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2008年の秋、米国で未曾有ともいえる大規模な金融危機、いわゆるリーマンショックが勃発しました。世界経済にも波及したこの危機の直接原因は、アメリカの投資銀行が開発した、ある金融派生商品とその拡大販売のあり方、そして不動産市況の急落などにあったようですが、その当時、あるニュース番組を見ていると、ニューヨーク大学の経済学の教授が、次のような言葉で事態の根本原因を解説していました。
“Self-regulation is no regulation” (“自主規制というのは、規制がないということです。”)

これは金融当局が適切な規制を課すことなく、業界の自己規制に委ねたために、高リスクの金融商品取引が野放図に広まり、事態をさらに悪化させたと説明しているものです。そしてこの同じ言葉は、この日本でも、社会のさまざまの領域で見いだせるでしょう。その最たるものは、福島の原発事故によって露呈した、わが国の原子力行政そのものです。原子力安全保安院という規制庁が、推進省である経産省に帰属するということ自体が、 “Self-regulation” そのものでした。
世界を震撼させたふたつのとほうもない出来事は、このひとつの言葉でくくることができるのです。そして彼らに共通するのは、“自分たちが一番よく知っている、自分たちに間違いはない”、という驕慢さでしょう。(かつて哲学者の梅原猛氏は、高速増殖炉に“もんじゅ”という、“菩薩”の名が冠されたことに対し、命名者らのおごりを鋭く指摘しました。)

この言葉のもつ恐ろしさは、この言葉の真の意味を、私たちは何かが起こった後になって、はじめて理解するということでしょう。規制がない、あるいは規制が機能していない、という状況の真の恐ろしさを、しばしば私たちは、何かが起こらなければ思い知ることができないのです。それはしかし何と愚かしいことでしょうか。

ここでいう「規制がない」という状況はしかし、必ずしも「法律がない」ということでも、「法律に反している」というこでもありません。法律が存在し、法律に従っていても、実質的に「規制がない」という状況はありえます。否、法律そのものがあるべき規制を阻んでいるということすらありえます。つまり問題は、法律があるかないかということではなく、法律がどのように機能しているのか、法律が私たちの思考そのものを停止させてはいないかということです。
この社会が少しでも良くなる、ということの少なくともひとつの意味は、社会におけるさまざまな制度、しくみや、ものごとの決め方が、客観的にみて外部からの規制や監視、検証を必要とする、と考えられる場合に、そこから“Self- regulation”がひとつでも減っていくということではないでしょうか。いや減らしていくということではないでしょうか。


 判決を受けて 6  法律と政令 B 


保険者荒川区が、原処分の法的根拠と主張する政令、この政令による保険料規定は、国保法の定める法律の内容としてあります。したがって、この政令が法令として正しく制定されているならば、この政令に準拠した保険料処分もまた正しいものであろう、という推定を強固に支えます。そして逆もまた真なりです。
残念ながら裁判において、この政令を原処分における根拠規定の可否争点として取り上げ、争うことは私自身の能力不足からできませんでした。もっとも適切な反論を行わなかったからといって、現政令がただちに、原処分の適理性根拠として採用されてよいとは思いませんが、あるいは裁判とはそうしたものなのでしょうか。それよりなにより裁判官が、訴訟趣旨に沿って、租税処分および均一の給付制度事実という法的枠組みのなかで、訴訟論点をとらえなかった以上は、つまり保険者と被保険者のふたつの公課を関係的な視点からみることを斥けた以上は、彼らにとって与件としての現政令を審理対象とする必要性はそもそも認識されるはずもなく、もってこれを原処分根拠として受け入れたことは、当然なことであったと受け取るべきかもしれません。

しかし裁判官の考えを忖度することはさておき、政令が法律の規定内容としてあることは厳然たる事実です。政令が原処分の法的根拠とされる限り、国保被保険者は、「政令など関係ない、政令がどうあれ原処分は違憲である」、ということはできません。政令を真正面から受け止めて、なぜ政令は原処分を正当化する根拠規定たりえないかを、客観的に論証すべきでしょう。その作業を続けます。

