって支えられているのだから、そこには納税者が個人として納得でき、その視点において説明がなされうるような財政の統制枠組みが必要であること、またその実例として、国や地方自治体における行政間接コストの水準を、国民負担率や住民税などによって総量規制する必要があることを論じました。次に、私たちが租税賦課の根拠を了解するさいに、これを国家財政が国民に提供するさまざまな公益を負担すること、つまり応益負担の原理として了解するのはよいとしても、財政要請の公益的根拠としての公共性、つまり“公共の利益としての公共性”はこれを注意深く見てゆく必要があるのであり、とりわけそれ自身が財政需要のひとつでもある行政間接費用のあり方については、まさにこれを公共の利益という視点から、その費用の直間コストの比率、内訳において統制しなければならないことを述べました。
これら二つの視点からの考察が、結果として同一の問題事象にたどり着いたことは偶然ではありません。なぜなら、この問題は数多くある財政問題のひとつではなく、国家財政のあり方を根底的に規定するところの基礎条件、あるいは初期条件に関わる問題であるといえるからです。それは問題の波及作用として、もしこの初期条件によって国家の財政構造が適切に初期設定されることがなければ、そのような土台の上に国政がどのような国家予算を策定し、どのような行政施策を打ち立てたとしても、いずれ国民生活や社会のさまざまな局面で、不必要な負担や不当な歪み、しわ寄せなどを引き起こしかねないような、国民社会全体にとっての基盤的、生存的枠組み与件となる問題です。例えば、消費税の増税が、そのようなしわ寄せのひとつでないことを誰が断言できるでしょう。というのは、3%の税率で出発したこの税の増税を、為政者は社会保障政策の拡充強化を主目的に掲げることが常道ですが、当然それは現行の財政構造を所与の前提としたうえで主張しているのです。しかし、私たち国民が国の会計全体をひとつの包括的、統合的な歳出歳入システムとしてとらえたとき、国民負担率による行政費用直間比率の統制と再構築によってこの増税分に見合う程度の − あるいは補って余りある程度の − 財源は確保できるものではないか、と考えることは可能であるし、そのような財源創出の努力、模索はあってしかるべきでしょう。少なくとも、そのような財政構造に関わる選択肢をはじめから塞いでおいて、増税を不可避と決めつけることはできないはずです。確かに言えることは、国民が行政間接費用を統制することは、国家が徴税権を乱用したり恣意的に行使することを抑止するための、最も効果的な主権の行使であるということです。このことは、増税の目的が財政の健全化に置き換えられても同じです。一方、国民が行政間接コストを統制することないままで、国政が消費税や社会保険料の負担率を増やした場合には、当然のこととして、その増税分のどの程度が、行政間接費用からの要請に起因するものであるか、ということさえ私たちは知るよしもありません。そのような国民はしかし、国政の主権者とは呼べないのです。
確かに言えることは、私たちが納得できるようなあり方で、国政が財政の基本構造を構築し、統制できていなければ、国民は国政の提示する財政需要の論理 − それはときに増税の論理であり、ときに施策予算削減の論理でもあります − を十分に納得して受け入れることは困難であるし、その結果として、私たちは行政に対する根源的な不信や不満足から決して解放されることはないだろうということです。では、なにを以て財政構造の適切な初期条件とみなすのか。それは、あくまでも国民が国民自身の納得性において選択することであり、一握りの政治家や行政官僚に白紙委任してすませることではありません。その際に、行政間接コストを国民負担率などの租税負担の指標にひも付けて統制することが、欠かすことのできない作業工程であることは確かでしょう。行政間接コストをこれらの視点においてどのように統制するのかという課題はそれゆえ、もはや財政の範疇を超えた統治の問題であり、しかも問題の性質から判断して、− “行政費用としての議会”も、この統制作用の対象であるから − 国政機関としての議会にも簡単に委ねることのできないような問題である、といえましょう。行政費用における直間比率をどのように統制するのかという問題は、国民と行政(国政)との統治原理的な問題であり、国民は主権者としての自らの意思と責任において、これと向き合わなければならないのです。
ここにおいて私たちは、「国権」が単なる観念ではなく、徴税権をはじめとする実体的、個別的な権力作用であるように、主権も単なる理念的な想定物ではなく、そこから抜け出して、実体的、個別的権力作用として発動することが求められることがあるのだ、ということに向き合うべきではないでしょうか。
ずいぶん以前のことですが(たぶん15年以上は以前です)、東京都が福祉事業に関わるちょっとした施策を、予算の不足から取りやめることになったという内容の新聞記事を読んで驚いたことがあります。(うろ覚えですが、なにかひとの送迎に関わるような施策でした。)
驚いた理由は、問題の金額がわずか500万円程度だったからです。この記事は、都の決定を知って落胆する関係者の声と、不足予算の不可解さによって、筆者の記憶に一種不快な読後感とともに刻まれました。いうまでもなく、たとえ福祉に関わる事業であっても、その廃止が国民の福利や生活上の基本的ニーズを大きく損なうものでなければ、なんらかの妥当な理由のもとに停止されてもよい場合はあるでしょう。とはいえ、当時も56兆円の歳入があった東京都が、たとえ一握りであれ、都民の福祉のために、少なくとも一度はその意義や必要性を認めた500万円の行政直接コストをそこでなんとか捻出できないはずはなかったであろうことも確かに思われます。しかもそこでは、その廃止を補うような代替施策はありませんでした。つまりこの施策停止の背景理由がなんであれ、それは予算の不足によるものであってはならなかったのです。この東京都に、500万円の財政問題などあり得ないからです。この事例に限らず、行政によるこの種の施策取りやめ決定が住民にとって釈然としないのは、その原因とされる“予算の不足”が、たとえば福祉施策の費用ニーズと学校施設の費用ニーズの間で起ったかのごとく、あたかも行政直接コスト間での予算競合によって引き起こされたかのように聞こえるからでしょう。しかしそのような説明が説得力を持つのは、直接予算の不足をいう以前に、予算全体に占める行政間接コストの大きさが、上にも述べたように、単に行政直接コストとの配分割合ばかりでなくその絶対額の大きさにおいても、住民の視点からみて緩みなく、適正に配分統制されているその限りにおいてです。とすれば片や、都庁舎だけでも年間の光熱費に数百億円もの予算を当てていながら、500万円の予算不足が原因で福祉事業を縮減したというような説明を都民が聞かされても、都の職員以外に誰が納得できるでしょう。それゆえ東京都が、そこで500万円の予算不足を施策の廃止事由とすることに恬として恥じず、矜持もなく平然たることは、その無自覚と厚顔を含めて、行政実務能力の貧しさばかりでなく、あるべき行政エートス(深層の価値意識を伴う行動エネルギー)の弛緩、あるいは滅失を天下にさらしています。(それとも、そんなものは、はじめからなかったか。)
他方、もし“公共機関としての東京都”が − 都知事、議会議長、予算編成担当者が、− 報道のとおり予算の不足こそが原因であり、その停止判断も行政費用の公益性の理念にも沿うものであると強弁するならば、予算の不足について都民の納得を得られるような説明を、財政の公益性という視点から提示できなければならないはずです。その説明は、行政間接コストの実態をもふくめて、“財政全体における行政費用のあり方”という文脈のなかで、予算書に即しつつ包括的になされなければなりません。しかし、東京都が策定する一般会計予算の適理性と社会的合理性の根拠が、全体としてどのような財政要請のどのような公益性理解に基いているのか、どのような財政要請のどのような公益性認識に従って各費目のうちに比例配分され、行政費用として全体構築されているのか、また行政コストの直間比率が都民に受け入れられるような数値の妥当性において実現していると考えているのか、こういったことについて東京都は、いかなる情報発信も行っていません。こういったことを都民が客観的に、また確認可能な方法で知ることのできる手掛かりや、メタレベルの行政コストの指標、分析、定量的データは当時も現在も見当たりません。むろん都庁および東京都23区の行政費用直間比率を含めてです。したがって、東京都が財政要請(行政予算)の公益的根拠について説明責任を果たしているとは思われないし、財政のあり方について何をどう考えているのか、都民がこれを理解することは依然として困難です。そしてそれゆえ、このできごとのような情況は、私たちが東京都の財政施策の現状を、“そんなものだ”と思っている限りは15年前も、今日も、この先ずっと将来も変わることなく続いてゆくことでしょう。そしてここにおいても、問題の本質は財政そのものだけにあるのではなく、都民が東京都庁の財政施策をどのように最終統制しうるのか、その裁量権にどのような方法的、原理的枠組みを課しうるのかという、都政と都民との統治原理的関係性の問題としてあるのです。
こうした行政事例を目撃すると、行政機関における公益性には、これまで見過ごされてきた別の側面があるのではないかということに気付かされます。つまり、行政機関は一般にさまざまの施策遂行を通じて多様な公益を実現するわけですが、それとは別に、その組織存在のあり方や活動のありかたも、公益性という視点から把握され評価されうるものではないかということです。行政機関はこの側面でも国民から公益性を求められているのであり、それは行政機関が施策事業において実現することを期待されている公益性と比べても、すこしも遜色ないものです。では国民はこのことを、この意味における公益性を − 公益2と呼びましょう − どのようにして判断することができるのでしょう。なにをもって国民はこの行政機関そのものの公益性について評価を下すことができるのでしょう。それは行政機関が、国民の納めた税金や社会保険料を行政事業のために無駄なく効果的に、適切に使っているのかどうかということでしょう。さてそうすると、上で論じたばかりの行政費用直間比率は、まさにこの問いに対する一つの手掛かりを与えるものです。この数値は、行政費用のあり方が住民にとってどの程度に公益的なものであるかを示す指標だったわけですが、それはまさに行政機関それ自体の公益的なあり方を表示する指標でもある、ということができるでしょう。なぜなら行政機関の提出する財政要請は、それが開示されていようといまいと、行政費用的直間比率のあり方において、行政機関それ自身の公益的なあり方を、自己言及的に顕わにするものとなっているからです。つまりこの直間比率によって私たちは、財政要請のあり方とともに行政機関のあり方を、客観的なデータとして数値的に了解することができるのです。
では現実はどうでしょう。あちこちの地方自治体が、行政事業の縮小や停止を決めたことを伝える報道に接していると、率直に言って行政間接コストが直接コストを圧迫しているのではないか、と感じられてしまう事例が少なくはありません。
とはいえ、二つの行政コストが財政要請のなかで包括的に合体されて処理されている限り、両者が同一平面上で扱われて、いわば競合的に作用し合うことを防ぐことは困難です。行政予算のあり方が、行政機関自身によって作られている現状では、このような事態が自ずと改善される公算は小さいでしょう。民間の事業体とは異なり、事業費としての必要経費をすべて国民から支給される公共機関にあっては、間接コストを抑制するための内発的な動機は発生困難であり、むしろ組織を持続安定的、快適に運営するためには間接コストの予算確保が優先されてしまうことさえありうるだろうからです。行政部門の手になる予算案を国会であれ、地方自治体であれ、議会が形式的に承認したからといって、国民の意思がそこに及んでいたとみなすことも困難でしょう。そもそも、財政要請(行政コスト)としての議会や議員の包括的なあり方が、議員報酬や選挙のあり方をも含めて、ひろく国民の理解や支持を得ているといえるのかどうかさえ疑わしいものです。「代表なくして課税なし」とは、米国が英国の統治(課税)に抗して独立戦争を開始する契機となった有名な言葉ですが、この言葉の原義、真髄に照らして現在の日本を見るとき、はたして私たちに、財政や課税のあり方についての国民の意思を国政上に実現しようとする代表はいるのでしょうか。いるというなら、それらの代表者たちは憲法第30条(国民の納税義務規定)に寄りかかることなく、今日の課税と国家財政との関係性のあり方を、自分の言葉で国民に説明し、私たちを納得させる自信はあるのでしょうか。
