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東京都に国保保険料処分についての審査請求書を提出した後で、他の人はどのような理由で出しているのだろうかという興味がわいてきました。そこで情報開示請求をして、過去一年分の請求書を都庁で閲覧したのですが、その中に強い印象をのこす審査請求がありました。それは中国からの留学生が出したものでしたが、外国人留学生の請求書に驚倒しました。まったくの不意打ちでした。(なお全ての審査請求は却下扱いでした。)
そこには彼が20歳代の留学生で、厳しい経済状況のなか、アルバイトをしながら東京で学生生活をおくっていること、国保保険料は負担が重すぎて払えないので、医療費は自己負担で対応していること、にもかかわらず滞納差し押さえ処分を受けたことに憤りを感じ、承服できないこと、といったことが丁寧な文字で書かれていました。留学先の国からこのような扱いを受けるとは、まったく予想外のことだったでしょう。おそらくは孫文や周恩来も胸を痛めていることでしょう。

この請求書に最も感銘を受けたことは、この留学生が審査請求を実行に移したという事実そのものです。おそらくは徒労に終わるであろうことを予想しつつ、これをやってのけた青年の胆力、行動力、実践的知性です。同じようなことを北京で実行できる日本人留学生が果たしているでしょうか。

わが国が海外から留学生を受け入れることの意義は多々あるでしょう。ただし最も重要なことは、日本という国に親しみの気持ちを抱き、彼の国との友好関係をさまざまの分野で築いてゆく人々を、ひとりでも多く生み出すということです。しかしながら東京都がやっていることは、まさにその正反対のことです。そのように考えたことは本当にないのでしょうか。

それとも中国嫌いの石原都知事のもと、都下の各国保年金課は特命を帯びてこれを決行したのでしょうか。東京都は、滞納処分に関する各区への行政指導を、マニュアルを作って、強力に推進していますが、こういう弱い者いじめをさせているということは 都知事自らが、― 氏の口吻を真似れば ― “小役人”になり下がったということでしょう。もしこれが、公平な取扱い、「法の下の平等」を適用しただけであるというならば、その言葉の真の意味をまず、対応する自分たちの共通の公課負担のありかたにおいて考えるべきです。いずれにせよ、東京都は外国人留学生への滞納処分をただちにやめるべきです。

東京都はいま水道事業を熱心に海外に売り込もうとしているようです。しかしながら、もしそのその国の決定に与る行政官が、過去にこのような体験をもつ留学生であったとすれば、日本からの技術導入は決して容易なことではないでしょう。


 判決を受けて 4  法律と政令 ①


前の回で政令についての検討を残しましたので、これについて論じます。
実は、わたしが国保保険料に関する政令の存在をはじめて知ったのは、すでに裁判も始まり、かなり日も経った後でした。しかもそれは、裁判長が公判で荒川区側に、保険料算出の根拠を資料として提出するように求めたその結果として、初めて入手したものです。この政令が毎年送られてくる、保険料決定通知の法的な根拠であるならば、この政令は5000万人を超える国保被保険者にとって非常に重要な法令です。この政令の存在や役割は、もっと周知されるべきであるし、そもそも政令とはなにか、ということをわたしたちは知るべきでしょう(自戒の念をこめて、もちろん)。

では、保険者が保険料処分の根拠とする政令が、この公課格差に真に法的適理性をあたえる法的根拠であり得るか、という問題を考えてゆきます。(格差という概念は、ふたつの公課を比較することによって成立する関係概念であり、他方、荒川区および原判決は、そもそも両者を比較することそれ自体を斥けているわけですが、これについてはすでに十分に論じましたので、ここでは繰り返しません)。

さて荒川区の答弁書を読むと、保険料処分の公正さの主張根拠として、処分が根拠法に基くものであるということが強調されています。その際、この根拠法という言葉は、国保保険法から荒川区の条令にいたるまで、幅広く法令を包含するものとして用いられています(法令は法律、政令、条令などを含む総称です)。
保険者である荒川区が、処分の根拠としての政令や区条令さえもを根拠法として呼ぶことは、行政当事者の心理として理解できなくはありません。と同時に、しかしそれは明らかに一種の戦略的な解釈というべきであって、保険者の勝手な包括的用語法と、法律や法令の客観的な概念規定、憲法41条を含む憲法原則などを混同することはできません。
(憲法第41条 「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」)