さて、ニ回にわたって、「錯綜とした戦略的状況」としての政令をみてきましたが、錯綜としているのは政令の制定状況だけではなく、記述するわたしの文章もまた然りです。そこで同じ内容を、図式的に表現したら論点をもう少し整理できるのでは、と思いつきました。内容的には重複しますが、先を急ぐ必要もないので、今回はこれを試みることにします。
図式といっても特別のことはなく単純です。ここでは「法律の委任」をLE、「法律の留保」をLR、内閣をG、政令をS、そして作用関係を→で表記することにします。

まず、内閣が法律の委任を受けた時点の法律と内閣の関係を次のように表します。
    LE  →  G
これは法律が政令に委任するということ、つまり内閣が法律によって政令制定の委任を受けるという事象事実を、そしてそれのみを表します。すべての政令制定はここを起点としますが、この制定行為を行政行為とみなせば、この行為の法的根拠は、この「法律の委任」LE、によって与えられたものであるといえるでしょう。そしてこの法的根拠とは、でも述べたように、「法律の留保」に他なりません。
ここにいう「法律の留保」とは、ある行政行為(ここでは政令法規の制定)が、法律の制定手続きを踏んで、これを法律の根拠として、行われているということです。それは法律からの委任によって、政令による法令制定が内閣に対して要請されたということと表裏一体です。それゆえ内閣にとって、政令制定の手続き要件としての「法律の留保」は、「法律の委任」LEの内部にすでに折り込まれているといえます。
この「法律の留保」をいまLR(x)と呼ぶことにしましょう。繰り返すと、法律から委任されているということそれ自体のうちに、内閣は政令の制定行為要件としての「法律の留保」をすでに確保しているのです。それゆえ、LR(x)はLEに付随する形で表されます。つまり LE  →  G は、次のようになります。
     LE  + LR(x)  → G          (イ)

ただしこのLR(x)は、内閣が政令を制定するということ、その制定行為についての根拠にとどまります。制定しうる、という行為権利についての法的根拠に限定されるのです。それゆえ、この制定権によって制定される法令の実体的な法的根拠ではありません。いいかえると、内閣が政令を制定するその制定のありかた、そしてその結果としての制定法令の法的根拠ではありません。制定された政令が、法律の内容として正しいという根拠ではないのです。
さてこうして法律委任された内閣は、ここから政令としての法令を制定していくわけですが、その制定行為はどうあるべきでしょうか。

法律、内閣、政令
ここで少し立ち止まって、「法律の留保」LRのあり方を、あらためて確認したいと思います。

通常、「法律の留保」としての根拠法律とは、成文法としての法律です。当然この法律は、行政府の外部に立法府が制定した法律としてあるものです。しかし国保法は、その公課規定の制定を政令に委任したわけですから、法律条文という形式での法律根拠は、この公課規定に関する限り存在しないわけです。これはまったくあたりまえの話です。

では本来、行政行為の法的根拠として行政の外部に立法される法律が、その法律そのものが、政令として内閣に制定委任されるという場合、この法律はこの局面において、どのようなあり方において、またどのような関係性において、内閣に対して関わってくるのでしょうか。この法律が行政府の外部に立法されて、行政に対して果たしていた「法律の留保」としての根拠性、その役割、法の働きは一体どうなるのでしょうか。

それとも法律の政令への委任とともに、すなわちこの法律内容が内閣に委任制定されることによって、行政行為の法的根拠も不要となるのでしょうか。行政行為の根拠としての法律が行政を拘束する、という行政原理も消失するのでしょうか。もちろんそのような考えは受け入れがたいものです。
なぜなら行政行為、わけても侵害的な行政行為に法律根拠が求められる最重要の理由は、その行為が行政の都合や恣意によって執行されることを防ぐことであり、したがって、そのような意味における法律の根拠性、法律の制約性、すなわちLRは、法律の委任に関係なく、内閣および行政全般を拘束していなければならないからです。「法律による行政の原理」が遵守される限り、国会から内閣への政令委任によっても、「法律の留保」という行政原則は消失しないし、してはならないのです。
もし法律の委任によって、行政行為の実体的な法的根拠も不要になるというのであれば、それはつまるところ、「法律による行政の原理」、三権分立の統治原理そのものを否定しているのです。