嘆いてばかりいてもしょうがありませんが、一足飛びに行政間接コストを納税者(地域住民)の担税力によって制約することは現実には困難なことでしょう。といって、住民が膨大で錯綜、錯雑を極めた行政間接予算のいちいちを調べ上げ、それらの適否を細目にわたって判断することも不可能です。(地方自治体の住民で、この主権的直間比率の視点から行政のあり方について具体的に発言できる人は − おそらく行政学の専門研究者も含めて − ほとんどいないでしょう。) とすれば最初の目標は、もっと実現容易な内容でなければならず、たとえばそれは、行政費用の直間比率のあるがままの現状を、予算書において見られるようにするというようなことでしょう。つまり、行政機関における一般会計を、行政直接費用と間接費用の二区分に分けて表示したものを、行政機関が作成するようにすることです。これは、財政要請としての行政予算費目を大きく直接コストと間接コストに区分し、都道府県から市町村の役所まで、行政間接コストに関わる費用がこの費目名の下に集約化され、その結果、国民や地域の住民がその割合を直ちに理解することができるようにするのです。ここにおいて重要なことは、この比率が結果としてどのような数値水準になるのかということよりも、このように区分することで、この比率を私たちが兎にも角にも知ることができるようになるということです。そしてこれについて知っているということは、私たちが行政のあり方を、その最も根底的なところで認知できるようになるということです。そうすることで、私たちは行政費用のあり方を自分自身の問題として考えてゆくきっかけをつかむことができるし、そのことがひいては、行政の民主的統制、主権的統制を可能にもしてゆくことでしょう。念のために付け加えると、これらの指標やデータは、それがどのように住民に提示されるのか、ということも非常に重要です。それらは単にデータとして管理され、住民の求めに応じて知らされるというようなことではだめなのであって、行政機関が常にこれを“顕示的に”明示するする必要があるのです。(例えば、HPの上部に大きく表示されるというふうに。)
このようにみてくると、「大きい政府か、小さい政府か」というおなじみの質問に答えるにしても、行政間接コストとしての政府の大小に触れずしては、的確に答えたことにはならない、ということが明らかでしょう。なぜなら、一般会計や特別会計としての政府の大きさがどうあれ、行政間接コストとしての政府の大きさは、行政費用直間比率のありかたにおいて常に適切なものでなければならず、国民にとっては、会計規模全体の大きさよりも、こちらの大きさのほうが、はるかに重い意味をもつからです。このことは、政府財政の大きさを、社会保障政策に絞り込んで評価する際にも当てはまります。というのは、この予算が財政のなかで突出して大きな割合を占めるのは当然のことですが、しかし政府が実際のところ、国民負担率の重さに照らして、どの程度に無駄なく公正、実質的にその保障機能を果たしているのかということは、必ずしも政府の発表する予算の総額だけからはしっかりと見えてこないからです。国民に対する公的生活保障機能の提供は非常に重要ですが、であるからといって、その予算の実体的な構成内訳や、社会保障事業における行政間接コストのあり方、直間比率のあり方などが不問に付せられてもよい、ということにはならないのです。
それゆえ、行政費用直間比率さえ知ることのない国民が第一に問うべき問いとは、中央および地方政府をはじめとする日本の行政機関、国政機関の間接コストの大きさが、国民の担税力の実体的なあり方からみたときに、そもそも国民にとって受容できる水準であるのかどうか、ということです。そして次に、もしそれがそうでなければ、私たちはどのようにして“政府の大きさ”を自分たちの意思によって統制することができるようになるのか、ということです。
国民主権の原理のもと、国政の徴税権が一握りの財務官僚や、内閣総理大臣の専横的な権力行使であってはならないことはいうまでもありません。では国民は何を以て徴税の公正さを納得して受け入れられるのか。徴税が主権者国民との信託関係に基く適切な権力行使として受容されるのは、徴税の先にある財政行為が国民の信託に応えていると認められるからです。すなわち、税としての公共的な社会資本の支出行為に対して、国民の最小限の意思が及び、それが財政のあり方を制約する限りにおいてです。ただしそれを国民が確信するには、議会による予算の承認など、国政手続き上の要件充足だけでは不十分です。より重要なことは、大多数の納税者の考え方が実体的に、現実の“国政の財務分析”、バランスシート(貸借対照表)のなかに生かされ、数値において確認できるかどうかということです。そしてこのことは、行政費用の直間比率においてもっとも鮮明に、曖昧さを排しつつ定量的に判別しうるものでしょう。逆に言えば、この直間比率による財政構造の統制を確認することができない限り、国民は未だ主権者としての実体的な立場を保持してはいないのです。
たとえ東京のように税収に恵まれた都市であっても、国民行政間接費負担率のような統制視点欠いたままでは、その住民はいずれ、23区制のようなマクロ的財政立場、マクロ的都合から出発する一方的な、際源のない租税負担要請に押しつぶされてしまうでしょう。しかし多くの都民は、自分たちの身の丈に合った、生活者本位の堅実な行政機能を第一に求めているのであり、それが何であれ、都民の立場から見て、なくても充分にすませるような事業や制度体制を、自分たちの家計や担税能力に無理を強いてまでは求めていないのです。ましてや、もっぱら行政規模を維持するための制度や事業など、都民にとってはまったく不要です。
そうであれば、現在のように、行政庁が漫然と予算を積み上げるのではなく、たとえば上述の例のようなミクロ的視点に基く、“理念的予算”とでもいうべき予算をシーリング(天井/上限)として構築し、しかる後に、行政間接コストをこの予算全体から逆算的に、あるいは適正対比的に割り出すというような“逆転の”予算作成法こそ、都民の、そして国民の求めるところでしょう。そのためには、「そんなものだ」ではなく、国政の徴税権を統制する対抗原理が方法準備されなければなりません。それはたとえば、租税パッケージとしての国民負担率や行政間接費負担率による予算統制作用をも取り入れた、納税者主体の住民税の設計原理であり、これが実現すれば、東京都はこの租税制度についてより透明で、説得力のある説明ができるようになるはずです。東京都は、現行の23区制を温存したままで、全体でこれこれの予算が総額必要だから、その結果として住民税は何パーセントになるというような、都民不在の単純積算的な行政思考法からは、もういいかげんに決別しなければなりません。
ともあれ現状が続く限り、私たち都民は、区役所の行政コストには無頓着なまま、23区制での住民税を未来永劫に支払うことになりそうです。とすればいっその事、ここは冗談ではなく、中学校の社会科実習活動を頼みとして、生徒諸君の居住区で住民税からの歳入が、区の行政コストに対してどのような割合になっているかなどを分析してもらい、あわせて住民税と行政間接コストの望ましい比率やその上限目標などをクラスで討議したり、将来の区制度のあり方を構想提案してもらうより他に手はないかもしれません。(夕張市のように自治体が財政破綻することによってしか行政が税を食い物にすることを止められないのであれば、― 東京はかつての夕張市ほどの放漫財政ではないと誰がいえるでしょう ― 都民は住民税の値上げを絶対に受け入れるべきではないでしょう。また東京都は、23区の固定化につながるような区役所の庁舎建て替え工事は、承認すべきではありません。)
私たちはふだん、議会や行政機関を経済的な活動主体としてはみなしません。このことは、経済主体の対象を、もっぱら私的利潤の獲得増大を主な活動目的とする個人や企業などの事業体に意味限定すれば理解できます。しかしこの見方を少し拡張すれば、議会や行政機関も経済主体として認識できます。つまりこれらの組織体を、“租税という公共的な資本を用いて、公共的な財や価値、施策など、公共利益の創出拡充を活動目的とする事業体である”、というふうにとらえれば、それらの組織もある側面においては経済的活動主体の一種であるといえるでしょう。なぜなら、そこにおいても一定の経済的な仕組みや原理は働いているのであり、行政といえどもそのことを無視することはできないからです。しかもほとんどの場所で行政機関は、その地域で最大級の事業体であるとさえいえます。たとえば荒川区では、事業費はもちろんのこと、荒川区役所よりも多くのひとが働く企業は区内に存在しません。同様に都庁よりも多くのひとを雇用する単一の事業所は東京には存在しないでしょう。(しかしこれらは当然のことなのか。) それゆえこれらの巨大な事業所が、その建造物も含めて、単に公益的な事業に従事しているというだけの理由から、経済的な分析や評価を免れるとしたら適切なことではありません。また、そこで投入される社会的資本が公共的な性質を帯びているとしても、その原資の多くが、国民や地域住民の労働対価から供せられたものであることを忘れてはなりません。もちろんそこでは、公共的な事業に固有の視点や価値基準、判断のあり方が尊重され適用されるべきでしょう。“あらゆる行政施策で、効率性の基準が常に最優先に考慮される”、というわけではないこともいうまでもありません。しかしこれらを認めたうえで、ちょうど企業のあり方をその事業収益性の視点から分析したり評価するさいに、さまざまの道具概念が補助手段として用いられるように、議会や行政機関のあり方に対しても、まさに納税者の福利と公益性の増大実現という視点から、これらの公共的な組織機関のあり方に適用することのできる分析概念や道具概念があるべきなのです。それらの概念が注意深く、社会公正的、客観的に創出されなければならないことは当然です。しかしたとえそれが完璧なものではないとしても、そのような概念や指標を準備していることは重要です。なぜなら、それなしに私たちは行政や議会のあり方を − それは組織機関としてのあり方でもあるし、事業内容としてのあり方でもあります − どのように評価したらよいのか、その手掛かりさえないからです。これらの概念なしには、主権者、および納税者としての国民が、租税の適切な使途を統制したり、徴税の賦課水準が適切であるかどうかを判断することも困難だからです。この道具概念は上にも述べたように、国民が行政や議会の歳出構造やコスト状況を主権的に統制するために欠かすことのできないものですが、私たちがそのような道具概念を未だひとつも手にしてはいないのではないか、という事実こそいま直視すべきであるように思われます。
さて以上あれこれと、東京都の特別区制度が投げかける行政改革の必要性という問題について述べましたが現実には、「そんなものだ」と言うより他はない状況だとも言えます。なぜなら、このような問題に取り組むためには、つまり都民が議会を含む行政機構を、ある特定の作用や判断において主権的に統制管理するためには、そしてさらには、行政区分のあり方や議会の統廃合を選択することができるためには、主権者である都民の行政的意思をすくいあげ、反映させてゆくための、なんらかの制度機構が統治的な回路として必要だからです。しかもすくい上げるかどうかの選択判断そのものを、都民自身が決められなければならないからです。
この統治構造に関わる住民の根底的な選択権は、三番目のより根源的な問題原因へと私たちの目を向けさせます。すなわちそれは、行政や議会が住民にとって問題の解決者ではなく、それらの機関そのものが問題の原因や対象であるときに、私たちはこれとどう向き合い、対処すれば良いのかという、統治構造の根幹原理に触れる問題です。そしてこの問題状況は、行政のあり方が必ず何らかの法的な根拠をもつことから、その法的根拠性、あるいは法令制定性そのもの対し住民は、どのような権能を持ちうるのか、どのようにして実体的な作用を及ぼすことができるのか、というふうに設問構成できるでしょう。言い換えるとこれは、住民が法令の制定行為そのものを公共的な社会行為のひとつとして了解したうえで、この公的制度を支える“国民の厳粛な信託”のあり方を、当該法令の執行状況に対してどのように仕立てあげ、関与させるかを、またそれはいかにして制度的に可能であるかどうかを考え、模索するということでもありましょう。ここにおける問題状況はさらに、主権者国民と行政権の授権的関係性に関わる統治原理問題として、国政における両者間の信託関係に関わる問題として一般化し、展開してゆくこともできましょう。(次回につづく)
*付記 朝日新聞が2016年度の23区の予算案を集計したところ、その合計は3兆6031億円に達したという。 (2016年3月6日付朝刊)
この数字を私の独断で読み解いてみる。まず行政間接コストであるが、これが総額の10%ということはないであろう。そこで仮に全体の20%とみなす。すると約7200億円となる。23区を10区にまで減らすとすればざっくり言って4000億円の削減か。ただし単純な引き算とは当然ならないので、この数字を 5掛けにしよう。結果、最終的には約2000億円となる。無論これでさえずいぶんと大甘な概算である。
仮にこの改革作業を、進取の気性に富む民間企業の経営者に委ねれば、2500億円を下ることはまずなかろう。つまり、1年で2500億円の財源が増税なしに新たに生まれるのである。勿論こんなおおざっぱな話しではなく、民間の英知を結集して、周到緻密な検討、試算、計画をまとめることができれば、より現実的で妥当な行政コスト改革の立案が可能であろう。そのあかつきには、刮目に値する提言内容が出るに違いあるまい。
なお、上記の算定は削減に要する時間的な経過側面を捨象しているが、仮にこの減区作業を20年前から始めていれば、その移行過程は今日完全に完了し、その果実全体を都民はすでに手にしているはずだ。