ではこの国保保険料の法的根拠をどのように把握すべきでしょうか。すなわちその法的根拠とされる法律や法令それ自体の法的根拠とは、法理としてどのように定立され、規範拘束されるべきでしょうか。法律の法的根拠とは奇妙な表現ですが、ここで保険料は、単一の法律条文によって平面的に規定されるのでなく、複数の法律条文や法令によって、立体構造的、状況的に規定されています。それゆえ、その関係性を規範階層的に整理し、明らかにすることなく保険料の法的根拠を確定することはできません。

まず問題の中身に入る前に、この後で行う議論の背景的前提として、わが国の統治ルールの基本原理を確認したいと思います。この統治ルールの基本原理とはもちろん、わが国が国民主権の国家原理のもとに憲法を制定し、憲法に基づいて国の政治がとり行われているということです。憲法は国家の統治機構として国会、内閣、裁判所を分立的に組織して、それぞれに立法権、行政権、司法権を帰属させると同時に、それら各部門の権能、義務、作用、相互関係の規律を定めました。他方また憲法には、統治権力を憲法に従わせ、制限することで権力行使のありかたを拘束し、もって国民の権利を保障するという重要な目的、役割があります。
憲法のもつこのふたつの側面が、現実の具体的な行政活動において、その背後で密接に連関しつつこれを統制していることは、例えば、国保保険制度の策定、実施、運営、執行、処分行為をみれば明らかでしょう。行政を担当する内閣は、「法律を誠実に執行し、国務を総理すること」を求められ(憲法第73条1)、行政活動にたいしては「法律による行政の原理」が適用されます。「法律による行政の原理」とは行政の基本的なありかたとして、行政は国権の最高機関である国会が制定した法律の下に行動しなければならない、という基本原理です。行政権、立法権、司法権の分立、すなわち三権分立の目的は国家権力の集中を回避しつつ、「法の支配」を権力分立的に実現することであり、行政権は立法権の制定する法律によって、国権的統制拘束を受けているのです。
この「法律による行政の原理」は行政府のありかたを規制する一般的な原理ですが、これをさらに厳格に、ある特定の行政活動や行政行為に則してもとめる場合に、行政学では「法律の留保」という用語でこれを表現します。「法律の留保」とは、ある特定の行政活動や行政行為が、特にこれを定めた特定の法律をその根拠として必要とし、その法律に準拠して行われなければならないという行政の行動原則です(この“留保”という語の独特のニュアンスについては、大浜啓吉「行政法総論」岩波書店2006、が詳しく解説しています)。
「法律の留保」については、これを例外なくすべての行政活動に厳格に求める考え方(全部留保説)から、行政行為の内容や事柄の性質に応じてその適用範囲を柔軟に、段階的にとらえようとする考え方まで、複数の考えかたがあるようです(重要事項留保説、権力保留説、侵害留保説、など)。 これは行政の裁量権、自主決定権がどのような性質の活動領域においてまでは認められうるか、という問題でもあります。ただしこれら諸説も行政が私人の自由と財産を侵害するような行為、 侵害活動を行う場合には、必ず「法律の留保」を要する、法律の根拠を必要とするという基本原則において一致しています。

そうすると、ここで確認すべきは、この「法律の留保」が、国民に納税義務を強制的に課す、権力執行的な行政行為において、最も厳格に適用されねばならず、租税処分としての国保保険料処分がまさにそのような行政行為に該当するということです。なぜ強権的、侵害的な行政行為が法律に基づく必要があるかといえば、その行為処分に、行政府の勝手な都合や恣意の介入を防ぐ必要があること、そしてそのためにはその行為を、国民が選挙で選んだ国民の代表者が、国会で民主的に規定する必要があるからです。(憲法84条が定める租税法律主義は「法律の留保」の原則を、この租税処分について、特に憲法原則によって厳格規定したものでしょう)