それゆえ法律が侵害的な法規を政令委任する際においても、このLRは、内閣が公課規定を制定するその制定のあり方において実効機能していなければなりません。LRは政令制定にたいして、あくまでも外在性、外部性としてあり、外部からこれを規範拘束していなければならないのです。
ではしかし、実際のところ内閣は、行政府としての自己自身を拘束するような法規範を、どのようにして制定できるでしょうか。いかにして内閣は、「法律の根拠」、「法律の留保」としての政令を制定しうるのでしょうか。それとも制定内容に関係なく、内閣が制定した法令はそのまま自動的に「法律の留保」としての政令になるのでしょうか。政令そのものが、根拠としての法律へと“格上げ”されるのでしょうか。
この考えも同意できません。なぜならば、法律が政令へと制定委任されている場合、行政の恣意を排除するという法律本来の機能は、単に行政行為が委任政令に従っている、ということだけからは検証できないからです。そもそも政令とは、行政府が制定する行政法である以上、制定された法令そのものが、行政の恣意を排除していなければ、行政行為がそのような政令に従っているからといって、「法律の根拠」によってコントロールされているとはいえないでしょう。
つまりもしその法規が政令という法形式において制定されたものであり、しかもその制定のあり方が、もっぱら行政にとっての都合を優先させるものであるならば、どうしてそのような法規が、行政行為の恣意をコントロールすることができるでしょうか。行政行為の法的根拠としての政令法規そのものが、恣意的なものであれば、そのような法規がたとえ法律の内容であるからといって、その政令法規に準拠する行政行為から行政府の恣意性を排除することはできないのです。

とはいえ、ひとたび内閣が政令を制定しまえば、それは「法律の内容としてある」という法の形式性において規範性をもち、これが行政行為の法的根拠となるわけですから、その制定のあり方に関係なく、行政が政令に従う限り、法形式上においては、法律に従って、適法に処分されているということができます。それは行政行為の公定力の根拠でもあります。
つまり「法律による行政の原理」、「法律の留保」はそのような状況においても、形式的には満たされているわけです。そしてそれが ― 先回りしていえば ― 荒川区が主張し、裁判所が受け入れた法理でした。しかし私たちがそのような根拠説明で引きさがってしまうことは、愚かしいことです。なぜならそこで言われている法的根拠とは、ある行政行為が、単にLR(x)において法律の根拠をもつということに過ぎないからです。

つまりここで直面している問題とは、「法律による行政の原理」という憲法原理、分権的統治原理を大前提としたときに、法律によって内閣に制定委任された政令が、同時に、行政の恣意を抑止する法規範的な契機としてあることを、つまり原義的な意味において「法律の留保」としてあることを、私たち国民はどのように確信できるか、ということです。行政の恣意、自己都合を防ぐ、外在性としての法律は、その法的働きとして、この委任政令においてどのように確保され、そのことを私たちはどのようにして知りうるのでしょうか。
いま確かにいえることは、この政令を制定する主体が内閣である以上、政令を「法律の根拠」としての政令において制定するという行為は、内閣自身によって為されるほかはないということです。
ではそれはどのようにしてなしうるでしょうか。

侵害的行政行為としての政令制定
ところで内閣がここで制定する政令とは、国保法によって租税処分される保険料の料率規定でした。そして言うまでもなく、内閣は立法府ではなく行政府です。そうするとまず、「租税処分にかかわる権利侵害的な政令を制定する」という行政府による立法行為とは、まぎれもなく、それ自体がひとつの行政行為でしょう。公立図書館の運営や、乳幼児検診の実施だけが行政行為ではありません。行政主体による法令の制定も行政行為です。それは「法令制定行為」という名の行政行為であって、法律の制定としての立法行為ではないのです。行政府を行為主体とする、行政府による行政行為なのです。
さらにはまた、この行政行為の固有の属性も考慮されねばなりません。つまり内閣が制定するこの侵害的な政令に基づいて、行政は最終的に租税処分を行うのですから、その法的根拠となる政令の制定行為は、それ自体が侵害的な行政行為といえます。
この法規が権利侵害的なものであればこそ、その制定は本来、法律のみに許されるものであったわけです。これを政令に委任したからといって、この法令制定の侵害的な性質が変質するわけではありません。

