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裁判にどれほどのお金がかかるのだろうか、ということは当初から大きな心配ごとでした。弁護士費用はさておき、裁判そのものにも大金が必要なのではないか、という漠たる不安がありました。

本人訴訟の可能性が現実味をましてくると、行政裁判の勉強をはじめましたが、自習用に求めた本(*)に訴状の書式見本があって、それをみると訴訟物の対価は160万円とあります。根拠はわかりませんが、行政訴訟の場合、一律に訴訟物の対価は160万円と定まっているようなのです。はやとちりの私は、“裁判費用としてこのお金を納めるのだろうか、”、という不安にかられました。後にその必要がないことがわかりましたが、その時の安ど感は忘れられません。

ではこの裁判に実際いくらのお金がかかったかというと、一審の東京地裁への提訴から最高裁への上告までを含めて、全部で約9万円弱です。ひとつの裁判あたり約2万8千円前後で、その内訳は約2万円が印紙代で、約7、8千円が切手代です。つまり一審あたり3万円にも満たない費用で裁判はおこせるのです。このお金を払えば、わたしたちは行政と同一の法的平面上に立って、行政と対峙することができるのです。
裁判など起こさずにすむものなら、それにこしたことはありません。しかし裁判は国民が行政に対抗するうえで使うことができる、ほとんど唯一の“武器”です。この権利を放棄したり放置し続ければ、そのつけは結局わたしたち国民が支払うのです。

(*) “行政訴訟の実務” 行政事件訴訟実務研究会編 ぎょうせい 2007


 判決を受けて 5  法律と政令 A 


前回に引き続き、政令を中心に考えます。
前回は、保険者によって国保保険料公課の算定根拠とされる委任政令が、その実、「法律の留保」によって依然として法律の拘束の下にあるべきことを論じました。今回も、内容的に重複するところはありますが、行きつもどりつこのテーマを続けます。現行の政令が、法律という水準において、原処分に法的適理性を与える根拠たりえるか、という問題を考えます。

 1 保険料公課の政令は本来、どのように法規範拘束されているか
 最初に、あらためて問いなおすと、公課保険料規定についての委任政令を拘束する法律とは一体なんでしょうか。 政令への委任は授権する特定の法律条令を起点とします。本件に則していうと、保険料に関する当該の法律条令、すなわち国保法第81条です。しかし委任条令としての81条は、単にこれが賦課額、料率等の規定に関することを述べているだけで、そこにこの公課の制度規範的側面を見出すことはできません。そうすると委任行為の法解釈が、もしこの条令単独の文言解釈に基づくかぎり、公課規定は単なる算術的な計数問題という次元であつかわれることとなり、この公課の持つ法源的根拠性、制度横断的斉一性、租税性という側面は一切考慮、反映されません。しかしそのような法解釈において委任行為を了解した政令が、法律水準における公課規定性のあり方を、法の枠組みとして正しく、適切に受けとめて、政令規定に反映させることはできないでしょう。そしてもし政令を拘束する法律が、そのような局部的な条文に意味限定されることが許されるとすれば、それはきわめて深刻な国政上の事態を国民に突きつけます。その場合、行政府は事実上ほとんどフリーハンドに、いかなる公課も片務的に自由に設定し、かつそれを租税処分することができるようになります。そこでは行政府が政令を介して、租税原則と租税規定をばらばらに切り離し、規定を制定した後に、両者を再び接合し、これを片務的内容において租税処分できるわけです。
そのようにして「法律の委任」がここで、租税原則の枠組みによってさえ拘束されないとすれば、政令はもはやこの租税法にも拘束されず、自由に租税規定を制定できることになります。政令は国民の財産権を侵害し、義務を課す法規としての法令を、租税の公平原則にも拘束されることなく執行する権限を手中に収めるのです。そのような事態はあきらかに、租税立法主義の原則を形骸化するものでしょう。そしてそのような社会を法治国家と呼ぶことはもはやできないでしょう。