** 経済学の知見を借りると、行政予算と行政費用直間比率は、これを財政システムにおける「外生変数」としてとらえることもできよう。これらの要素は、財政全体の実体的効用性のあり方やその水準を、基礎的な条件枠組みとして決定づけていると見なせるからだ。(無論この所与性は可変的である。)
他方、個別の行政施策の予算が「内生変数」に当たるが、それらはその効用性の濃度を、BHN(ベーシック ヒューマン ニーズ)や社会的セーフティネット、社会的公益性などの視点から複眼的、仮構的に指数化する試みも考えられるだろう。(例えば、庁舎の建築費や、いわゆるイベント的な行政事業費はそこで相対的に低い値、重み付けになる。)
さらには、これらの変数を加工したり、相互に関係付けることによって、財政や行政(機関)の包括的な社会効用的水準を、自治体間の財政規模格差に影響されることなく、公平にスコア化することも可能であろう。そういった試みが、厳密な学問的水準で成立しうるかどうかということは二義的なことである。
重要なことは、そのような試行錯誤を経ながら、我々が納税者の視点から財政の実勢的、実体的なあり方を認知し、評価するための道具手段を獲得するということである。
というのも、そのような“財政アセスメント”、“行政費用アセスメント”の方法手段なしには、国民が財政の構造的なあり方を、白紙委任ではなく主体的に統制してゆくことは困難であるように思われるからだ。
外生変数と内生変数の概念、及び両者の関係性理解を助けてくれるシステム概念図として、橋爪大三郎、副島隆彦 著、『小室直樹の学問と思想』 ビジネス社 2011年 118頁以下
「問題のひとつは、われわれがこれらもろもろの現象を、それぞれ特別の名前が与えられた別々のボックス
− 政治、経済、社会構造、文化などといった − のなかで研究してきたことにある。それらのボックスは、
実体的な存在というより、われわれの創造物による構築物の側面が強いということに思いがいたっていな
いのである。それら別々のボックスのなかで扱われるもろもろの現象は、実際にはきわめて緊密にからまっ
ており、互いに互いの前提となり、互いに影響を与えあっているので、それぞれのボックスをすべて考慮に
いれなければ、どのひとつも理解することはできないのである。」
判決を受けて10 “切り札”としての主権 A
前回は、もし私たち国民の大多数が(国民の一定割合が)、ある国家作用や統治執行状況を違憲的なものとして認識した場合に、― 誰がどのようにそれを最終認証するのかという制度問題は今は棚上げします ― そのような事態に対抗し、これを押し返してゆくための最終的な拠り所を、「国政は国民の厳粛な信託による」という憲法前文のうちに見出せるのではないかととらえて、問題提起しました。
続けてまた、国家の主権が国民にあり、「国政」が国民の厳粛な信託によるものである以上、この“信託契約”における委任者であり受益者である私たち国民は、自らの権利と福利をまもるため、そのような違憲的国政状況に対し「厳粛な信託」を一時的に凍結する権限を、“切り札としての主権”において保持するものではないか、と述べました。いかなる国家作用も、国民の厳粛な信託を裏切るようなあり方においてその権限、権力を国民に及ぼすことはできないはずだからです。それゆえまた、憲法81条が定める最高裁判所の終審審査権さえもが、憲法前文にいう国民の厳粛な信託によって拘束されているのであり、終審審査権がこの信託関係から切断された地点で終局的、絶対的な司法権限を主権者国民にふるうことはできないのだ、と述べました。その審査権もまたこの厳粛な信託によって拘束される国家作用のひとつだからです。
今回もゆきつもどりつしながら、主権と「国政」をめぐるこれらの問題を引き続き考えてゆきます。
国政における国権、国家における国権
最初に憲法第81条をもう一度確認しておきましょう。それはこのような定めでした。
「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」
この定めは最高裁判所が、「国政」を分立分権原理的に担うところの統治機構組織において、法裁定機関としての役割と「権限」を組織規範として負託され、授権されているということでしょう。それは憲法によって信託的に付与された − 授権された国権のひとつであるともいえます。他方、憲法前文は、国政の権威が国民に由来し、主権は国民に存することを宣明しています。主権とは、国家における最上位の権限であり国家意思でありましょう。
ところで、国家における「権限」に関しては、憲法第41条が、「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」と定めているのでした。そうするとわたしたちはここでさまざまの権限 − 司法権、主権、国権 − を、しかもそれぞれがそれぞれにおいて最高位の権限としてあるような、そのようなあり方において認識しているわけです。もちろんそれらの権限は、それぞれの目的、権能においてあるものでしょう。しかしそれらはばらばらに分離してあるものではなく、国家における権限として、体系的に、組織的に同一の地平上において関係づけられ、統一的な見通しのうちに整理、配列されるべきものでしょう。そうするとまず国家における権限とは何か、という非常に素朴な、同時にしかし錯綜としているようにも見えるこの問いに答える必要があるでしょう。そこで憲法81条はひとまず措いて、まず手始めに、“国権の最高機関”とはどういうことかを見てゆくことにしましょう。
さて、「国権」とは“国の権限”、あるいは“国の権力”ということでしょう。念のため広辞苑(6版)をみると、【国家の権力。国家の支配・統治権】とあります。
私たちは社会生活のさまざまの場面で、さまざまな制度事象をとおし、さまざまの組織機関をとおして、さまざまの作用様態において、「国権」と対面します。(自動車免許証の交付、義務教育制度の実施、災害時の救援、復旧活動、税の徴収、社会保障制度の運営、国土、交通や輸送の社会インフラ整備、国の安全保障などなど)。 そして国会は、国が有するこれらの多様な国権作用、国家行為の権限 ― 認可、禁止、罰則、規制など ― を法的に統括する国家機関として、すなわち法律を制定する国家機関としてあるわけです。ではこの事実をもって、「国会は国権の最高機関」である、といかなる留保もなくいえるのでしょうか。そのようにあっさりと言いきってしまうことに、なにか引っかかりは感じられないでしょうか。
引っかかりというのは、もしここいう「国権」が、国家におけるすべての統治的権限を包含するような、そのような包括的な権力概念として言われているものと解すると、「国権の最高機関」と「主権」の関係はどうなるのかという疑問が浮上してくるからです。実感として言えば、主権が国家における権力概念としてとらえるべきものであったのか、なかったのかはなんとも曖昧に感ぜられます。それはどちらでもありうるような気がします。ただし、私たちの多くは素朴に、主権が国民のうちに存するということを了解しつつも、他方においては、国会が「国権の最高機関」であるということを、その字句通りに受け入れているのではないでしょうか。とすると、このような疑問を抱くことそれ自体がすでに奇異なことであるといわれるかもしれません。ではそのなにが問題なのでしょう。私たちの多くがあたり前のように受けとめているこの条文について、敢えてここで疑問を投げかけてみたいと思います。
国会が国権の最高機関であるということは、憲法がそう定める以上もちろんその通りでしょう。同時にしかし、そのことは憲法の制定者が国会にそのような地位を付与したその結果としてあるものであり、その地位は憲法制定者からの授権としてあるものです。このことについて、議論の余地はないでしょう。しかもこの制定者の有する付与権限は、「国権」以外のなにかであるか、あるいは仮に「国権」であるとしても、「国権の最高機関」の外部に存在するということになるでしょう。しかし、国家における政治的権限のあり方を定める制定権限が、それ自体においては「国権」ではないということも、考えてみればおかしな話です。
ところでこの憲法を制定する権力とは主権に他なりません。主権とはひろく一般に、国家の最高意思といわれます。そして主権はもちろん国会にではなく、国民のうちに存します。その主権の存する主権者国民が、国会に「国権の最高機関」という地位を与えたのでした。繰り返すと、憲法41条にいう「国権の最高機関」としての国会とは、主権者ではありません。
では、国会が主権者ではないからといって、この憲法41条の条文を根拠理由にして、“「国権の最高機関」という概念、およびこの概念が発する国家権力一般についての規定性は、主権者については言われ得ない”、ということになるのでしょうか。言い換えると、主権者は「国権の最高機関」ではないのでしょうか。いな、そもそも主権とは国権ではないのでしょうか。観念としても、権力の実体的なあり方、作用においても、主権は国家の権限ではないのでしょうか。それとも主権は国権とは截然と切り離されたまったく別の権利、権限でしょうか。「主権」と「国権」の二者は、国家における権力概念範疇において、概念範疇それ自体の存立性において、私たちがそれぞれ別異に始原構成し、据え付けなければならないものとしてあるでしょうか。
もしそうであるならば、国権と主権についてのこのような分離的、分断的なとらえ方は、「国権」という言葉をある特定の概念解釈の枠組みを前提にして言うとき、そしてそのときのみ、はじめて成立しうるものでしょう。それは国権という言葉の適用対象を国政を分権的に構成する立法、行政、司法の三権のみに認め、それ以外の国家圏域には一切認めないという枠組みです。その結果として、国権という言葉の意味対象は、これらの三権に対してのみ限定的に使用されることとなるわけです。そしてこのような用語法の背後には、「国権」という概念、および国家権力作用をこれらの三権においてのみ了解し、承認するという憲法解釈的国家観が前提されているのだ、といえましょう。国権と主権は、そこにおいて、それぞれまったく異なる権力地平上にあるのです。
他方、これとは異なる解釈枠組みも成立しうるように思われます。すなわちそれは、主権が国家の最高意思でありまた憲法の制定権の源泉もそこに求められるのであれば、どうしてそのような権力様態としての主権をもってこれを国家の権限、国家の権力、国権ではないと言えるであろうか、という視点からの国権概念把握です。そこにおいては、憲法を制定して立法、行政、司法の三権(機関)を構築した主権者の主権そのものが国権として先行認識的に前置されているのであり、したがって国権は単に三権のみを指示するものではなく、これらの三権とともに、国権としての主権を包含する包括的な国家権力概念として了解されているわけです。主権とは主権であることにおいて国権に他ならないという憲法解釈的国家観の枠組みであり、主権は国権として、国権の概念範疇において存立しているのです。
そうすると、これら二つの解釈枠組みにおいては、国権という言葉のとらえ方そのものが根底的に異なるわけです。国権についての、あるいは国権をめぐる、“ものの見方”が異なるのです。そして一般にある言葉の意味内容が社会共有的に了解されていなければ、私たちは、その言葉の表す概念対象物について共通の土台の上で議論することは困難でしょう。
ではここにおける論点は何でしょうか。それは単に、「国権」という言葉の対象範囲をどこで線引きするのか、三権で区切るのか、区切らないのかといういわば言葉の意味対象領域の問題でしょうか。もしそうであれば、そしてそのように区切ることの適否判断を、単なるこの言葉の表面的な意味規定性の問題として解するならば、言葉の使用状況を調べたり辞書をひくかしてすむはなしです。(そうなると“憲法学”は、使用する国語辞書によっておのおの変わってくるということになってしまいますが。)
しかし問題はそれほど単純ではありません。なぜなら、もしある国家が、ある包括的な国家統治原理の下において存立しているとすれば、その国家にとって「国権の最高機関」という言葉は、この根源的な原理そのものが、その原理的規定性においてその対象物を自ら厳格に確定し指示する、そのような“名指し語”としてあるはずであり、またあるべきだからです。したがってその言葉が指し示す対象物は本来、あれやこれやの文脈に依存したり制約されることもなく、なによりこの原理そのものによって了解され、立ち現れてこなければならないべきものです。この根源的な国家統治原理より他に、この原理をおいてそれを規定する他のいかなる原則も条文もあろうはずはないからです。
言い換えると、「国権の最高機関」という言葉の意味規定の内部には、【国家の権力。国家の支配・統治権】のあり方についての根本的な構造原理そのものが受けとめられ、内蔵されているはずです。そしてこの原理において成り立っているところの国家の最高権力とは、国の基本典範としての憲法そのものを著し、憲法の諸規定を制定し、また必要を認めればこれを改変することもできるような、そのような包括的権能としての“国権”に他なりません。そのような権力とは、それ以上遡ってこの権力の根拠を探し求めることはできず、この構造原理の成り立ちそれ自体において即自的に存立するものでしょう。その反対に、もし「国権の最高機関」と呼ばれるある組織機関があるとして、その機関がその機関以外のある主体に依存して、しかもその主体からの“授権”によって(その主体から権力を授かることで)、「国権の最高機関」として存立しているのであれば、そのような成立契機において存立する「国権の最高機関」のあり方は、意味規定的に一種の自己撞着のうちにあるというべきでしょう。この「最高機関」は他者からの解釈や承認に依存して対自的に言われるものではなくて、それ自体の力に拠って即自的に、自己言及的に宣言し、成立しているべきものだからです。そのようなあり方が、「国権の最高機関」という言葉の原義的な意味における、この機関のあり方であるはずだからです。