繰り返しいうと、単にひとつの侵害的な行政行為を行うということではなく、侵害的な行政行為の根拠となる法規を制定するということは、国民の立場から見て、行政府において想定しうる最も侵害程度の著しい行政行為でしょう。したがって、この行政行為に対しては本来、最も厳格に「法律の留保」が要求されるべきですが、にもかかわらず、ここでこの行政行為を制約する法律はないわけです。このような状況、行政府に対して法律が最も強く必要とされる状況で法律が存在しないということは、大きな矛盾です。それは現行の立法統制手続きに起因する矛盾、すなわち内閣が法律から委任されて、租税処分の内容としての侵害的な法規を制定するという、この政令の法手続き上の成り立ちが本質的に内蔵するパラドックスです。
しかし政令を規制する根拠としての法律は本当にないのでしょうか。
「法律による行政の原理」が遵守される限り、「権利侵害的な法令を制定する」という侵害的な行政行為に、「法律の留保」」が適用されるべきことは当然のことです。そのような侵害的行為こそが、最も厳格に「法律の留保」を要請されていること、法律の根拠に基づいて、法律に従って行われなければならないということは、前々回に述べたとおりです。それゆえまた、この侵害行為を律すべき法的根拠とは、単にこの政令制定という行政行為が、法律によって内閣に委任されたものであり、制定された法令は法律の内容としてあるという、政令制定の形式的な規定性にっては根拠づけることのできない、それとは別異の法的根拠としてとらえられるべきでしょう。
それはLR(x)とはまったく異なる「法律の留保」を要請しているのです。

なぜ別異かというと、「法律の委任」という概念をどのように分析しても、そこから侵害的な行政行為(権利侵害的な法令の制定行為)を拘束すべき法規範としての法的根拠性をとりだすことはできないからです。そこから取り出せるのは、内閣が政令を制定することができるという、その行為手続きの根拠性のみです。
したがって政令の制定のあり方については、LR(x)とはまったく別の法律根拠が要請されるのです。
つまり内閣による政令制定行為を、その制定内容に着目して、侵害的な行政行為という行政側面においてみるとき、この行政行為は、「政令を制定する」という行為の法手続き側面についての法的根拠だけではなく、制定行為のあり方についての法的根拠をも必要とするのです。行政行為としての政令制定の、この二つの側面に対応する二つの法的根拠性は、分別して認識されるべきです。ここではLR(x)と区別するために、後者の制定側面についての法的根拠、「法律の留保」をLR(y)と呼びましょう。
そうするとこの政令制定の目的は、租税的な公課の内容を定めること、租税公課規定を定めることでした。そしてそのような制定行為は、国民に対する権利侵害的な行為としてあるわけですから、行政の恣意によることなく、法律に基づいて行われなければなりません。その法律の枠組み、法律根拠がここでいうLR(y)です。
普通、「法律の留保」といえば、それは行政行為の根拠として、行政の外部に法律として定立されているものです。しかしいま論じているLR(y)は、もちろん成文法としての法律ではなく、かといって、成文法としての政令そのものでもありません。にもかかわらず、行政府が法律に委任されて、租税公課の規定を制定するという侵害行為を行う以上は、この行為そのもののあり方を制御し、根拠づけるための法的規範がそこに必要なはずです。すなわち、ここでいう「法律の留保」とは、必ずしも法律条文とは限らないということが了解されます。

「法律の留保」としての政令
上にも述べたように、通常、「法律の留保」としての法律根拠は法律条文そのものです。その場合、この根拠は容易に成文法から拾い出し、摘示することができます。しかし法律が政令に委任するとき、この根拠は内閣が制定する政令と一体化しているわけです。それは、法の外観形式としては政令に他なりません。しかしだからといって制定された政令がただちに、それこそ一切の留保なく、無条件にLR(y)に準拠して成立している、と保証されているわけではありません。なぜならLR(y)は政令を拘束する法的規範として、政令の内部に埋め込まれているものであって、必ずしも政令の外観からすぐにそれとわかるものではないからです。ではそれはどのように発見できるものでしょうか。
その見極めは決して難しいものではありません。