では法律とはなにかといえば、上にもみたように、立法府としての国会が議決した法令が、そしてこれのみが法律です。事実、この国保保険料処分においても、被保険者がこれを滞納した際の処分については、国保法第79条、80条が明確に規定しています。保険者荒川区はこの処分を、国会が議決した国保法という法律に基づき地方税に準拠して行っているのであり、政令や区条令に基づいて行っているのではありません。また給付内容の諸権利も、政令ではなく根拠法律、つまり国保保険法、共済法によってそれぞれ実体的に、そして平等に規定されています。給付権利の実体的内容が法律において規定されているということは、保険料の法的根拠はなにかという問題観点からみても重要な立法事実です。なぜならそれらの給付権利の定めは、これを保険料と同じように政令に託し、保険者に専決権、専管権を委ねることもできたからです。 上にみた「法律の留保」についての諸説も、地方税に準拠して賦課徴収する保険料についての法規定よりも、むしろ便益の供与に関する給付権利規定においてこそ、法律規定としてより間接的、ゆるやかであってよいという点で一致するはずです。ところが実際の法律の制定状況は、その正反対です。そこでは権利規定が詳細で、義務規定の実体的内容は事実上空白です。法律から給付権利の実体内容を知ることはできても、保険料の実体的内容を知ることはできないのです。 権利および義務規定のこのような一種の転倒した状況については、変動する社会経済状況や医療財政状況を反映する保険料の可変的な性質からみて、その定めが法律による長期固定的な規定になじまない側面があることに、一定の理解があるべきかもしれません。(ただし、ここはもっと議論があってしかるべきかもしれません)
しかし同時にこの制定状況に対しては、あくまでも、権利に対応する公課義務の実体側面こそが、本来的には、根拠法において規定されていなければならないはずであった、という原則を、われわれ国保被保険者は主張すべきです。「法律による行政の原理」および、「法律の留保」の原則そのものがこの読み取りを、法律に対して要請しているからです。 したがってまた国保被保険者は、法律制定のこの局面における転倒状況を、あくまでも事実水準の戦略状況として認識し、決してその安易な解釈水準の読み取り、解釈水準の戦略状況の展開を許すべきではありません。

ではこの転倒的な法の制定状況において、「侵害的」に租税処分される国保料はどのように法規定されているのかというと、それは法律ではなく、法律が法授権し、委任した「政令」であるというわけです。荒川区が保険料処分の根拠として提出した文書(国民健康保険ハンドブック 平成20年度版))をみると、「平成2年の国保法改正で」、「保険料の賦課徴収につき法令上の規定を設けるべきであるという考えから、国保法第81条が改正され、政令において一定の基準を定め、その基準に従って条令が定められることとされた。これらは施行令第29条の7,施行令附則第6条から第15条に定めてあり、「基準政令」と呼ばれている。」、との説明がなされています。
(国保法第81条「この章に規定するもののほか、賦課額、料率、賦課期日、納期、 減額賦課その他保険料の賦課及び徴収等に関する事項は、政令で定める基準に従つて条例又は規約で定める。」 )

政令という言葉は、わたしを含め多くのひとにとってはなじみのうすい、問われても即答しかねる言葉でしょう。わたしも定義できませんでした。そして多くの場合、行政庁から、“政令において法として規定されている”、といわれればわたしたちはそれ以上は何も言えないのが普通でしょう。単純に政令 イコール 法律と思い込んでいるからです。しかし実際のところ、政令とは何でしょうか。政令イコール法律でしょうか。そうではありません。政令は国会で決められるいわゆる法律ではありません。政令とは法律の委任により、内閣が制定する成文法、つまり行政部門による法令であって、法律そのものではありません。政令が政府の法令であるとしても、政府とはここで内閣としての行政機構であって、権力分立的に明確化した用語を採用すれば、政令とは行政立法です。それは次のような文言からもはっきりと読み取れます。
「内閣は、国民健康保険~条の規定に基き、この政令を制定する」
つまり政令とは、法律から授権し、法律の委任によって制定されるにいたった法令であり、同時に内閣が自らの権限と判断において制定する法令でもあります。 政令はその成り立ちにおいては受動的、他律的であり、法令の策定においては能動的、自律的であるともいえるでしょう。政令は必ず何らかの法律に附則する、上位法律の内容としての定めですが、その法的なはたらき、拘束力は法律のそれと同等です。このように政令は、法律ではないが法律的に機能するという二面性、両義性を有しますが、この点を含め国民の目からみると、法令として一種の“見えにくさ”、“わかりにくさ”がつきまとうようにも感じられます。ただし現実の行政においては、しばしばこの政令こそが行政行為の直接的な法的根拠とされます。それゆえ政令とはなにか、またどうあるべきかを考えることは、さらには政令をあるべき規範性においてあらしめることは、主権者としての国民にとって非常に重要な問題です。政令の両義性やみえにくさが、主権者の監視を緩め、行政に恣意的な法の執行を許すように機能させてはならないからです。