このようにみてくると、憲法第41条における「国権の最高機関」という概念規定の存立性そのものが、“憲法41条という特定の意味文脈”において言及される“国権”概念について、これをどのように概念了解すべきかを問い返している、というふうに了解されてくるのではないでしょうか。その問いは、私たちが国会と国民の関係性や国家権力(国権)と国会の関係性、国権と国民の関係性、さらには国家における政治権力構造の成り立ちなどを、自らの主権的存在性にかけてどのように了解しようとするのか、その了解性の帰結において答えを導きだすことを求めているのです。それはこのように問うことの照り返しとして、主権者としての国民が国家および国会に対してもつ権限、権能とは一体なんであるのか、ありうるのか、あるべきなのかというさらなる問いへと導くものでもあります。それゆえ、これらの根源的な問いを素通りして、憲法41条にいう「国権の最高機関」という概念記述の意味内容を確定することはできません。
ところで日本国憲法は、その中で主権と国権の二語を、異なる観念としてはっきりと使い分けています。したがって、“国権としての主権”あるいは“主権としての国権”という観念は憲法条文そのものからは導出できません。主権と国権は、「日本国憲法」という“テクスト”内部においては、完全に切り離された別々の概念としてあるのです。しかしこのことは、憲法というテクスト(文書)の成り立ちを考えれば理解できないことではありません。というのも憲法という国家法規は、― 基本的人権の保障宣言であるとともに ― 主権者としての国民が、国家の統治権力を分立分権的に組織構成する際に、それら組織機関の組織規範や授権規範を「国権」という概念枠組みにおいて規定した原則典範としてあるのであり、そのように観念対象化された「国権」概念が、主権者自身の典範制定力を顧みて自己言及することなく、純粋に憲法テクストの内部的意味文脈性において規定されていることは当然のことである、とも言えるからです。しかし他方、このような見かたとは別の視点、つまり「国権」という概念を、憲法テクスト外在的にとらえる視点もあるでしょう。それは、主権者が分立分権的な国家機関を創出すべく、この憲法テクストを制定する際の、その制定権力それ自体のうちにおいて主権者が、 ― テクスト外在的に ― 「国権」としての権力概念を自ら見出すという視点です。
ここでテクスト外在的に見出せる権力とは、憲法テクストを制定した権力であり、ふつう私たちが「主権」という言葉、概念によって指し示しているところの権力です。そしてもしこの主権が、つまり「主権の存する日本国民」(憲法前文)としての主権が、それ自体において国家権限、国家権力ではないとすれば、「日本国民は、 〜 この憲法を確定する」(We
the Japanese people 〜 do firmly establish this Constitution) と宣言することさえできなかったというべきでしょう。国の最高法規としての憲法を確定するという行為は、あきらかに権力的行為、権力をともなう行為であるからです。しかもそれは、単なる権力ではなく、実体的な意味で国家の最高権力でありましょう。第一、立法、行政、司法の三機関に国家的な権限を授けたその作用力そのものが、その作用において国家的な権力としてあるものではない、などということがあるでしょうか。その権力を差し置いて、何を国権と言うのでしょうか。
とすれば、主権は主権であることにおいて、同時に国家における権力、権限でもあるということを“理屈として”言えるはずです。つまりそれは、主権としての国権です。そして主権としての国権はそこで、単なる国家の最高意思としてだけではなく、国家の最高権力として抽出し把握しうるものでありましょう。したがって、主権という概念は、これを憲法テクスト外在的にとらえれば、“理屈として”国の権力であり国権であるといえます。そうすると憲法41条にいう国権は、憲法テクストの“名宛て人”(受け取り手)としての国政的国権であり、もう一方の国権はこの国政的国権を授権し、規定する主権的国権としての国権、主権としての国権であるというふうにとらえることができるのではないでしょうか。
また、個別の憲法条項についてみていっても、例えば憲法第99条は、【憲法尊重擁護の義務】として、国政に携わる国会議員や公務員などに、「この憲法を尊重し、擁護する義務を負ふ。」と定めているわけですが、このような義務の負荷を、憲法制定者による権力の行使としてとらえることは、テキスト外在的な視点として充分に可能でしょう。そこに見出される作用力は明らかにひとつの権力であり、しかも憲法41条にいう「国権」とは明らかに異なる権力です。といってそれを国権ではないといえるのでしょうか。それに、そもそも国民が憲法制定者としての主権者であることの自覚に基づいて、このように自身の権力を自己認識することを、「国政」によって承認してもらう必要もないでしょう。
なお、「国権」という言葉は、もちろん現憲法の制定以前から、ごく一般的な日本語として使われているものであり、日本国憲法というテクストがそこで、「国権」という語を憲法施行以前の言語的歴史を完全に断ち切って使用することなどできるはずもありません。しかしここで留意すべきは、昭和21年11月3日に公布されたこの憲法全体が、天皇を主権者として戴く大日本帝国憲法(明治憲法)とは決別し、新たに主権者となった国民のもとで新たに踏み出してゆこうとする国家共同体の、その権力構造の新たなあり方を規範原則的に規定する典範としてあるということです。つまり「国権」という言葉は一面においては新憲法としての現憲法にとっても既成の概念であり言葉としてあるわけですが、同時にこの憲法全体がそこで、前文より始まり第103条にまでおよぶ諸規定を介して、さまざまの側面から直接的、間接的に、重層的、多元的にこの憲法の下における国家権力概念、およびこれに関わる諸概念をここで新たに規定し、制定しようとしてもいるのです。つまりこの憲法によって、「日本国民」は「国権」という既知の、古い観念の革袋に新しい酒(新しい国権観念)を盛ろうとしているわけです。このことは、私たちが「国権」という言葉を、憲法テクスト内在的にとらえる際も、テクスト外在的にとらえる際にも忘れてはならないことでしょう。
さて主権と国権についてこのように述べてきた後では、若干水をさすような指摘になりますが、ここでひとつ確認しておくと、主権は国民に存するといっても、我が国の国政が国民の代表者に負託されて、間接民主主義という政治的方法により執行される限り、議会はもとより行政府と司法府を含む国政全般の執行過程の中に国民が入り込んでいって、国民のむき出しの作用力をそこで直接的に発現することはできません。また、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動」するものであれば(憲法前文)、主権者国民と国政の間に一種の切断性が存在することも受容すべきことでしょう。また立法、行政、司法の三権がそれぞれにおいて、それ自身の権限と権能を有することは、それらの権力を付与した授権規範、組織規範としての憲法が厳に保障するところであり、国民は“命令的委任”を行うことなく、三権のおのおのにそれぞれ固有の国権と国政作用を委ねているわけです。(命令的委任とは、国民が議会や行政に対し何らかの行為や決定を命令的に委任することであり、もちろんそのような行為は許されません。それは代表民主制を無視した国政への直接介入であるからです。)
しかしながら、国政の執行が、国民と国家機関との間の信託的な関係性原理に基いてとり行われているという事実は、この信託原理を創出し統括する根源的な駆動作用力としての国家権力一般が、― それは国家権力より他の何でありえましょうか ― その自己発現の社会的、政治的様態性において、議会や内閣、裁判所などが有する機関権限のみにおいて制限されなければならないことを必然的に要請すべきものでしょうか。言い換えると、私たちが国政の主権者として、また憲法制定者という立場から国家を眺め、憲法および「法律による行政の原理」を基軸とする、国家におけるさまざまの権力作用の動態的、静態的なあり方についてかえりみるとき、国政諸機関の保有する組織規範的権限についてはその執行権を含めて、これを正当的なものとして了解し受容し、また命令委任を自制しつつその作用に“被治者”として従いつつも、― それらは国民が授権した権限であったわけですが ― 他方において、国政機構上の受託者三権とは別に、自らの権限を国家における権力作用のあり方として、すなわち「国権」として、これを自律的、自己再帰的に授権認証し、措定することになんらかの国家原理的な問題、あるいは憲法原理上の問題が発生するでしょうか。
もちろんいかなる政治権力であれ、いたずらに、正当な理由もなく、自己目的的に生み出されてはならないでしょう。しかし、私たち国民が国政の委託者としての立場から、国政の受託者としての国家機関を最終統制するために、自ら保持する根源的な権限を、“主権としての国権”、あるいは“国権としての主権”として概念定立し、国家のうちにその制度的枠組みをあたえて実体化しようとすることは、国家原理を逸脱する誤った考えでありましょうか。無論、そのような主権的な制度機関による社会統治機能を常在的、受託者統制的(国政統制的)に発現することは一種の政治的、行政的な緊張状況を生み出してゆくものでしょう。しかし、それは主権者の視点よりみればむしろ望ましく、積極的な意味をもつ政治的緊張です。国家は国政(機関)のためにあるわけではないし、ましてや国政の安定性が国民にとっての最重要の政治的価値であるわけでもないからです。それに、『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じてのみ行動』するわけでは必ずしもないという認識を国民の大半が受容すれば、現行の国政執行体制との間に統治機制的な齟齬や国政過程上の混乱の生じることも回避できるはずです。
それとも主権とはあくまでも、国政無媒介的な様態においては実体的な権力として認証されてはならないものなのでしょうか。もしそうであるとすれば、そのような判断はいかなる国家権力主体の名のもとに、またいかなる憲法原則的了解性や憲法原則的外延性、憲法原則的演繹性のもとに導かれるものでしょうか。
少し先走りすぎたようです。憲法41条に戻りましょう。ここで41条から「国権の最高機関」という語句を取り出して、これを“国の最高意思の存する権限機関”という観点から検討してみましょう。
そうすると、もしある機関が「国権の最高機関」として存立していながら、その機関の属性としてそこに“国の最高意思”が存しないとすれば、そのような機関は、「国権の最高機関」としてのあり方として極めて不条理な、妥当性を欠く存立状況のように思われます。もし「国権の最高機関」と呼ばれるある国家機関があって、この機関が実は、この機関とは異なる別の意思主体に統制され、あるいは従うべきものとしてあるならば、はたしてこの機関を「国権の最高機関」と呼ぶことはできるでしょうか。それはできないでしょう。なぜなら、「国権の最高機関」という概念規定性から“国の最高意思(が存する)”という属性を控除することは原理的に不可能であるからです。
ところで、“国の最高意思”とは主権の存する国民のうちにあるのでした。であるとすれば、「国権の最高機関」は、「主権の存する国民」のうちにこそ見出されるべきものでしょう。となると、憲法41条の「国権の最高機関」にいう「国権」を無媒介的、無制約的な国の権限、つまり国の最高意思(主体)としての国権と解釈することはできません。41条の国権概念をそのようにとらえることは、国家の主権原理と相容れないからです。
以上をふまえて憲法41条に戻ると、「国会」が「国権の最高機関」であるとしても、この「国権」概念が「国会」という国家機関に結びつけられた、「国会」についての“規定性”として言及されている限りにおいて、そこにいう「最高機関としての国権」が無媒介的、無拘束的、絶対的な国家権限、国家権力一般としてあるということはできないでしょう。国家におけるそのような包括的、根源的な権力概念を国会という組織機関に関係づけて適用することは、主権者である国民が設置した国民代表議会としての国会の存立根拠的な被拘束性、被制約性において不可能だからです。それゆえ憲法41条における「国権」という権力概念は、「国民の厳粛な信託」において設置、運営される分権的統治機構における国家機関的国権のそれとして、つまり憲法前文に規定される「国政」概念の枠組みの内部において把握されるべき権力概念でありましょう。
したがって憲法41条の内容は、この条文を私たちが主権者という視点から、主権者という立場と自己認識においてとらえ、向き合うとすれば、本来、『国会は、国政における国権の最高機関であって・・・・』、あるいは、『国会は、国政としての国権の最高機関であって・・・・』というように語句を補って、記されるべきところのものではなかったでしょうか。なぜなら、ここで“国政における”や“国政としての”という制約性をはずしてしまうと国会の国権が、包括的な意味における国家の最高権力、すなわち私たちが通常、「主権」という言葉で理解している権力概念として解釈されてしまう余地を残すからです。しかしながら、憲法条文を介して、主権者である国民によって設置される国会はあくまでも国政機関として存立するものであり、もし国政という枠組みを取り払ってしまえば、それでもなお国会を「国権の最高機関」として規定することはもはやできなくなるというべきでしょう。(主権者である国民が、憲法を根拠にして、国会の制定した法律を違憲として斥けることが原理的に可能であることからも、国会が主権者の権限を超えて国権の最高機関ということができないことは明白です。)