LR(y)とは、内閣が租税公課規定を制定する際に、その制定行為を規範拘束する法的根拠として内閣にかかってくるわけでした。そうすると内閣は、法律に代わって、この公課規定を制定するのですから、このLR(y)は国民代表議会としての立法者が法律を制定する際に、この立法者を拘束する法規範としてあるものとまったく同一の規範でしょう。すなわちもしこの公課規定が委任政令としてではなく、国会で法律制定されていたとしたら、そのときに立法者国会を拘束すべきであった法規範、法的拘束に他なりません。その場合、このLR(y)は法律の公課規定条項のうちに、この規定を支える法的根拠として発見しうるものでしょう。その同じ法的根拠がこの内閣の制定行為にも、立法府の場合と同様にかかってくるのです。
ですから、もし内閣が立法府と同じこの法規範に従っていれば、立法府が法律として制定したであろうように、それと同じように、これと矛盾することなく、内閣は政令を制定しているはずです。すなわち、政令が果たしてそのようなあり方において制定されているか、ということが、このLR(y)の存否を見極める確かな、客観的な基準です。

つまり、この公課規定法規の制定そのものが行政府に委任されている場合、「法律による行政の原理」、「法律による行政行為の根拠づけ」という法的作業そのものが、この政令制定の行為過程のうちに、この制定行為を制約する法原理としてそっくりそのまま引き継がれて、負荷されるのです。
内閣は、この「法律による根拠づけ」という作業そのものを、法律からの委任とともに引き受けなければなりません。というのは、この作業は、制定される政令が「法律の根拠」として成立するためには、公課の制定作業から切り離すことはできず、しかも公課制定というプロセスにおいてこの作業を回避することはできないからです。

繰り返すと、この公課規定がもし法律によって制定されていたら、行政はこの「法律による行政行為の根拠づけ」作業を行う必要はありませんでした。それは法律制定のうちにすでに、作業終了していたからです。しかし、この法規的法令を政令として委任制定するということは、行政自らが、この「法律による根拠づけ」という原理的作業をひきうけねばならない、ということを意味するのです。
しかもこの法的根拠づけという作業は、基本的に国会の法律制定と同水準の法的規範性を満たすべきものです。この作業を内閣は、法律条文として与えられることなく、法規範的拘束性という規範水準において、いわば自己規律的に行わなければならないのです。
このようにみてくると、「法律の留保」は、ここでより根源的なあり方で、行政に法律の根拠性の執行を迫っているといえるでしょう。なぜならそれは行政の外部から、外的な制約枠組みとしてかかってくるのではなく、行政が自らの法的判断と意思において選びとるようなあり方において、迫っているからです。

なぜ委任された政令にまでそのような規範拘束が課せられるかというと、この政令は、行政行為にとって「法律の留保」としての法律根拠となるべき法規範であるからです。保険者行政庁が租税処分を行うさいの、その処分の根拠規定に他ならないからです。それゆえ、政令が同時にそのような法律根拠として成立しうるためには、この政令自体がその制定のあり方において、ある法規範原則に従って制定される必要があるからです。この法規範原則こそがここでいうLR(y)です。

小括
さて以上の議論をふりかえって、「侵害的行政行為としての政令制定」という視点と、「法律の留保としての政令」という視点の、それぞれにおいて論じてきたことを突き合わせてみると、侵害的行政行為としての政令制定行為の根拠こそが、同時に、この政令を「法律の根拠」、「法律の留保」として成立させる法的契機となっている、その根拠となっている、という関係構造が了解されるのではないでしょうか。これは、公課の規定のあり方そのものが正しくなければ、これに基づく、公課の処分も正しいとはいえないであろうというふうに考えれば、きわめて当然のことです。
公課制定のあり方を支える根拠、つまり公課規定を支える根拠こそが、公課行政処分の根拠なのです。公課の制定のあり方が、正しい根拠に基づいているからこそ、この公課規定は正しく、かつそのことによって政令は法令として、この公課政令に準拠する行政処分の根拠規定となりえるという関係性です。

したがって、法規制定行為としての行政行為を制約する「法律の留保」は、政令において二層構造をなしています。つまり、政令が法実体的な意味で行政行為の根拠、LR(y)となるためには、その制定のあり方において、その制定のあり方そのものが、法の制定行為としてLR(y)に基づいていなければならないということです。前者の根拠をLR(y2)、後者の根拠をLR(y1)と呼ぶと、LR(y1)とはまさに立法者国会を拘束すべきであった法規範、法原則であり、このLR(y1)を制定根拠にすることによって、はじめて内閣は行政行為の法律根拠としての政令、「法律の留保」としての政令、すなわちLR(y2)を制定できるのです。
政令が法令の実体的内容においても法律として成立するためには、その政令は、法律の規定内容たるべく規定されていなければなりません。それは政令が、法律内容規定としてあるために満たすべき被拘束性のもとにおいて実体的に成立しているということ、つまりLR(y1)のもとに成立しているということなのです。