ここで訴訟の主題に立ち戻って整理すると、わたしたちはいま国保保険料処分をめぐって、ふたつの対照的な法的作用関係を確認したわけです。ひとつは行政行為の根拠としての「法律の留保」であり、いまひとつはその同じ法律がその規定内容を政令に託すという「法律の委任」です。前者では法律は行政行為を拘束し、後者ではその拘束を解いているようにもみえます。そしてこのように政令を軸にして、「法律の留保」と「法律の委任」が対立し,拮抗しているように見えるのは、「法律の委任」によって「法律の留保」、すなわち行政行為の根拠としての法律が、そこで全面的にそっくりと政令に委ねられ、移管し、政令に置き換えられるというように解釈されているからでしょう。ではそのような理解は正しいものでしょうか。委任という言葉を辞書で引くと、「①ゆだねまかせること。事務の処理を他人に委託すること。 (以下略)」【広辞苑 第6判)】 とあります。たしかに委任という言葉は、何かを他者に委ね、まかせるということであって、まかせる以上は、そこに拘束するという要素はあまりないようように感じられます。というよりも端的にいって「拘束」は「委任」の反対側の概念です。ではこの「法律の委任」、法律による政令への委任とはやはりそういうものでしょうか。そのように単純に考えても良いのでしょうか。
このふたつの法的作用の関係をわたしたちはどのように概念把握したらよいのでしょうか。ふたつの法的作用をどのようにとらえ、どのように関係づけたときに、政令は侵害的な行政行為としての保険料処分の法的根拠となりうるのでしょうか。そして現行の政令はそのようなありかたにおいて制定されているのでしょうか。

まず法の手続き形式的な適理性という視点からみると、上にもみたように政令は法律による授権を経て、法律のかわりに法律の細目的な内容を規定することができます。したがって、国保法が保険料の細目的な諸規定を政令に委任している以上、法的手続きの側面からみれば、法の定めによって政令はこの処分の根拠であるといえます。
しかしこのような説明に、なにかひっかかるところはないでしょうか。何か釈然としなくはないでしょうか。この行政行為は、租税処分される国保保険料の実体的内容として、本来は国会で制定されるべきところ、その決定を内閣に授権することによって決定権を委ねたわけです。つまり決定する主体が変わったということです。ではこの授権は、法律が決定したのだから、何も問題はないのだといえるでしょうか。国民にとってこのような侵害的な行政行為に関する法律を、法律(国民代表議会)はいとも簡単に行政部門に政令という法形式で委任できるのでしょうか。その場合この行政行為に対しては、侵害説すらも適用されることはない、ということになるのではないでしょうか。しかしでは、「法律の留保」の原則はどうなるのでしょうか。ある侵害的、義務規定的な行政行為の内容が法律ではなく、政令によって、法律授権的に委任規定されるという場合、本来この行政行為を拘束すべきであった「法律の留保」の原則もまた、この授権と同時に消失するのでしょうか。それとも「法律の留保」の原則そのものが、「政令の委任」によってそっくりと置き換えられるということでしょうか。たしかに政令はここで、法の規範的拘束力においては法律として機能しています。しかしではこの政令が法律としての適理性を伴って、正しく法律として機能していることは、なにによって保障されているのでしょうか。

ここで政令に関する定めを確認すると、まず憲法第73条6は、【内閣の職務】のひとつとして、「この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を規定すること。(以下略)」と定めます。次に内閣法は第11条【政令の限界】で、「政令には、法律の委任がなければ、義務を課し、又は権利を制限する規定を設けることができない」と規律します。ここでまず注目したいのはこの内閣法です。
この政令についての内閣法の定めは、文言からも明らかなように、制限的な規定です。しかし国民の視点から見ればむしろその反対側の含意、つまり委任さえあれば政令はこれを制定しうるという、裏面の含意こそがより重要でしょう。そうするとここで問われるべき問いは、「法律の委任」とは一体どういうものであるのか、その委任は法律から政令への全面的、無拘束的な委任であるのか、それともなんらかの拘束的な内容をともなうものか、ともなうとすればそれはどのようなものであるかということです。 
「法律の委任」という法作用ををどのようにとらえるかによって、法律と政令の関係性、政令の制定権のありかたも変わってきます。そして「法律の委任」はどうあるべきかという問いは、委任する法律の内容を確定すること、つまり留保する法律とは何であったのかという問いをそこに重ね合わせることによって、はじめて有意の問いとなるのではないでしょうか。制定された法令としての現行政令を、所与の法律規範としてみるのではなく、「法律の留保」の原則から根源的にとらえなおす、問い直すという思考作業が求められているのです。