もちろん、国会が「国の唯一の立法機関」として法律を制定することは、立法の目的や趣旨においてある国家的意思を示すことに他なりません。しかしその国家意思はあくまでも、国民の厳粛な信託によって成立する立法機関としてのそれであり、包括的、根源的な意味における国家の最高意思ではありません。このことは法律(国会)の委任によって制定された、国保政令を含む何百、何千もの内閣政省令について、これを国家の最高意思とは決して呼べないことからも明らかでしょう。それらは法令としての規範拘束性において、まさに「国権の最高機関」としての意思と法効果を有しているわけですが、その実体的なあり方、内容は“行政府的国政意思”とでもいうべきものに過ぎないでからです。
ところで、いま述べた「包括的な意味における国家」とは単なる狭義の国政的な意味における国家ではありません。それは国政としての国家、議院内閣制を基礎とする統治システムによって構成される国家機構の基底にあって、これを支える人々や領土、歴史的、文化的な社会背景などから成る国家であり、国政を信託されたものとしての国家、および国家諸機関はこの包括的意味における国家の政治部分的な領域においてのみ存立するものでしょう。またその最高権力機関は主権者としての国民であり、国会でも最高裁判所でもありません。それゆえ、もし包括的な意味における国家の最高機関が、主権者として、主権の存する国民のうちに認識されるべきものであるならば、その認識を保持しつつ、他方において、憲法41条の「国権」を国家概念の基底的、包括的な意味水準で了解することは国家原理からの逸脱です。そこでは、国会のうちに見出された国権概念が主権概念と併存しつつ、主権の作用を受けることのない包括的な国家権力範疇において、つまり「国権の最高機関」として確立されてしまうからです。そのような国権概念解釈は、主権者である国民にとって容認しうるものではありません。たとえそれが、「国民の厳粛な信託」において成立するものであってもです。
それゆえまた、憲法41条における「国権の最高機関」が主権者(あるいは主権者機関)を名指すものではないからといってそのことは、「国権の最高機関」という概念が、主権者に適用されないことにはならないでしょう。なぜなら主権者こそは、― その集合的観念において ― 「国権の最高機関」に他ならず、この“国家の最高意思”を別にして、そこから隔てられた国政領域にこれとまったく同格、同等の「国権の最高機関」が成立することはできないからです。ただし、もし主権者(あるいは主権者機関)に対し「国権の最高機関」という同一の語句を使用するのであれば、そこにいう「国権」は当然ながら、憲法41条の「国権」とは根源的に異なる国権観念として把握されなければならないことになるでしょう。つまり国権という観念は、憲法原則に従って憲法を読む限り、二通りのあり方において存在するということになるわけです。
さて41条をめぐる上述の意見に対しては、“憲法41条は、憲法制定の成立原理に基き、主権者たる国民が国民代表議会としての国会について定めた規定であるから、そこにいう『国権の最高機関』から条文制定者としての主権者が除外されているのは当然のことである”という反論がなされるかもしれません。この反論は上にも述べたように正当なものでしょう。加えてまた、
「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、
その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民が享受する。」
という憲法前文から、「国民の代表者」の行使する「その権力」が「国政」における権力であることは明らかである、との指摘もなされましょう。これももっともな指摘です。ではこれらの指摘の正当性を踏まえて、“憲法41条の「国権の最高機関」を「国政における国権の最高機関」としてわざわざ念押しする必要性などは少しもない”というべきでしょうか。まったくそうは思われません。
なぜなら、「国民の代表者」をも含め国民の大部分は、「国政」という観念枠組みをほとんど意識することなく、そのような留保なしに、「国会は国権の最高機関である」と実際のところ思い込んでいるように思えるからです。そしてこのような“思い込み”が成り立つのは、私たちの一般的な意識状況にあっては、「国権の最高機関」という語を、わざわざ「国政における国権の最高機関」と言い換える必要も感じられないほどに、国権という言葉、国権という観念が、国政における国権ただそれだけを指示する語句となっているからだということではではないでしょうか。すなわち、そこでの「国権」という観念は、必ずしも主権の存在を前提として、主権者である「国民の厳粛な信託」のもとに成立する、そのような意味での国政的国権観念として了解されているわけではありません。そうではなく、国権はむしろ包括的な意味における国家そのものとして立ち現れているのです。そしてそうであればこそ、主権観念欠落的な様態で、国会は包括的な「国権の最高機関」なのです。
したがって、国会が国権の最高機関であるという規定性についての認識は必ずしも、「なぜならそれは主権者としての憲法制定者が、『主権としての国権において』、国政機関としての国会について規定しているからだ」という、“主権者”と“国会”の「国権」媒介的な関係性についての構造的な理解に基づくものではなく、― 言い換えると、「場合によっては『国権の最高機関』は主権者を意味することもありうるが、しかしこの41条内文脈ではそうではない」という認識を経ることなく ― むしろ、あたかも主権とは切断された権力地平の上に、「国家権力」の独自の領域が確保され存立しているかのように了解し、認識されているということではないでしょうか。つまり国権という観念は、本来は“類概念”的な包括性において、「国権としての主権」でもあり「国権としての国政」でもあるべきところ、前者の意味における国権が私たちの意識において限りなく希薄化し、その結果として後者の意味性だけが残されたということではないでしょうか。憲法を制定した、憲法テキスト外在的な権力としての国権は、国権という言葉についついての私たちの一般的な理解からほぼ完全に脱落してしまっているのです。
では仮に、国権という言葉についての一般的な了解のされ方が上に述べたようなものであるとして、これらのことは私たちの政治的意識にどのような作用を及ぼすものでしょうか。もし「国権」という観念が国民にとって常に、― 憲法テキスト外在的な意味状況おいてさえも ― 憲法41条の文脈でいわれる国権観念としてのみ立ち現れ、存立しうる観念であるならば、つまり国権が国会をはじめとする国政機関の内部にのみ見出され、しかも国政機関としての国会が「国権の最高機関」であるということが何らの留保もなく成立するのであれば、国民は「国権」に対し、ただ一方的に受動的な関係をもつことができるのみである、ということになるのではないでしょうか。なぜなら、「国会が国権の最高機関なのである」と“無条件的に”言い得るような国家観においては、「主権としての国権」が存立することは適わず、「国権」という観念は国民に対し純粋に“外部性”としてのみ出現することになるからです。しかもこの「国権」は、国民に対してもっぱら権利や義務を制定する権力者としてのみ現れる、そのような外部性として現前するより他にないからです。そこにおいては、国家の権力は国民のうちに見出すことはもはやできず、国権は国民の側にはありません。そうすると、[国民と国権の関係]という地平上において国民は、主権という契機が介入することなく、あくまでも国権に対する被治者、あるいは国権の被処分者という視点からのみとらえられているということになります。そして実際のところ、そのような視点で、私たちの多くはこの憲法41条を読んでいるのではないでしょうか。「国権」はそのようにして立ち現れ、見えているのではないでしょうか。
すなわち憲法41条の条文意味了解として、そこにいう国権は決して“国政における国権”ではなく、一般的、包括的な国権状況としての「国権」なのです。ですから仮に、「国会が国権の最高機関である以上、国民は唯一の立法機関である国会の定めた法律に絶対無条件的従うべきだ」というような発言がなされたとして、私たちの多くはおそらく、いかなる反論もできないのではないでしょうか。それともこのような発言に対し、“主権”を対抗原理とすることによって反駁できるでしょうか。そのための、理屈、理論的な根拠、さらにはなんらかの制度的な枠組みを持っているでしょうか。むしろその際、主権を国家権力や国家権限としてとらえるような視点、“ものの見方”さえ浮かばないというのが実際のところではないでしょうか。そしてその主たる理由は他でもなく、“「国会は国権の最高機関」であるから”、という認識を一切の留保なく、無条件的に、そして“国政観念無媒介的に”受容しているからではないでしょうか。
さて以上の議論を踏まえると、憲法41条の国権をどのように理解するのかということは、単に国会の問題ではなく、同時に主権の問題である、主権者国民の問題に他ならないということになるでしょう。
ところで憲法学はこの語句をどのように論じているでしょうか。憲法学がこの第41条をどのような問題意識から論じているかというと多くの場合、「国権の最高機関」という規定性を、もっぱら分権的な統治機構の内部における内閣や裁判所との水平的、あるいは位階的な関係性という視点から分析するものがほとんどであり、この概念を国権としての主権という地平まで立ち戻って論じたものはほとんど見当たりません。(それらの学説は、最高機関としての国会の地位を、内閣や裁判所に対してどのように評価し重み付けるのか、その説明の差異に応じて、“政治的美称説”、“統括機関説”、“総合調整機能説”などと呼ばれています。)
たしかに憲法学は憲法41条を前にして、国会の最高地位性という規定について、これを分立権力の機構内で、内閣や裁判所との関係性の観点から説明すべきでしょう。そしてこれを説明する学説はそれなりの重要な意義を有するものでもありましょう。しかしながら、「国権の最高機関」という言葉がほとんどの場合そこにあって、主権観念を想起させる契機たり得てはないということは、憲法の読みとして、あまりにもテキスト内在的な視点に拘束されているとは言えないでしょうか。(1)
もし憲法学が、この語句を主権概念の見地から考察することを不要とみなし、したがって、“国政における”という制約性を41条に読み込む必要はないと主張するのであれば、それは国家権力一般としての国権が無条件的に国政上の三権に集約されるという解釈を許容するものであり、間接民主制という政治方法を考慮に入れたとしても、主権者の立場において容認できるものではありません。なぜなら、そのようにして憲法41条の国権を留保なしてに認めることは、「国権の最高機関」という一般的、包括的国家観念のうちに、主権という観念の占めるべき場所が存在しないことを、つまり国権という概念範疇から主権という観念が締め出されることを意味するからです。しかしそのようにして定立される国権概念は、国民主権の国家原理思想とどのように両立しうるのでしょうか。
またその不言及が、仮に“日常語”としての国権が三権として了解されているという社会通念的な状況を無反省に引き継ぐことによるのであれば、それも論外です。憲法学が「国権」」という国家論にとっての基本的概念を、「国権の最高機関」という国家原理的文脈のうちに位置づけ、意味確定する際の、その厳密な学としての批判認識作用を漫然と日常会話水準の思考延長上に展開してよいはずはないからです。いかなる理由、根拠であれ、国民主権に基く憲法学は、「国権」という言葉を国政組織や国政作用の占有物にさせてはならないというべきではないでしょうか。
他方、もし反対に主権の最高機関性が自明のことであるというならば、41条の「国権の最高機関」と主権との関係性について釘をささないことは、依然としてなお不可思議な、そして一種お目出度いおはなしです。憲法について深く考えるべき人間が、この語句をそのように簡単に国会に譲りわたすべきではないからです。しかし実際のところ、主権がはじめから「国権」として感受されることがないからこそ、そもそも問題意識として自覚されることもないのだ、ということではないでしょうか。
小括
ここまで述べてきたことを整理しましょう。まず、憲法第41条中の「国権の最高機関」という規定をどのように理解すべきかという問いかけを導入として、 国権を担う主体は必ずしも国会などの国政機関に限定されるものではなく、国権は主権者である国民のうちにも見出されるべきものである、という認識に進んだのでした。この認識に基づいて、国権という権力観念をそれら個別の国権主体から取り出し、これを主権としての国権や、国会や裁判所など国政(機関)における国権との関係性でとらえるならば、国権はそれらに対して高次元の概念として位置づけられることになります。(ここでいう“高次元”とは、類概念と種概念の間にみられるような包含的な関係性をいうものであって、価値的な上下関係をいうものではありません。)