したがって“政令を拘束する法律は何か”、という問いは必ずしも適切ではありません。むしろそれは、“委任行為における法規範的拘束性は何か”という問いとして問われるべきです。なぜなら法律委任の拘束性、その枠組みを、委任を文言指示する条令(81条)に限定して還元解釈することは、ここでもみたように政令が、法律のもつ法律水準の規範拘束性を根底的に変質させる契機となりうるものだからです。それは行政の自己本位的な主張としては成立しえても、被保険者、国民の視点よりみれば、恣意的なあるいは曲解的な法解釈にほかなりません。そしてあきらかにそれは前回論じたように、客観的にみて委任の正しいあり方ではないのです。わたしたち国民はこの地点において、寸分も寛容になる必要はありません。また自分たちの権利はだれかがまもってくれるだろう、などという幻想も持つべきではありません。
わたしたちは法律が定める以上は、たとえ侵害的な行政行為に関する法律であっても、政令への委任を認めはしますが、同時に委任政令の授権法律への法適合性については、寸分も譲歩すべきではありません。とりわけ法源を共有する均一的な制度事実の圏内で、租税的な公課賦課に処分格差が生まれ、委任政令がその法的根拠とされるならば、その根拠の法的適理性は徹底的な精査、検証を要するものでしょう。

法律委任の規範的枠組みとは何かを知るためには、法律趣旨や立法目的の全体的状況理解が必要です。そしてそのためには法律の包括的、立体構造的な理解、委任条令と他の条令との有機的な意味連関構造、規範連関構造の把握が必須です。委任条令すなわち委任の枠組みではないのです。最も重要なことは、委任行為を被委任者の視点ではなく、授権者の視点でみることです。授権者の視点とは、法律制定者の視点であり、主権者である国民の視点です。その視点において、委任の枠組みは委任の規範的形式としてとらえられますが、この形式性において、政令は法律としての法規範性を獲得するのです。いうまでもなく政令の法規範性とは法律としての法規範性でなければならないからです。

では法律、つまり国保法の包括的理解から導かれる政令の規範的枠組みとは何でしょうか。国保法は、この保険料を地方税として賦課徴収することを定めているのですから、租税処分を規定する法原則としての租税法原則がそこに前置されている、と了解されるべきでしょう。ところで租税原則とは、その制度実施において公平性、公正性の価値実現を最大限に厳正要請する、最高度に規範的な行政統治原則です。つまりこの原則が法律によってある行政行為に適用されるとすれば、まさにその適用事実によって、適用対象としての行政行為は、同時にその行為の内部に、この租税制度の規範原則を、ゆるぎない規範要請において組み込むのです。行政行為が租税原則を組み込むという表現をすると、この国保保険料事例の場合、あたかも保険料処分の内部に租税原則が包含されている、というように聞こえるかもしれません。しかし、あくまでも租税原則が法の形式として保険料処分を規定しているのであって、その意味するところは、保険料処分がもはやこの租税原則に違背するすような処分形式をとることはできないということです。つまり規範性はここで二つの階層構造をなし、租税原則が保険料行政処分行為を上位規範的、メタレベル的に拘束しているのです。行政庁は処分者でありながら、それ自身がこの原則に拘束されているのです。

租税原則としての「法律の留保」は、国民に義務を課す強制的、侵害的な行政行為の行政原則ですから、行政がその執行に際してこの原理に従うことを厳格に求めるのであって、この厳格性はいささかの譲歩も裁量の余地もなく、保険料処分とともに行政府それ自体を拘束します。すなわち立法における租税処分の適用は、租税原則の原理によって、ただちに租税原則の起動を自らうながし、この原則が適用される制度事象を包摂します。立法者であれ行政者であれ、租税制度を租税原則に拘束されることなく、自由に、片務的に執行させることはできないからです。立法者としての国民(国民代表議会)は、保険者としての行政庁に、その公課処分の執行を負託していますが、保険者代表としての荒川区長も、この租税原則の圏外にあるわけではないのです。荒川区長がここで法の処分者という社会的な立場にあることと、彼が客観的にみて、この租税原則に拘束されるべき制度的被拘束者であるかどうか、という二つのことがらは全く次元の異なる、明確に区分されて考えられるべき問題事象です。
保険者が租税処分者であっても、もし彼が制度事実の均一性を被保険者と共有するとすれば、同じく平等に租税処分の規範拘束の圏内にあることは、何人も否定することはできないのです。ここで荒川区長が社会的関係として国保保険に帰属していないということは、この租税原則の適用が免除されたり回避されるための法的な根拠とはなりません。なぜならその原則は単なる国保法あるいは共済法の原則ではなく、これを上位規範的に拘束する租税原則だからです。そして区長の租税処分そのものが、これらの法律を横断して、この上位法原則を双務的に起動させるのです。ただしそのことは、逆に区長が共済の組員としてとどまることについて、いささかも制限的、抑制的に作用するものではありません。法源の視点からみればそのような社会的な関係は二次的な問題事象だからです。繰り返しますが、租税原則とこれらの根拠法は、法の規範階層において同一水準ではありません。租税原則がこれらの根拠法の上位階層にあるのです。以上のことは、単なる個人的意見、考えとしていうのではなく、租税制度に関わる客観的な制度規範事実としていうのです。したがって、もし万が一にもそうではないというならば、つまり保険者に対してもこの制度規範原則が及ぶという原則、この「原則の原則」がここにおいては成立しないというならば、司法府および行政府は、この点についてその考えを国民に対して明らかにすべきでしょう。