あらためていうまでもなく、主権者および被処分者としての国民の立場からみれば、行政による租税処分とは本来、「法律による留保」の原則が最も厳格に適用されるべき、侵害的、義務拘束的な行政行為です。その法規の実体内容にかかわる制定権が、法律から政令へと委任されるという場合に,前者の原則と後者の委任、すなわち法授権が、もし同一の法的事象次元で生起し、対立するとしたら、そしてそれゆえまた両者が相互排斥的な関係にあるとすれば、「法律の委任」によって「法律の留保」の原則は打ち消され、この原則そのものが有名無実化します。しかし「法律の留保」とは「法律による行政の原理」というわが国の分権的統治原理から導かれる行政行為原則ですから、簡単に「委任」に移譲されてよいはずはありません。このふたつの法的要請命題は、そのような二者択一的な関係であってはならないはずです。わたしたちは、委任という言葉を「法律の委任」という文脈において、辞書的、社会通念的な意味で安易に了解してはならないのです。なぜなら法律が侵害的な行政行為の制定権を、政令という法令水準に包括的にあけわたすことは、その局面において法律が政令、すなわち行政部門に侵害的な行政行為の規範的拘束力、規律力を譲り渡すということにほかならないからです。このように法律から政令への授権を、あたかもリレー走者がバトンを他の走者に受け渡す行為のようにみなすことは、しかもこの侵害的な行政行為においてそのように授権理解することは、法律による法律の否定、法律の自己否定にほかなりません。したがって「法律の委任」によってさえ委任しきることのできないなにかが、「法律の留保」の側に「留保」されていなければならないはずです。ではそれはどのような内容、規範性を備えたものでしょうか。

「法律の留保」とは、行政行為の準拠すべき根拠としての法律にたいする要請原則でした。法律が根拠としてとらえられているわけです。ではここで、この裁判において俎上に載る当該政令の内容としての法律はなんでしょうか。すなわち、政令の視点からみたとき、政令に委任する法律とはなんでしょうか。もちろんそれは、国保保険料の公課処分の準拠すべき法律でしょう。では、それはどの条文でしょうか。
もしその法律条項が国保法81条のみを指示すると解釈するのであれば、上に引用した条文からも明らかなように、この条文は公課それ自体については実体的には何も規定していません。それゆえ81条の委任をうけた政令は、この国保保険料の「賦課額、料率」を事実上いかようにも無制約に規定できます。81条は、この保険料の規範的側面についての規定を全く含まないからです。しかし実際にはこの保険料は、国民皆保険制度という法源に基づく公課としての法源的性格と、地方税に準拠した処分形式としての租税性を、公課の法規範的性格として内包しています。事実、政令が保険料処分の法的根拠として適用されるとき、その処分の公定力、強制的執行力の法的根拠は81条ではなく、78、79、80条等に拠っています。そうであるならば、つまりこの政令が、租税処分される保険料の公課実体的側面における法的根拠でもあるというならば、どうしてその租税根拠としての法律を、つまり78,79、80条等を、この政令に授権する法律から分離することができるでしょうか。政令はあくまでもこのような行政処分を前提とした、処分根拠として要請されるのですから、ここで執行される処分としての適理性が、この政令制定に先立って予め予想されていなければならないはずです。脱規範的な政令がまずあって、その政令に規範的処分が後から適用されるのではないのです。そうではなく、まず処分の租税的執行が法律において明文規定されており、その規定性の適用を想定しつつ、政令が附則的に後から制定されるのです。
政令と法律の委任関係は、委任を受ける時は81条のみであるが、これを公課処分の根拠として提示する際には78、79,80条を内包させる、あるいは合体させるというような概念操作は許されません。政令は、予想される処分の規範的様態において、その様態に対応するようなあり方において、委任授権していなければならないのです。

それゆえもし政令が、この保険料規定に及ぶべき「法律の留保」としての根拠からこのふたつの規範的規定性を排除したとすれば、それは憲法73条6にいう「法律の規定」の正しい授権であるとはいえません。なぜなら、国保制度の法源的性格や租税的性格も、この保険料公課の重要な法的規定性であるからです。そして重要である理由は、単にそれが法律に書かれているからではなく、それが主権者である国民の意思であるからです。政令は法律の被委任者として、この国民の意思を法源および法律として尊重しなければなりません。それが「法律の留保」にいう根拠としての法律の実体的意味です。そしてそれらは、政令に先立ってすでに法律において規定されているのです。