そうすると包括的な概念としての国権は、その本来の包含的なあり方において、そこに包摂される主権や国政に対し、国権対主権というように、同一の権力平面上で、水平対立的な関係性に置かれるべきではありません。国権という概念そのものは、権力主体としての国民や国家機関などが保持する、国家におけるさまざまの特定権力を包摂する一般的権力観念であるからです。さてしかし、ここで「国政としての国権」から国政を捨象してこれを国権そのものとみなし、また「主権としての国権」から国権を捨象してこれを主権としてのみとらえて、そうしておいてから、両者を対比すれば、そのようにして不適切に抽出されてきた『国権と主権』の両概念は、本来の「国権と主権」からは乖離したゆがめられた関係性へと転移します。両者は、もはや本来の包含的な概念関係においてではなく、実際のところは、切り離された別異の概念関係として ― 「国政と主権」として ― 位置づけられることになるからです。しかもそこで主権は、あくまでも国権とは異なる何ものかとして、国権の外部に、国権という概念に対して“対決的”、あるいは対比的にとらえられているわけです。
もちろんそのようなとらえ方は、国権と主権を本来のあるべき関係性で概念把握するのではなく、それらを歪曲された国家原理の枠組みにおいてとらえることです。なぜなら国権を「国政としての国権」や「国会としての国権」という意味に限定して規定することは、主権を国家における権限から排除することを前提にしているからです。さらには、主権をそのような排外的な意味性でとらえられた国権概念に対比させれば、権力概念としての主権は決定的な意味変容を受けることになるからです。
さて以上があらまし、国権と主権という概念についての私の基本的なとらえ方であったわけですが、それではこのような説明は、充分に説得的なものでしょうか。残念ながら必ずしもそうとは言えないでしょう。というのも国権と主権を並べて対比することに、実際のところ私たちは不自然さや奇異の念をほとんど感じていないからです。その理由は、国権という言葉が私たちの日常世界の理解においては通常、「国政としての国権」のみを意味しているからにほかなりません。国権はそこでは高次の包括的概念ではなく、端的に「国政としての国権」を意味し、そのため「国権と主権」は、事実上、「国政と主権」という意味で了解されているわけです。そして国権という言葉が日本語の一般的な使われ方として、もっぱら「国政としての国権」のみを指し示すとしても、そのことをとやかく言うことはだれにもできないことでしょう。言語の意味内容を規定するのは、特定のだれかれではなく、社会全体の意思や選択の結果としてあるものだからです。
とはいえ、ここで簡単に引き下がってしまうこともできません。なぜなら、ここで論じていることは言葉や言語慣習の問題にとどまることではないからです。主権と国権をどのような概念関係としてとらえるのか、ということについて考えることは知的なおしゃべりとして片づけられるようなことではなく、それらを社会全体としてどのように了解するかということは、私たちひとりひとりの生存のあり方に直接はね返ってくるような社会的行為としてとらえられるべきことだからです。それは一見したところ、ささいな言葉の問題として見られるだけかもません。しかし、それらの言葉をどのような内容として了解し、受容するのかということは、その帰結において、社会にとっても個人の生活に対しても、国家作用の実体的なあり方において重大な違いをもたらすものです。なぜならこれらのことは、国家と国民の基本的関係性の枠組みに関わるような言葉であり概念であるからです。それゆえここで、これらの概念についてその理屈をとことん突き詰め、貫き通すことを怠り、いい加減にしてすませることはできないことなのです。
では私はいったい何を問題視しているのでしょうか。再び私の視点を言うと、国権と主権の概念関係は例えば、“人間と男”(あるいは“和菓子と大福”)という概念間の関係性に置き換えることができるようなものではないか、ということを私は言いたかったわけです。つまり、男は人間であるに決まっているのですから、人間対男というとらえ方は不自然な対比関係でしょう。“人間と男”(あるいは“和菓子と大福”)は、そもそも概念範疇の位階水準として、同一レベルで対比的にとらえることが可能な概念関係にはありません。男について言えることは何であれ、理屈として必ず人間についての概念規定の内に含まれているはずだからです。しかるに主権を国権に対比するとらえ方も、これと同様ではないのか、国家における権力、権限としての国権という概念は本来、主権という概念に対して、そのような包含的な関係にあるべきではないのか、というふうにとらえたいのです。
つまり国権や主権をめぐるここでの議論を、これらの言葉についての私たちの日常的な感覚水準での理解によってのみ押し通すことはできないことであり、すべきことでもないという考え方が成立するのではないでしょうか。なぜなら国権や主権などの統治原理上の概念は、なによりも“理屈として”、“社会の約束事”として存立しているのであり、この理屈を社会原理として私たちが受け入れることで、この社会は単なる“人間の物理的集合体”ではなく、“国家社会的共同体”として成立することが可能であるからです。これらの概念は、その概念を支える理屈において、この国家社会における個人と国家の間の基本原理的な関係性を規定するものであり、個人と国家の間に発生するすべての権利・義務的な作用関係はもちろんのこと、国家機関の行うあらゆる種類の作用行為もこの基本原理の上に成立しなければならないからです。
そうであればこそ、主権を国権としてとらえる視点は“理屈としての”国権において、あるいは“理屈としての”国家像において言われるべきことであり、私たちが主権や国権という言葉を、単なる日常感覚においてどのように使用しているかということによって左右されるべきではありません。主権は理屈として国民のうちに存し、理屈として国家の権力、国権でなければならないからです。それゆえ私たちは、国権という概念を国政や国政的作用としての国権に意味限定化してはならないのです。たとえ国権が私たちの日常の感覚では国政であるとしても、そうであるからといって、主権は国権ではないということになってはならないからです。なぜなら主権は理屈として、国権でなければならないからです。
社会状況としての言葉
さてここまで、いうなれば理屈としての主権、理屈としての国権について述べてきたわけですが、翻って私たちは、国権とは何か、主権とは何か、両者の関係はどうあるべきか、これらのことについて実際のところどのように受けとめ、とらえているのでしょうか。このような問いはおそらく、私を含め多くの人にとっては、通常ほとんど意識にのぼることもなく、考えるよすがもない、つかみどころのない設問であることでしょう。しかし私たちがこれらの言葉をどのように受けとめているとしても、その背後には“国権や主権という言葉”、及びそれらの関係性についての社会的了解性を取り囲む、「錯綜した戦略状況」があるように思われます。しかもここで見落とせないのは、この戦略状況のあり方をどのように読み取るのか、あるいは読み落としてしまうのかということそれ自体もまた、主権者にとってきわめて重大な、主権に関わる問題に他ならないということです。いえ、それどころではありません。その読みのあり方そのものが、実は自分自身の主権のあり方そのものを規定してゆき、方向性を与えさえするのです。その戦略状況を主権者である自分がどのように読むのかそれ自体が一種の再帰的な行為であり、自分自身の主権的なあり方に枠組みをはめ、直接自分にはね返ってくるような行為としてあるからです。
もちろん言葉とは話し言葉を含めて、本質的に社会的なものであり、社会の一部でもあり、社会のさまざまな状況側面や私たちの生活の実相が、言葉のうちに多様に、錯綜的に映し出されていることは当然のことです。しかしこのような語句を用いるのは、言語一般のあり方として、これらの言葉が社会状況を多様に反映しているという事実を漠然と表現したいからではありません。
ではどういう状況かというと、そこにはまず、言語および実体的制度としての「国権」や「主権」をめぐって一群の政治的、行政的な行為や解釈、判断、そしてさまざまの法制度や施策などが見出されます。他方、それらを主なる研究対象とする法学を中心とする学問的な言説的状況があります。そしてそれらが縦横に交錯しつつ多様に作用関係し合い、さまざまの意味的状況が生み出され集積することによって、ある社会統制的な戦略状況が形成されているのではないか、そしてその結果、そのようにして織りなされた重層的、多極的な言説の戦略状況が、社会におけるこれらの言葉の意味的な働きやあり方に対し、また私たちの言語意識や言語感覚に対してある執拗な働きかけを行っているのではないかということ、そういったことを言いたいのです。
無論さしあたって今のところ、そのような言語的戦略状況についての私の言葉は、単なる私の主観的な判断、見立てに過ぎず、またそのような状況が仮に認められたとしても、それを自然界の物理的な現象を実証的に説明するように述べることは困難でしょう。しかしこのような状況事態は、客観的にそれを証明できるかどうかということ以上に、あるいはそれ以前に、そもそも私たちが、そのような状況に向けて意識的な眼差しを振り向けているのかどうかという“気付き”や“関心”の事象問題としてみられるべきものではないでしょうか。さらには気付くことによって、その錯綜した状況から私たちが、いかなる社会的、政治的な意図や含意を読み取るのか、そしてそこに生起する意味作用の戦略的な連関や布置を全体としてどう解読し、見抜いているのか、見抜いていくのかということについての、いわば社会的読解力や社会的感受性が問われていることでもあるようにも思われるのです。
このことに関し一つはっきりと言えることは、主権者としてのこの社会的読解力、つまり主権者としての視点から、国政上に生起するさまざまなできごとや行動を読み解き、それを自分たちの政治的な判断や行動にまで結び付けてゆく力は、ただちに国家の主権者としてのその主権性の“質のあり方”に直結するものだということです。ただしこの力は、単なる認知的な能力ばかりではなく、時には言語化される以前の直感や社会的なきゅう覚であってさえ良いものでしょう。他方、その反対にもし、私たちがそのような社会的気付きの感覚(きゅう覚)を失えば、私たちは事実上この状況に対して無力、無抵抗となり、為すすべもなく、その自覚すらないうちに、「国政」の発する言語によって一方的に統制された、「国政」にとっては御しやすい“主権的存在者”へと凋落してゆくのです。そしてこれはまさに、「国権」や「主権」という言葉がどのように流通し、了解され、受容されているのかということについてにさえ言えることではないのかということ、そのことに私も遅ればせながらようやく気が付いてきたというわけです。
それにしても「国権」や「主権」という言葉は、言葉としてあまりにも巨大で複雑錯綜としています。その巨大さはもちろん、国家という観念の巨大さ、複雑さに通じているものでしょう。そこで、言葉をめぐる状況性ということについて、ここでわかりやすい例をこれら以外の言葉でひとつ挙げてみます。(あまりにもわかりやすいので、“戦略”状況の事例としては不適切かもしれませんが) それは、「行政サービス」という言葉です。この語は主に、行政が地域住民の便益や福利のために行う活動、施策全般を指していう用語として定着しているものです。(特定の企業や産業活動などに対して行われる公的補助や便宜供与についてもいわれることですが。) ではどのような状況があるというのでしょうか。
もともと“日本語”としての「サービス」は、ある者(ひと、団体)が何ごとかをある者に無償で行う場合に限って使用される言葉です。しかし、行政の施策はすべて税金によって行われます。つまり税による有償事業です。むろん、私たちの多くがそのことを知らないということはないでしょう。とはいえ、この言葉が繰り返し使われることで、私たちの意識にもたらされる一種の思考催眠的な効果を侮るべきではありません。はたして、「行政サービス」という言葉が広く社会に流布し違和感なく使われることで、私たちはそれらの施策があたかも、なにか行政による寛大な恩恵として施されているかのような感覚を、わずかであれ持たされてしまってはいないでしょうか。とまれ、財政難を理由とする行政サービスの削減や停止も、このサービスという言葉の働きによってある程度は納得させられてしまっている、という社会心理的作用を否定しきれないように思われるのです。しかし、それらが本当は「サービス」でもなんでもなく、そもそも行政の職務ではないのかということを私たちが意識化すれば、別の支出項目を削減すべきだという考えが浮かぶこともありえるでしょう ― 残念ながらそのような声を一度として耳にした覚えはありませんが。
ここではっきり言えるのは、この言葉が社会的に定着し、メディアを含めて広く人口に膾炙することは、そしてそこで「行政サービス」という語がまさに「サービス」という意味性において意味流通し、やりとりされることは、行政機関にとって大変に好ましい状況であろうということです。たとえそれがどこまで意図された戦略であろうとなかろうとです。(2)