ところで、法源としての国民皆保険制度のもとに、国保保険者と被保険者がともに同一の公的医療保険給付制度の被保険者であること、そして同一の公課物件を一方は租税として、他方は組合費という公課形式において賦課徴収されていることも、公知の事実です。この制度事実の均一性それ自体は、国保法の圏外にあるひとつの事実にすぎません。しかし保険者の被保険者への租税処分が、この制度事実の均一性にある規範的な意味を付与します。その意味とはこの制度事実が、同一の租税公課物件として二人の間で共有されているということです。この制度事実の均一性というひとつの事態が、保険者の租税処分を媒介することによって、租税原則の内部に捕捉され拘束されるということです。

それゆえ国保法による租税処分の定めとともに、保険者と被保険者が法源による給付制度事実を均一的に共有するという事実も、被保険者の視点からみれば、租税法としての「法律の留保」、「法律による行政の原理」に算入されるべき重要な規範拘束的な事実です。すなわち保険者と被保険者は、ここに租税処分を媒介して、根拠法横断的に、租税原則によって双務拘束されるのです。保険者が執行する保険料処分が、単に一方向的に被処分者に向かうだけではなく、その処分の内発的な規範原則として、公平な処分が処分者自体にまで及ぶのです。繰り返しますが、ここでいう双務拘束とは、租税処分そのものがその内部にもつ規範原理であって、この保険料処分を上位規範的に拘束しています。そしてこのメタレベルの拘束性は保険者といえども操作したり、解除することはできません。

ここで特に強調したいことは、租税という制度原理の拘束力がゆるぎないものであり、その拘束力は治者と被治者の区別を超えた一般的、普遍的な適用原則を持っているということです。それゆえ、租税制度の双務原則は、処分者と被処分者の関係においても、これを例外的に取り扱うことを許さず、当該租税原則を適用するための適用要件以外のいかなる外部要因にも拘束されることなく、この判断基準においてのみその適用適否を、客観的、公正に判断すべきものです。この適用判断基準は同時にまた、立法府、行政府、司法府の法認識、判断、行為を拘束する規範原則としてあります。租税原則を適用することの原則、「原則の原則」として憲法94条、憲法14条がこれをもとめ、かつ三権を拘束するのです。とりわけ行政府と司法府は、この「原則の原則」を国家統治の土台をなす基本的な国家原理として遵守する義務を負うのです。
そして主権者としての国民はそのような制度規範解釈、了解性においてこの租税制度を受容しているのです。

  2 なぜ現政令は原処分を正当化する法的根拠たりえないか。 
 政令は法令として二面性をもっていること、つまり法律ではないが法律として機能するということを前回に述べました。 そして今回、国保保険料の委任政令において、租税原則が“委任行為における法規範的拘束性”として、不可欠の要件であることを上に述べました。では現行の政令は、その要件を満たしつつ、法律として、つまり法律的法令として成立しているでしょうか。この政令が、授権者の視点からみたときにも、法律として成立しているかということを、「法律の委任」という視点に立ち戻って、確かめたいと思います。

まず視点をすこし引き上げて、法行為としての政令への「法律の委任」をみてみると、この委任という行為が、立法権と行政権の垣根をまたいでいるということ、つまり国政の分権的な統治原理を一時、“棚上げ”しているという状況が目にはいります。しかしながら、そのような“棚上げ”は、分権統治の原則からみれば決して好ましいことではない、といえるでしょう。なぜなら、俎上にある委任は、租税処分に関わるわけですから「法律の留保」の原則からみても、このような立法府、行政府間の横断は決して望ましいことではなく、したがってこの“棚上げ”は取扱いに細心の注意を要するものです。この委任は万が一にも“移譲”になってはならぬものであり、もしそうであれば、前回みたように、立法府が立法権を手放す、あるいは骨抜きにするということにもなります。その場合、分権的な統治原理は完全に“凍結”されますが、これは明らかに憲法を制定して立法府と行政府を設置した、主権者である国民に対する背任行為です。しかも内閣は行政機構の最上部にあるわけですから、政令がどのような内容において制定されようとも、ここでひとたび制定されたあとは一気呵成に末端の行政庁まで降り下るだけです。市役所や区役所がこれを委任政令として受けとり、行政処分としてわれわれに課すとき、ひとりひとりの市民は、もはやこれに対して為すすべは全くないのです。そうであればこそこの委任は本来、法律の制定にも等しいほどの厳格な法的な検証が必要なはずです。ではその委任が移譲ではないことの確証はどのように確認できるのでしょう。