法律において規定するということの統治的な意味は、いうまでもなく単なる法律という法の形式性にあるのではなく、国民の代表が構成する議会において決定するということ、つまりこの決定に国民の主権性が託されていることにあります。主権者の視点よりみれば、「法律の留保」とは、行政府の行為、とりわけ侵害的な行為が法律の根拠を必要とする、という行政原則であると同時に、法律がそのような行政行為の法規として制定されていなければならない、という法律立法そのものに対する国民の主権的要請でもあるでしょう。すなわち法律への要請はここで重層的な意味を持ちます。

「法律の留保」の根底には、法律を制定する国権の最高機関としての国会を介して、主権者としての国民の意思および国民主権という統治原則が、立法府において発現し、行政府において執行されてゆくという立憲主義による統治プロセスの原理があります。国民が憲法に則り、法律制定を通じて、公平公正な行政の執行を実現せしめるという、三権分立による国家の統治原理です。それゆえこの原理は法律を委任する立法府そのものを同時に拘束しています。すなわち侵害的な行政行為を規制し拘束する法原則としての「法律の留保」にあっては、「法律の留保」の法原理的な存立根拠は、単に当該行政行為を律する法律の、あるいは委任政令の、法的手続きという意味における法形式性の要件充足のうちにあるのではなく、その当該根拠法律を支える国民主権という国家統治の構造原理にまでさかのぼって求められるべきです。つまり当該法律における主権原理の発現としての主権者意思を、特定の法律条令あるいは委任政令に限定してみるのではなく、― というのは必ずしもこれが単一の条文内に充足的に発見できるわけではないからですが ― 法律の包括的、客観的制定状況や立法目的において確認し、これを確保するということ、必要があればさらに上位法源にまで遡って確認すること、これこそが、「法律の留保」がここにおいて「行政の原理」として要請される根拠理由です。であるがゆえにまたこの憲法原則上の統治原理は、決して個々の法律あるいは法律条文が、政令に委任することのできないものです。立法府といえども法律をそのような仕方で政令に委任することはできません。なぜなら立法府が、上に述べた主権性の権能としての「法律の留保」という行政原理をこの租税処分規定において手放すことは、主権者でもあり被処分者でもある国民が、この権力執行的な行政行為を、もはや国民の代表者にさえ関与させることなく、行政に白紙委任することを許すことに他ならないからです。しかし国民にたいして侵害的な行政行為を行政に執行させているのは、ほかならぬ主権者としての国民自身です。であれば法律の政令への白紙委任を許すことは、「法律による行政の原理」そのものの否定であると同時に、なによりも国民が自らその主権を手放すということ、目下の局面でいえば、租税制度における主権的統制を放棄するということです(租税制度における主権的統制とは、国民が行政の恣意を排して、租税処分をそのあるべき制度規範的な執行様態において制度現出せしめるということです)。さらには、国民が自らの自己統治能力を自己破壊するということです。それは同時にまた、国会が国民の意思から遊離することで、国民の代表性という民主主義的な統治原理をもはや制度体現しなくなるということでもあります。
このようにいうと、たかが一つの政令に関する解釈問題を、なにをそうおおげさに論じるのか、というひともいるかもしれません。しかしわたしはそうは思いません。この小さな法律・政令解釈の問題においてこそ、国家原理の命脈が懸けられているのです。すべての国家権力は主権者としての国民に由来する、という国家原理の実体的な意味が、単なる教科書的なお題目、理想理念的な水準においてではなく、その法権力的執行作用において検証されようとしているのです。
したがって「法律の留保」と「法律の委任」はここで、この保険料公課規定において、簡単に取り外したり、交換したりできる、操作的な関係性においてあるものではなく、法律委任された政令においても「法律の留保」という行政原則は、いささかもその主権的規範拘束性を減じることなく適用されるべきものなのです。

以上を要約すると次のようにいえるでしょう。「法律の留保」とは ― その最もゆるやかな適用基準において ― 第一に、侵害的な行政行為の根拠としての法律が、法律において十全に規定され、法律条文によって明示的に示されている、ということである。さらに第二の意味として、第一の意味における法律規範が、法律および必要があれば委任政令の法形式を借りることによって、主権者の全体的、包括的意思において、行政行為のうちに行政行為の根拠として実体的に確保されているということである と。
また、いま述べたことは当然、「法律の委任」においても正確に対応して成立します。つまり、第一の意味の「法律の留保」の了解性において、委任政令が法律を授権し、第二に、そのように授権した委任政令が主権者の全体的、包括的意思において、行政行為の根拠となる と。