むろん私が行政サービスという言葉に違和感を感じたとしても、だからといってその言葉を使用禁止にしてしまうなどということはできないことです。私たちは皆ひとりの個人として、言葉の使用法を自身で創造したり言葉の意味を自分勝手に変更ことはできません。またどれほど鋭敏に言語感覚を研ぎ澄ませて言葉の使用に意を用いたとしても、社会通念的に定着した言葉の使用法や意味空間から自由になることは ― 詩的言語は別にして ― 不可能でしょう。とすれば、ひろく事象的世界の認識においても、他者とのコミュニケーションにおいても、言葉を使うことは自由な思考活動をもたらすだけではなく、思考を拘束し思考を制約するものでもありえます。それは私たちの意識状況や、思考の枠組みを常に根源的に制約するものとしてもあるわけです。ただし私たちが社会共同体的存在として、言葉に頼ることなくものごとを考えたり行動することができない以上、この拘束は善し悪しを超えた必然的なものでもありましょう。
この言葉の思考制約的な働きは、当然のこととして単に思考の水準にとどまるものではありません。つまり、言葉によって制約された、あるいは水路づけられた思考のあり方が、今度は私たちの社会を見る見かたや判断力に影響を及ぼし、社会のさまざまな局面で社会のあり方に対し、無意識のうちにある枠組みや方向性を与えたり、私たちのものの見方をある種の定型(ステレオタイプ)のうちに封じ込めてゆく、固定化してゆくということさえあるでしょう。それらの言葉とは、単なる日常語のみならず、ひろく政治や社会的制度に関わる言葉をも含み、私たちの意識のなかで縦横無尽に混じり合いながら私たちの意識活動、意識状況を形成します。そしてそのようにして形成された私たちの社会意識のあり方が、私たちの社会に対する関係性を、さまざまな場面で実体的に方向づけ、規定していくような働きや作用を及ぼしてゆくのです。(3)
以上を敷衍して言えば、言語、思考、そして社会のあり方は不可分の一体的なものとしてあり、それらは錯綜的に、またときには意図的あるいは戦略的に作用関係しあうことで、公的にも私的にも、制度的にも非制度的にも、その中で生きる私たちの生存環境や私たちの思考、感情、行動の基本的な枠組みを状況として多様に、多次元的に、 ― 身体的、精神的、社会的、経済的、政治的、法的、性的、文化的、家族的、共同体的などの局面で ― 形成してゆきます。勿論そこにおいて私たちは個人として、思考の主体として、一方的な受身の立場にとどまる必要はなく、これらのさまざまな枠組みを自身の意識のなかで対象化し、とらえ直すこともできます。そのようにして、自分自身の生のあり方や思考判断のあり方を選んでゆくことは可能でしょう。しかしながら、そのようにして言語的に形成された包括的な生存環境のある社会的枠組みが、個人の思考やあり方に頓着することなく、私たちに対し、強い拘束力として立ち現れてくることもあります。それはある一群の言葉が、ときには私たちの自由さえをも制限するような強い社会的な拘束力とともに出現するような社会的状況です。
その最も顕著な状況は、それらの言葉が社会制度的な規範性を帯びつつ私たちに迫ってくるような場合、すなわちひろく法令に関わるような社会的文脈で出現する場合です。言いかえればそれは、― 現在の日本国においては ― 何らかの関与性において、国家が分立の三権機関を介して「国権」を行使する状況であるとも言えるでしょう。もちろん法令としての言語が、強い社会的規範性や拘束力、そして執行力を備えることは当然のことです。ただしそれは、その強制的な拘束力によってのみ成立するものではなく、同時に主権者である「国民の厳粛な信託」に沿うような実体的内容において成立していなければならないでしょう。そしてそのことが了解判断できるためには、私たちはその国家作用をその強制力だけではなく、その作用を包摂する包括的な制度的状況性において理解することが必要です。国保保険料の行政処分が、国民の信託に沿うような実体的な内容として成立しているかどうかということは、単にそれが政令に基づいて正しく手続き処分されているかどうかということだけでは判断できず、その政令の法的根拠性そのものを合憲限定的に厳格憲法解釈したり、それを国民皆保険制度全体のうちに位置づけて確認し、検討することが、つまりその処分を包摂する国家作用を包括的にとらえた上で理解しなければ判断できないようにです。
それゆえ私たち国民は、国権が行使されるいかなる個別の国家作用状況においても、国家作用の状況をその包括的全体性において、主権者としての立場から意識のうちにとらえ、見定める必要があるでしょう。私たち国民が、単なる観念としての主権者や国政の委託者としてではなく、実体的な国権を有する主権者や委託者であるために、私たちはまず国権をめぐる戦略状況そのものを凝視し、その戦略性を捕捉しえていることが必須の要件であるからです。当然そこにおいては、「行政サービス」という言葉をただ漫然と聞き流すようなあり方で、国権という言葉を了解し、国権の執行状況を眺めていていることはできません。これらのことは、決して単なる認識的な問題、あるいは言語の問題にとどまるものではなく、その捕捉性と凝視性の如何によって、私たち主権者としてのあり方に大きく作用してくる実体的な統治問題としてあるからです。なお、私たち日本国民が、国政に対する「国民の厳粛な信託」の適否判断そのものを国政に委ねることができないということ、それが統治原理的に不可能であることは前回に述べたとおりです。
さてこうして「国権」という言葉に再び対面したわけですが、では「国権」という言葉、この観念の戦略的状況とは、わが国において目下のところいかなるものでしょうか。法令が私たち国民に対して立ち現れるとき、それがいかなる社会制度的な状況においてであれ、その背後にはなんらかの「国権」があってその状況を支えているのだと言えるでしょう。では、そこにおける個々の国家作用、国家行為を支えるその基盤的国家原理としての国権は、実際のところどのような戦略的状況性において、私たちの前に存立し、そしてそれを私たちはどのように捕捉し、凝視している、あるいはいないのでしょうか。
このような途方もない問題群にどう接近し、手を付けていったら良いのか、自分で大風呂敷を広げておきながら、途方にくれてしまいます。しかしおそらくそこには、唯一の正しい接近方法というようなものは存在せず、とにもかくにも、この問題に着手するということが大切なのではないでしょうか。というのは、この問題はさまざまな光源からさまざまの光を当てられることによってのみ、その立体像を得ることができるように思われるからです。ここでの試みもその一つに過ぎません。
さて本論に入ってゆく前に、これらの問題群がその問題の本性上において胚胎するある事実について確認しておきたいと思います。それは、国権とは何か、主権とは何かと問うことそのことさえもが、この戦略的状況の渦中でのみ問われうるのであり、私たちはだれひとりとしてそこから抜け出し、この状況の外部からこれらの状況を絶対的に中立で、客観的な立場から論ずることはできないということです。というのも、私たちはみな国政的存在や主権的存在として、これらの権力作用の当事者であり、意思主体でもあるからです。私たち自身がこの力学的な戦略状況のなかにしっかりと拘束され、その自覚の有無に関わりなく、そこにおいてそれぞれの役割を当事者として担い、引き受けているからです。もちろん、このようにして語る私の言葉もその渦中で発せられているのであり、なんら特別の発言資格を主張できるわけでもありません。
ここでこの状況事態を錯綜的にしているのは、例えば、“国権”という言葉をどのように解釈するか、― 憲法41条の「国権」をどのように読みとるのか ― そして主権と国権の概念関係をどのように了解するのかということそれ自体が、単なる認識的行為ではなく、同時に言葉の広い意味で権力的な行為でもあるということです。というのも、これらの権力作用をとらえる視点や観点、つまりこれらの諸観念をとらえる私たちの“ものの見方”そのものが、そしてそこに付随する私たちの決意や選択判断そのものが、社会的な意味生成物としての国権や主権観念を形成してゆくのであり(あるいは“構築してゆく”のであり)、私たちの視点や見方とは切り離されたどこかの絶対的意味空間に、“国権そのもの”や“主権そのもの”があるわけではないからです。あるいはまた、主権や国権の意味を定義する資格をもった人間や機関がどこかに存在していて、それらの定義によってこれらの言葉の意味や観念内容が一方的に決定されるわけでもないからです。そうではなく、社会における錯綜した戦略的状況のなかにあって、これらの言葉や概念関係をどのように読むか、読みとるかという私たちの主体的な認識行為そのものが、さらにはこれらの概念関係をどのように統制し、理路づけてゆくかという私たちの意志や決意性そのものが、ある「特定の遠近法的展望」における読みの行為として、観念および実体的社会関係としての権力を、そして主権や国権のあり方を規定し形作ってゆくのです。その“読み”や“認識のあり様”そのものが、自覚の有無に関係なく、主権の行使に他ならないのです。(4)
したがってもし私たちが、例えば裁判所の判決や議会の法律制定、政府や役所の行政行為などについて、さらには為政者の語る国権や主権のあり方に対して、なんら批判的に考えたり検討することもなく、ただ「そんなものだ」といって容認したりその状況を放置するのであれば、そのような投げやりな姿勢そのものが、その消極的な姿勢においてこれらの権力的作用を支持しているのであり、その状況の一部に組み込まれることとなるのです。そのような消極的なあり方において自分たちの力を行使し、その流れに棹さしているのです。権力状況についてのある解釈や発言がどこかでなされ、それとは別のところに権力状況があるのではありません。そうではなく、その読みや解釈、態度姿勢そのものが、意識するとせざるとに関わらず、社会における権力のあり方を、主権や国権のあり方を方向付けてゆく力学的要素としてあるのであり、これらのすべてを包含する“錯綜した戦略状況”そのものが権力の総体的な状況としてとらえられるのです。当然その読みや解釈もまた、権力という視点から批判分析の対象にさらされることを免れることはできず、私たちはそのことの自覚と認識のもとに、権力について何か語り、言葉を発するのです。そのようにして考え、認識することが、まさにそのことにおいてある“力”を行使することであり、そこにおいてこそまさに主権そのものが、その始原的なあり方においてこの共同体のうちに姿を現わしてくるのです。
そして言うまでもなく、国権や主権という言葉のあり方、意味規定性にかかわる議論について、私たちは主権を有する当事者であることの自覚において発言することができるはずです。いえ主権者としての私たち国民こそが本来、主権者の立場と視点においてこれらの言葉、観念の意味性、関係性を掌握し、統制すべきでしょう。主権や国権は、海辺の貝殻や空を流れる雲のような自然物ではありません。それらは“社会的構築物”として私たち自身が自分たちの意思と決断で決定しうることであり、政治家や官僚、あるいは一握りの憲法学者によって一方的に定義されるべきものでもないはずです。私たちは主権について考えたり語ることがそのことにおいて必然的に起動する、主権としての権力そのものにひるむことなく、といって力み返ることもなく、それらが事実として一体的なものであることを直視し、そのようなものとして受け止めるべきでしょう。
繰り返すと、主権や国権をどのように解釈するかという問題はその根底において単なる事実問題ではなく、― したがってその真偽を簡明に言い得るものではなく ― 規範的問題でありさらには権力問題であります。それは、自然物を記述するように「Aは〜Bである」というふうにではなく、「Aは〜Bであるべきだ」というように記述される命題問題です。というのも、国政としての国家権力は国民主権の原則に基く限り、決して自己準拠的にあるものではなくて、「国政としての国権」と「主権としての国権」との間の、相互作用的な関係性において成立するものだからです。それは主権と国政の関係性がいかなる状況のもとにおいて、いかにあるべきかという規範的関係性の問題としてあります。と同時にこれは、主権のもとに、主権的に問われ、主権的に応答され規定されるべき権力問題としてあるものです。このように主権を国権としてとらえること、そのこと自体がそのように認識することにおいて主権の行使であるからです。そこにおいては、認識することと権力の行使とが、主権の行使として不可分の一体的な行為として現象しているのです。
もっとも同じことは反対側の視点、立場についてもいえるでしょう。つまり、主権を国権としては認めないという考え方や国家観や国家論、そして権力論もおそらくありうるでしょう。そしてそのような反論もまた、その反論において、単なる認識行為ではなく、権力性を帯びた行為なのです。「国権」を主権性においてとらえようとはしない“ものの見方”、国権を主権の圏外に、主権とは切断してとらえようとする“ものの見方”も、その認識においてある権力を行使しているのです。それは明らかに、私たちの国家観に対してある枠組みをはめようとする見かたでもありましょう。ただしこれらの権力性を帯びた言論行為も、それらがなんらかの主体のうちに権力の最終的な根拠を見出すことを避けることができないものである限りにおいて、論じる立場や視点を離れて、絶対的に公正、中立な主張となるものではありません。そしてそうであればこそ、私たちもそのような言論、言説に対し、その背後にある権力性にひるむことなく、戦略的に思考することを求められているといえるでしょう。