何によって得られるかといえば、授権によって制定委任された政令が、授権法律が内包していた、法律としての規範性を損なうことなく保持し続けているか、政令がその法律の拘束圏内にあり、これを踏み外していないか、ということです。言いかえれば、その政令が仮に「法律の留保」に代入されて、「政令の留保」として行政行為に適用されたとしても、なんらの法律および憲法原則上の問題をも引き起こすことなく、成立し得るか、ということです。

ではその作業を実際にやってみましょう。
そうするとまず、国会が制定した法律としての現行の国保法は憲法原則に従って制定されており、この法律は、共済法を含む他の関連法規との関係においても、何ら実体的差別を生みだしてはいません。しかしもし現下の政令がそまま、国保法に採り入れられたとしたら、どうなるでしょうか。もし政令、施行令がもはや政令ではなく、国保法81条の授権法律の代わりに公課規定としてここに組み込まれ、これに基き国保料処分が地方税として執行される一方、国保保険者の共済短期、つまり保険者の公課保険料との間に、何倍にも及ぶ応能負担格差が依然として同一のまま残るとすれば、どうなるでしょうか。あきらかにその時、そのような81条を含む国保法はその段階で、ただちに憲法違反の法律、すなわち違憲法となるでしょう。なぜならこれらの公課規定が原処分の法的根拠であるということは、同時に、この公課規定に準拠して租税処分を行う保険者の法源同一的公課との間に、双務的な公課負担が実質的、実体的に成立していなければならないものですが、現実にはそのようになっていないからです。そしてこの状況においては、国保法そのものが法律として、行政庁を一切の判断余地をあたえることなく拘束し、そしてそれがこの公課格差の直接的、最終的原因となるからです。
国保法が一方において保険料を、地方税に準拠して処分規律しながら、他方で同じこの法律が、保険者との公課格差を生み出す保険料規定を規律し、その法根拠となるならば、法源の視点からみて明らかにそこには憲法原則上の矛盾が出現しています。 もちろん法律がそのように制定すること、つまり国民の代表が、国民代表議会において国民を差別的に取り扱う法律を制定することは、立法原理として本来あり得ないこと、あってはならないことです。

ところでもし仮に、国保法が上記のように公課規定しているとして、その状況に対して、違憲立法の訴えがおこされたとしたら、本件の裁判官はどのような司法判断を下すでしょうか。裁判官はその状況においては、もはや保険者の専管権や、専決権を理由にして、この公課処分を擁護することはできなくなります。また政令に公課格差の責任を押し付けることもできません。この格差は国保法それ自体から生み出されているのですから、この法律そのものが格差を生んでいる、ということについて審判しなければならないわけです。そのような法的状況において、それでもなお裁判官は、国保法は違憲ではないという判断を導くことができるでしょうか。できるとすれば、それはどのような法理に基づくものでしょうか。同一の法源に基づき、同一の給付権利を付与する二つの法律の間で、一方の法律が差別的な公課処分を法律として規定しているということを、どのようにして憲法14条に整合させるのでしょうか。

わたしには想像すらできません。おそらくほとんどの人にとっても、考え及ばないことでしょう。そしてもしそのような整合化が不可能であるならば、国保法は法律として、そのような規定をその内部に備えることは原理的にできない、ということになるのではないでしょうか。
しかしながら実際のところ、この仮想的な状況つまり、もし現政令が法律条文として法律のうちに規定されていたら、というこの状況は、仮定のはなしでもなんでもないのです。それどころかこの状況こそが、わたしたち国保被保険者が現におかれている状況にほかなりません。なぜなら公課規定としての政令は、現に今まさに法律として機能しているからです。政令は事実上、法律として81条のなかに読み込まれ、法律として原処分の根拠となっているからです。しかし法律内に直接書き込まれていれば、違憲性の原因となる法令が、法律ではなく、法律に附則する政令として規定されるのであれば、正しい法律の委任であるなどということは、あり得ません。同一内容の法令が、単なる法令の形式的な差異によって、あるときは合憲になり、あるときは違憲となるなどということはあり得ないことであり、あってはならないことです。法律としては成立しないが、政令としては成立するなどということはないのです。それゆえ法律として成立しない公課規定を、政令によって法律的法規として法律に附則させることは、許されるべきではありません。
政令が手続きにおいて正しく制定されているとしても、もし内容としてこれを直接法律内に規定することができないのであれば、その政令は行政処分の法的根拠となることはできないのです。