ところで国保法81条の委任政令に関しては、「法律の留保」と「法律の委任」についての規範的関係性をふまえた上で、なお次のような反論があるかもしれません。すなわち、国保法は保険料を租税処分とすることを法律において規定した上で、単にその内容を政令に委任しているだけであるから、「法律の留保」の原則はすでに十分にこの法律内部で確保されており、そうである以上は、もとより両者を対立的にとらえる理由もなく、現行の政令委任を問題とする必要ははじめから全くないのである、と。
これに対しては次のように答えたいと思います。すなわち行政行為において発現し、執行される租税制度とは、租税原則という憲法原理的な規範原則の上に、個々の実体的、具体的な法規、規定、規則が構築され、さらにはこれらに基く処分行為(通達、賦課、徴収)として成立するものであって、これらすべては行政行為において一体的なものです。「法律の留保」としての租税法規の適用規定を、個別の租税公課規定(保険料規定)、および行政処分から分離したり引き抜くことはできないのです。いうまでもなく、法律がある行政行為に租税制度の適用を定めることは、法律それ自身の権限であって、そこに憲法上の問題があろうはずもなく、原告もそのことに異議を唱えているわけではありません。しかしその法律が、立法府から行政府へと引き継がれ、法の執行として実施される段階で、その行政行為を個々の具体的な租税処分局面において、その租税処分的な適理性の問題として検証することは、これとは区分してとらえるべき問題です。それゆえ個々の租税処分の問題は、租税原則と切り離すことなく関連づけながらも、租税制度が適用されているという法形式を確認することによって思考停止するのではなく、租税規範原則と個別租税処分の適理性というふたつの視点を、関係的に保持しつつ思考し、審理することが求められているのです。
ところで原告はこの訴えを、保険料処分が平等原則に違反していることを理由におこしたのであり、この保険料の実体的な重み、負担こそが審理の重要な対象であるべきです。それゆえ「法律の留保」とは、単に公課処分への租税適用の定めのみを意味するものではなく、その定めの内容としての租税規定そのもの、その実体的内容でもなければなりません。
つまり前者の視点においては「法律の留保」は、租税処分を定める法規定のみが観念されるだけで、その内容は政令と保険者の専管権に白紙委任されていますが、後者の視点では、委任行為を審理対象として観念することによって、租税の制度原則的規範とその内容規定、すなわち政令規定の両者が緊張的な関係に置かれます。前者の場合「法律の留保」は、行政行為を律する法律の処分形式性の充足のみをもって根拠としますが、その実体的内容は不問に付したままです。しかしそのような法律根拠の審理水準はどのように控え目にいっても、司法審理のそれではないでしょう。それは「法律の委任」という、主権者にとってきわめて重要な意味を持つ法的行為を、思考の対象として意識の表面上に捕捉することさえないのです。
なおこの裁判では、「法律の留保」の原則に関して、裁判官諸氏はこの審理水準に意識滞留したわけですが、いまも述べたように、司法的思惟として怠惰かつ粗雑であり、「法の支配」を実現する法原理機関としての役割を遂行していません。
司法府は、内閣の政令制定権になにか特別の権限付与をおこない、その法律委任のありかたについての、法実体的な司法審理を斥けたり有名無実化するような作用効果において、内閣に裁量権や合理的理由を審理に先立って認証すべきではないのです。原告の訴訟趣旨や訴訟理由がいかなるものであれ、内閣にそのような権限付与を行うことは、司法の中立的な立場を放棄すること、司法の偏向であり、その結果として原告の裁判権そのものを実体的に侵害することです(ただし最高裁判所長官が内閣によって指名され、同判事も内閣によって任命されるという憲法上の規定のもとにおいて、これらの裁判官に何を期待しうるのか、というより根源的な分権統治上の問題がここに伏在していることをもあわせて考えるべきですが)。

わたしたちは法律委任のありかたを問うことなく、現行の政令を単純に所与の法規として受け入れ、もってこれが保険者をどう拘束しているかと問い進むような思惟の経路を追従することはできないのです。そうではなく、まずこの法律全体をよく理解したうえで、法律が政令をどのように委任拘束しているのか、またすべきであるのかを明らかにすることから出発すべきです。なぜなら侵害的な行政処分の法的根拠としての政令が、これに制定権を授権した国保法の意思、この「法律の規定」に違背していないかという問題においては、保険料処分の公平性、法の下の平等という問題とともに、そこに国政の統治原則としての国民の主権性が懸っているからです。