そこでこれらの状況を少しでも解きほぐすために、国権や主権という概念、およびそれらの関係性について、ことばという視点から問題接近して考えてみたいと思います。これは、権力の問題が言語の問題に転換できるとか言語の問題に帰着する、収斂するいうふうに考えるからではなく、言語という社会的な媒体物を通して見ることによって、権力をめぐるさまざまの問題諸相がそこに切り出されて、顕わになると考えるからです。そこにおける主なる関心は、主権は私たちにとってどのようなものとして現在あるのか、そしてそれはいかなる戦略状況のもとにおいてそのようになっているのか、可能となっているのかという問いです。引き続き憲法41条を手掛かりとして、みてゆくことにします。
(1) 「国権の最高機関」を国会ではなく、国民としてとらえる視点、解釈の例を以下に引用します;
「憲法は、国会は、『国権の最高機関』である、といっている。 おそらく、国家権力を行使する任に当 たる機関のうちで、『最高』の地位を占めるというのであろう。しかし、この言葉は、簡単に、文字通りに 解釈する
ことはできない。第一に、厳格な法的意味において、国家機関相互の間に、一方が命令し、他方が服 従する関係が存するときは、両者の間に上下関係または従属関係があるといい、他のいかなる機関 の命令にも服しない機関があるときは、これを『最高』または『最上級』の機関という。 しかし、この意味では、わが憲法
上、国会ばかりでなく、裁判所も、また内閣も最高機関である。第二に、国権の最高機関が、国政の最高決
定権者、すなわち主権者を意味するとすれば、わが憲法上、主権者は国民であり、国会は国民の信託により
国政を担当し、国民に奉仕するものであるから、右の意味で国会を最高機関というのは、国民との関係からみ
て不当であるし、また国会の意志は、かならずしもつねに他の国家機関の意志に優越するものではなく、内閣
および裁判所は、それぞれの担当する行政および司法の分野においては最高独立の機関であり、さらに、憲
法は、権力相互の抑制・均衡をねらって、内閣に、衆議院を解散する権能を与え(憲法七条三号・六九条)、裁
判所に法律審査権を認めている(憲法八一条)。」
清宮四郎 『憲法T』(新版) 昭和46年 有斐閣 197頁
私はこの考えを支持します。ただし私の考え方は、“「国権の最高機関」についてこんなふうにも解釈でき
ますよ、それは主権でもあり得ますよ”、というものでは決してありません。
(2) これに関して気になる言葉がもう一つあります。それはしばしば政治家が口にする、「大きな政府か、小さな
政府か」という文句です。なぜ気になるのかというと、往々にしてこの語句が彼らの口をつくその際に、行政組
織機構の大きさや公権力の大きさということと、政府、つまりひろく公的部門の果たす役割や機能、責任の大
きさということとが、巧妙に混同されたり、いっしょくたにされて言及されているのではないか、という印象を受
けることがあるからです。「大きな政府」ということの文脈的意味性が必ずしもそこで十分に突き詰められない
まま、あたかも何かが自明であるかのように、この言葉が用いられているようにみえるからです。
そもそも「大きな政府」とはどういう意味でしょうか。一体ぜんたい政府の何が大きいというのでしょうか。
おそらくそこでは、政府のさまざまの側面が漠然と、包括的に言われているのでしょう。ただし、「大きな
政府」という言葉はしばしば、語のニュアンスとして、「肥大化した行政組織」や「規律統制なく膨張した財
政支出」、あるいは「過度に民間介入的な政治」など負のイメージを連想させるので、私たちはどちらかと
いうと肯定的、プラスの意味で受け取ることは少ないように感じられます。もっともそのような含意性を暗黙
の前提とすることで、「大きな政府」を斥け、行政組織の大きさや公権力の規模を適切に抑制するというこ
とが言えるとしても、そこから安易な一般化に走るべきではありません。なぜなら、政府および公的部門の
果たす作用はその“社会的役割”において多種多様であり、そこに付随する公権力それ自体の、“役割や
責任の大きさ”についてまでをも、さらにはその縮減の善し悪しをも、一律に行政組織としての“政府の大き
さ”、あるいは“行政にかかる財政負担の大きさ”という観点から一元的に議論したり判断することはできな
いからです。同じく「大きさ」という言葉を使っていても、組織やその権限の大きさと、社会機能的な役割の
大きさ、その価値の大きさを同列、同段に論じることはできないからです。 (「小さな政府」が、ある特定の
領域において大きな社会的役割を果たすことだってありうるでしょう。)
つまり、政府や行政機関の権限や関与の大きさの評価は、あくまでもそれらが果たす特定の役割や社会的
機能において、そこでの個々の意味をどのように評価するかという地点まで降りて行って、その場所から振
り返って見ることで初めて言い得るものです。むろん、政府が果たすべき公的役割を評価することで「政府の
大きさ」や公的権力の適切な重み付けを行うことは、言い換えると、政府のどのようなあり方や、国家作用、
財政負担の何を大きくし何を小さくするのかという選択や決定については、国民の意思や価値判断がまず
尊重されなければならないことはいうまでもありません。
しかしこの対句が持ち出される発言文脈をみていて時に気付くのは、「大きな政府」という言葉を、暗にその
否定的な語感や消極的な意味側面をほのめかしつつ持ち出しておきながら、実は政府の役割や責任全般ま
でをもそこに滑り込ませようとしているのではないかということです。つまり、「大きな政府」という必ずしも評判
の良くはない、しかも多分に曖昧な言葉のもとに、本来は分離して把握すべきこれら複数の意味や諸観念が
包含されており、しかもそれらの関係性が特定の国家作用において十分に吟味検討されることもなく、語の意
味性全体のなかで安易に関連づけられ一体化されることによって、私たちの思考や世論に対する一種の誘導
的な作用効果がねらわれているのではないか、というふうに感じられるのです。もちろんそれは、「大きな政府」
は好ましくないから、政府の役割も縮小するという短絡的、直結的な作用効果としてです。しかもその縮小は、
“行政サービス”の縮小のように、政府や行政機関にとって大変に都合の良い縮小としてもありうるわけです。
ところで、最近発表された国際的な調査結果によれば、学校など教育機関に対するわが国の公的支出
がGDPに占める割合は、2012年度のOECDに加盟する32カ国(いわゆる先進諸国)の中で比較すると
最下位に位置するそうです。つまりわが国の政府は、他国に比べて極度に教育分野に金を出し惜しみ
する政府であり、同指標でみる限り、先進国の間でも最小級の“小さな政府”であると言うことができます。
しかしそれほどの吝嗇ぶりでありながら、この政府は同時に、世界でも突出して巨大な公的債務を抱えた
政府でもあります。つまりその指標では圧倒的に世界で最も“大きな政府”、世界最大級の“放縦な政府”
です。するとこれら二つの事実から、なんとも不名誉な政府像が浮上してくるわけですが、この成績表に対し
この政府はさして深刻に受けとめいるようにも見受けられません。しかしながら、“政府の大きさ”に関して、
かくも劣悪な二つの順位が大と小に分かれて国民に突きつけられていることは、一納税者の視点から見て、
とうてい受け入れられず、この国の将来に対しても暗澹たる思い、索漠とした気持を抑えられません。
(また、このような国政統治のあり方が、ひろく国際社会で尊敬を受けることも困難でしょう。)
ともあれ、「大きな政府か、小さな政府か」そのどちらを選ぶのかということは、その大小において、政府の
どのようなあり方や役割、国家作用が言及されているのか、そのことにおいて国家機構や国民のどのような
権益や福利が擁護、あるいは縮減されようとしているのか、そのことが国民にとってどのような意味を持つの
か、国民はそれをどのように判断するのか、などなど、こういったことを注意深く最後まで見届けなければ何
ともいえないことである、ということは確かでしょう。
(3) 「人間は客観的な世界にだけ住んでいるのでもないし、また、ふつうの意味での社会的活動の世界にのみ
住んでいるわけでもない。 人間は自分たちの社会にとって表現の手段となっているある特定の言語に多
く支配されているのである。基本的に言語を使うことなく現実に適応することが可能であると考えたり、言語
は伝達とか反省の特定の問題を解くための偶然の手段にすぎないと思ったりするのは、全くの幻想である。
事実は『現実の世界』というものは、多くの程度にまで、その集団の言語習慣の上に無意識的に形づくられ
ているのである。・・・・・・ われわれが聞いたり、見たり、あるいは経験したりするのに大体一定のやり方が
あるが、これはわれわれ共同体の言語習慣がある種の解釈を前もって選択させるからである。」
―― エドワード・サピア
L. ベンジャミン・ウォーフ 『言語・思考・現実』 池上嘉彦訳 講談社学出文庫1993 94頁
(4) 私たちにとって世界をとらえるとはどういうことでしょうか。この現実世界、私たちがそこで生き、生活の場ともするこの世界をとらえるということ、世界を了解するということは、一体どういうことでしょうか。木田元は私たちにとって、世界のあり方や世界の現われ方がいかなるものであるのかという問いをめぐり、ニーチェ(19世紀 ドイツの哲学者)の思想を読解しつつ次のように述べます。
「〈世界〉はつねに特定の遠近法的展望のうちにしか現われえないものであり、生の特定の観点に相関的なものなのである。それを越えて、〈真の世界〉などというものはないのだ。 ― 中略 ―
〈世界〉とは、相対的に持続しながら生成しつつあり、その生成のそのつどの段階にある生の特定の視点を中心とする遠近法的展望の圏域、言いかえれば、特定の力の中心から発する特定の様式の作用の総体にほかならないのである。その背後の、あるいはそれらの遠近法的展望のすべてを包みこむ〈真の世界〉などはない。」
一般に、私たちが世界におけるものごとを眺めたり了解するとき、各人はそれらを自身の内部世界で、さまざまな遠さや近さに配置することによって重み付けを行い、またそのようにしてそれらの間の遠近的な関係性を整え据え付けます。画家が風景画で用いる遠近画法とは異なり、私たちは自分独自の遠近法によって自分にとっての事象的世界を、自分自身の認識風景を構成してゆくのです。「遠近法的展望」という語をこのように私は解釈するのですが、するとそれは権力をめぐる“ものの見方”についての視点そのものと重なってきます。というのは、主権や国権という言葉をめぐる私たちの考えかたも、私たちの個々の「生」における「特定の遠近法的展望」においてのみその姿を現わすものであり、この展望に基づいてのみ、論じたりとらえることのできるものだからです。それは常に、「生の特定の観点に相関的なもの」です。そして〈真の世界〉がないように、〈真の国権〉とか〈真の主権〉などというものもないでしょう。ただしこの遠近法的展望は個人だけに限られるのではなく、国政としての立法、行政、司法府が、そしてそこに帰属するさまざまの機関や組織が、それぞれの国家作用、国家行為において依拠する“ものの見方”、ものを見る枠組みでもあります。
では私たちの“ものの見方”がそれぞれの「遠近法的展望」に基づくかぎり、私たちは共通の土俵の上で話し合ったり、何かを合意したりすることはできないのでしょうか。そうは思われません。たしかにこれらの「遠近法的展望のすべてを包みこむ〈真の世界〉などはない」でしょう。したがってまた、いかなる留保によっても制約されず、いかなる“偏り”もなく、“絶対的に公平で中立”の視点や意見というものも存在しないでしょう。しかしだからといってこのまなざしは、必ずしも私たちを自分本位で、他者に対し閉じられた世界のあり方へと導くものではありません。
私たちは世界を見る自分たちの視線、遠近法のまなざしそのものを対象化しつつ、公共的な場で、さまざまな問題を熟議し、相互に重なりあう認識風景をゆるやかに分かちあうことは十分に可能です。多様な社会的価値 の多様性を尊重しつつも、必要があれば、それらの重みの序列化に社会合意することさえ十分に可能です。
そして国家の基本的なあり方に関わる問題群について言えば、終局的には主権者が合議的に描きだす集合的、共有的な遠近法的展望が、それを支える価値選択とともに尊重されるべきでありましょう。また国家権力、国家機関が国民全体を単一者的な存在としてとらえ、単一者として取り扱う場合に、多様なあり方、多様な認識においてある国民もまたそれに対抗して、包括的、単一者的に構築され、仕立てあげられることが要請されるということも時にあるでしょう。主権は国民に存する、ということのひとつの意味的帰結はそういうことでしょう。
木田元 『マッハとニーチェ』 講談社学術文庫 2014 244頁
この頁続く
2015年12月20日 西秀樹
この一冊 10
これまでに食べたなかで最高のドーナツは、その昔、不二屋で売っていたドーナツです。
細長い紙箱の真ん中が部分的にセロハン製で、なかのドーナツが見えるようになって
いました。 不二屋さん、あのドーナツをぜひもう一度作っていただけませんか。
マーク・アラン・スタマティー 作 とくなが りさ 訳
『ドーナツなんかいらないよ』 国書刊行会 2014年