このように政令を法律条文内に挿入することによってでは何がわかるのかというと、それは政令が法律の水準において、法律として成立するときのみ、政令は政令として成立する、あるべき法規範水準において成立する、ということです。法律として成立するとは、上記の例からもみてとれるように、法律としての実体的な適理性を満たすということです。つまり政令が、たとえ政令それ自体としての法的適理性 ― それがなんであれ ― をどれほど主張したとしても、それはただちに法律としての適理性とはならないのです。
政令が、授権する法律の内容としてあるということはそのとおりですが、それは単に政令が、「授権法律の内容である」という形式性においてあるということ、この法令がそのような制定形式性においてあることを意味するだけであって、内容そのものの適理性がただちに、この制定形式性において担保されているわけではありません。したがって授権法が、政令の適理性をこの形式性において保証することもないし、政令が自らの適理性を、「法律の内容としてある」、という政令の制定形式性から引き出すこともできないのです。それゆえ、行政府が委任行為という法的作用を白紙委任として読み取ることによって、政令のいわば解釈的「地ならし」作業を行い、この地面の上に政令の制定形式性の「読みかえ」を行うこと、つまり政令のうちに、政令が本来もつことのない政令独自の法規創造力や法規設置力を見出しうるかのごとき「規範的解釈」を施すことは、それ自体がきわめて恣意的な、ご都合主義の解釈トリックです。もしここで、政令には内閣に付与された法令制定権があるではないか、という反論があるとすれば、それは当たりません。そこにいう制定権とは法律によって規範拘束されたかぎりの制定権であって、政令に白紙委任された制定権ではないからです。

政令はこのようにして、法令としての適理性根拠を、委任行為の恣意的な解釈によって主張することはできないのです。つまり原処分の法的根拠としての存立性については、「法律から委任されているからである」という、その委任事実性、授権事実性に求める一方で、政令が法令を制定するその制定権については、内閣法が付与する政令それ自身の自律的制定権を主張する、というような使いわけはできないのです。なぜなら法的行為としての法律の委任とは、単に「委任する」という法令の手続き形式的な側面のみをいうものではなくて、同時にまた法律の規範的拘束性を意味するものでもあるからです。委任という法的行為を前者の意味によってのみとらえることで、政令が、法令としての実体的適理性を主張することはできません。一方では、法令としての実体的適理性を、法律の委任手続きによってのみ確保しえたかのように解釈しながら、他方ではこの解釈の上に、法令としての全体的な正当性、適理性を、政令の法形式的制定性および自律的制定性の上に根拠づけようとすることは、政令と法律の規範的意味構造を切断するような委任概念解釈によってはじめて可能となるものであり、「法律を誠実に執行」(憲法第73条1項)する委任様態とはいえないことです。

くりかえすと、政令は法律からの白紙委任によって、政令としての“法的なお墨付き”、適理性の認証をうけたのではありません。したがってまた政令は、行政立法としての適理性を自己準拠的にいうことはできないのです。つまり政令が法律より委任されているという、単なる手続き形式上の事実、および法律の内容としてあるという制定形式性に、これらの形式性の意味を超えた規範性を自ら付与し、もってこれを政令規定の実体的適理性の根拠とすることはできません。政令は単独的に自立した法規ではなく、あくまでもこれを委任した法律の条文中に置いて、法律条文として、法律の視点から判断されねばならないのです。というのは法律の規範拘束性から分離した地点で、政令としての、政令独自の法的自律性、法的適理性などというものはないからです。それゆえもし行政府が(そして司法府が)、政令規定の適理性を、法律委任の規範性に対してではなく、その行為性に還元するような仕方で根拠づけるのであれば、それはまったく錯誤的、あるいは欺瞞的な法的思惟です。
政令の適理性は、政令としてあるという法制定性でも、委任されているという事実性でもなく、法律委任における法律と政令の間の規範的関係性のうちに、その関係性の実体的なありかたとして確認されるべきものだからです。