ところで法律は誰かが起案して、誰かが作り上げてゆくものです。ここで目を転じて、国会における法律制定の実際のありかたをみてみると、ひとつの顕著な傾向として、その大部分は内閣が法律案を国会に提出した法律、いわゆる内閣法によるものであるということが確認されます。しかもその成り立ちは、「時系列的に見れば、行政が自らの情報に基いた政策を練り、それを内閣が法律案として国会に上程し、一定の手続きを経て法律として成立」(大浜啓吉)したものであるということがいえます。これは公共政策の立案行為、政策形成が行政府によって担われているために、法律の制定過程においても、法案作成から策定にいたる準備段階で行政府(主幹省庁)が深く関与しているということ、つまり立法府と行政府はこの作業を協働的に行っているということでしょう。両者の関係はこの局面では相互的である(とくに内閣と政権政党の関係)といえます。当然ながら、国保法の制定過程においても行政府の関与がなかったということは考えにくいことです。
このように見てくると、法律における主権者の意思といっても実体のない単なる理念、たてまえに過ぎず、現実は行政(官僚)が策定しているだけではないか、という見方もかなりの程度成り立つかもしれません。確かに行政がこの法案の準備段階で果たしている役割は大きなものであり、法律そのものが実質的に行政(官僚)の手になるものだということが、あながち誇張ではないという事例も多々あるでしょう。しかしさまざまな利害関係が錯綜する複雑多様な現代社会にあって、種種の行政政策を具体的に策定するためには、質的にも量的にも多くの基礎的な情報を収集、分析、咀嚼することが必要であり、その過程において関係する各行政部門が重要な役割を担うことは必然のことです。新たな政策課題の発見や認識も、行政活動を介して主にもたらされるものでしょう。
しかしここで忘れてならないことは、行政府による法律案の策定過程においても、これに与るものは憲法の諸規定に厳しく拘束されているということです(憲法 14条、15条、94条など)。 憲法65条は行政の政策立案権を認めますが、その立案権は憲法の諸規定によって制約されています。たとえ法案内容の政策形成がどこでどのように行われようとも、その全ての過程で憲法原則に違背する政策判断を反映させることはできないのです。
内閣提出法案による法律であっても国民を差別的に取り扱う内容とはなっていないのは、そのような政策立案を行うことが憲法原則的にできないからです。そして憲法を制定したのは国民であり、立法府、行政府へのこのような規範拘束も国民の意思によるものです。
それではそのように憲法に従って制定された法律が、公課規定の委細内容を、政令という法形式において内閣に策定委任するとき、行政はかつて政策立案に自ら関与したかもしれないその法律を、ここでは憲法原則に拘束されることなく策定できるということがありうるでしょうか。内閣が法案提出の段階ではできなかったことを、委任政令の策定段階ではできるということがあるでしょうか。もちろんそれはできません。行政府が法律の準備過程において立法府に協力できるとしても、行政府は立法府から委任される政令の策定において、法律を法律の趣旨、目的、法律規範に背いて独自に解釈することはできないのです。行政府は、法律から政令の策定を委任される段階においても、法案を作成する段階と同じように憲法に従う義務があるのです。

もう一度繰り返すと「法律の留保」と「法律の委任」は、侵害的な行政行為への法的作用として、排斥し合う概念関係にはありません。また「法律の留保」は、「法律の委任」によって簡単にすり替えられてしまうような、操作可能な原則ではありません。断じてそうあってはなりません。そのような見方による法律の取扱いは、ある政策的意図によって、事実水準ではなく、一種の解釈水準における法的戦略状況をつくりだそうとしてゆくものです。そのことをわたしたち被処分者は、十分に自覚認識し、注視し、適切に対応してゆく必要があります。

以上、法律と政令の関係について、これを「法律の留保」および「法律の委任」という視点からみてきました。そして政令は内閣が「法律の委任」によって制定権を授権し、内閣が定めるにいたった法令であるとしても、法律の拘束、「法律の留保」から解き放たれたものとして解すべきではないことを論じました。
と同時に政令が、それ自身の法令制定権を持っていることも依然として事実です。つまり「法律の委任」による主体的な法令制定権を保持しています。そうすると問題は、この保険料料率についての政令において、このふたつの規定性の関係はどのようなものであるか、政令を拘束する枠組みとしての法律と、この政令の制定権の関係はどのようにとらえられるべきか、ということです。

この項続く
                                           2012年3月1日 西秀樹



この一冊 4

天国にいった犬たちの日々の様子を紹介します。

シンシア ライラント 作    中村妙子 訳
「いぬは てんごくで・・・」  偕成社 2000年