以上くどくどしく、法律と政令の関係について述べてきましたが、それはこの政令が、最も侵害的な義務行為である租税処分の規定としてありながら、その法規範的な存立構造が錯綜としているために、保険者行政庁に恣意的な法令制定を許す契機を、その制定プロセス中に含みもつものだからです。率直にいって、保険料政令の成り立ちをみればみるほどに、その法令設置メカニズムの巧妙さに感じ入らざるを得ません。少なくともこの政令を表面的、通り一遍的に見ている限りでは、その背後にある“仕掛け”、あるいは“戦略的状況”に気付くことは容易ではありません。そしてそうであればこそ、立法府ではなく、行政府が決定的な役割を果たす、この租税処分の法的根拠としての政令規定において、わたしたち国民は、上に述べたような解釈トリックにだまされてはならないのです。さらにはまた、裁判官自身がこのトリックにひっかかってしまったこと、あるいは、“意図的に”ひっかかってしまったことにたいしても、無自覚であるべきではありません。

現政令は、公課格差を生み出している原処分の法的根拠とはなりえません。根拠にならない理由は、決してその保険数理的な計算根拠にあるのではなく、現政令が、法律の枠組みとして本来拘束されていなければならない規範拘束のもとに制定されていないからです。政令に対してわたしが一貫して問い続けている法的適理性とは、まさに政令を拘束するこれらの規範的制約性に呼応する法側面の問題なのであって、これを単なる政令の数理的な根拠によって説明することはできないのです。その規範制約性とは、国保法が規定する地方税に準拠した、租税処分としての適理性であり、租税処分としての公正性、公平性です。この法規は、政令において内閣が「制定する」というとき、この「制定する」という法行為そのものを拘束するのであって、この拘束がなければ「法律の委任」は「法律の移譲」になるのです。

政令が法律の委任を受けて規定したその料率の細目を、原告は尊重します。もとよりその規定内容についての発言権を、原告は法的権利として持ちません。しかしその内容がどうあれ、その規定項目は同時に、租税処分の制度原理としての平等原則に拘束されているのです。
政令はこのように平等原則に制約されているわけですから、政令がこの公課処分の根拠としての法的適理性を主張しうるのは、この原則の枠内にとどまる場合に限定されます。応能負担公平性としての平等原則は、いわばこの処分の法規範形式であり、この形式に則ることを政令は満たしていなければならないのです。そしてすべての国保被保険者はこの平等権を求める法的権利を持ちます。保険料水準そのものについて発言権はなくとも、租税処分としての公平性を求める権利は持つのです。そしてこのことは解釈水準ではなく、事実水準における法の戦略的状況としていいうるのです。

前回も述べたように、法律から政令への授権を、白紙委任的に行政権に委ねるものとして解釈するとすれば、統治原理的視点からみて、国民に対する背任的解釈です。もしこの授権が主権者である国民の意思に背くような内容においてなされるなら、つまり、主権者の意思がもはや全く作用も機能もしないような形式において法授権が行われるとしたら、そのような授権を許す国会は国民の代表性をもはや失ったものであり、主権在民という憲法原則そのものを裏切るものでしょう。 「法律による行政の原理」とは行政を法律によって制約し、その恣意的な行動を抑止するためにあるのでした。しかしその原理はもはやここでは機能停止しているのです。加えて、もし政令への法授権が白紙委任的なものであれば、この政令が国民に義務行為を課す行政処分の根拠として立ち現れる際に、委任した法律は、その行政処分に対して、国民の権利を擁護する“盾”となることはないでしょう。法律はもはや政令をコントロールすることはできないからです。もはや国民の権利を政令からまもる法規は存在しないのです。そして実にれこそが、この裁判判決が採用した解釈です。そこでは租税原則でさえ、国民の基本権、公平な取扱いを擁護する法根拠とはならないのです。反対に政令が、不公平な処分のために租税法を道具化し、手段化しているわけです。

国会は国権の最高機関としてこの委任、この法改正をそのような内容において承認するのでしょうか。授権された政令は白紙委任されることによって、なんらの議決にも拘束されることなく、全面的な裁量権を手にしたのでしょうか。
もしそうであれば、ここに至ってこの問題は国会それ自身のあり方の問題となるでしょう。というよりそれ以前の問題として、そのような国を法治国家と呼ぶことははたして本当に可能でしょうか。

この頁続く

                                          2012年4月10日 西秀樹




この一冊 5

「いぬは てんごくで・・・」のねこ版ですが、こちらは未邦訳です。

Cynthia Rylant 
「CAT HEAVEN」 1997年