この内閣の法令制定行為は、単にその行為形式おいてばかりでなく、同時にその行為のあり方、法令制定のあり方、公課規定のあり方において、法実体的な意味で、法律の法令制定行為として成立していなければならないからです。そしてこのことを規範拘束するために、このLR(y1)は内閣の制定行為そのものに、いわば自己規律的に負荷され、かかってくるのです。“かかってくる”というのは、規範拘束しているという意味でもあり、またそのことにおいて制定行為の根拠ともなっているという、根拠性でもあるわけです。

本来は、「法律の留保」として行政府の外部に制定され、行政府を拘束する法律は、政令への委任とともにその役目を終えるのではなく、行政府の法令制定行為を拘束する法規範として、つまりLR(y1)として行政府を拘束するのです。
「法律の留保」は政令の制定において、法律が行政を外側から拘束するような、いわば可視的なあり方で拘束するのではなく、侵害的な政令を立法するという内閣の行政行為において、この行政府による法制定行為を内側から拘束するというあり方で、拘束しているのです。行政の外部から拘束するか、あるいは行政内在的にこれを拘束するか、という拘束関係の様態における差異は、ひとつの差異としてあるわけですが、最も重要なことは、法律の委任によってさえ、「法律の留保」としての法律根拠性は、政令制定を拘束する法規範として、政令のうちに見出されねばならないということです。というのは、政令の制定行為もまた行政行為に他ならないからです。

もしこの国保保険料の公課規定、つまり侵害的な法規制定が、国会において法律として制定されているのであれば、その法的根拠は法律という議決の形式によって担保されます。つまり国会という場で国民の代表者が議決した以上、その法律は合憲的な内容であろう、国民の基本的な諸権利を保障し、確保した内容であろうという推定が働きます。事実、二つの根拠法、国保法と共済法を比較したとき、これらの定めが法律として、保険者と被保険者を差別的に遇しているということはできません。これらの法律は、給付権利において平等、公平であるし、法律内部に公課格差の根拠を見出すこともできません。
しかしこの侵害的な公課規定の料率細目が、行政府によって委任制定されるとき、法律の委任は、この侵害的行政行為の法的根拠性まで担保することはできないのです。担保しうるのはLR(x)としての根拠性に限定されます。つまり国民の立法府への委任と、立法府の内閣への委任とでは、そこで担保されている法的根拠性がまったく異なるのです。それゆえ、侵害的な行政行為(租税処分)が政令を法的根拠として執行されるのであれば、そこで法律の根拠、「法律の留保」は法律の委任によって棚上げされることなく、いわんや消失することもなく、その政令制定行為の法的根拠として、その根拠性のうちに、一層厳しく要請され、根源的に問われ、突きつけられなけれなりません。

すなわち(イ)によって法律からの委任を受けた内閣は、LR(y1)という「法律の留保」のもとに、このLR(y1) を制定根拠とすることによって、政令S(a)を制定します。
      ( LE  + LR(x)  →   G )    →   S(a) /LR(y2)       (ロ)
                           ↑ 
                           LR(y1)
 @ ここで二つの矢印が直角に交わるのは、LR(y1)が、内閣Gの政令制定行為に作用して
   いることを意味します。この作用は、もちろん規範的拘束力を伴います。
 A このようにして制定された政令 S(a)は同時にまた、行政行為(保険料処分)の根拠規定、
   行政原理としてのLR(y2)となりえます。

ここで留意すべきは、同じ「法律の留保」であってもLR(x)と LR(y1)は、はっきりと区別してとらえられねばならず、LR(y1)をLR(x)によって置き換えることはできないということです。LR(x)とLR(y1)はともに、行政行為における法律の根拠としてありますが、その根拠となるべき行為側面が異なるからです。
LR(x)は、法律の委任によって、内閣が政令を制定することになるその制定行為の法形式的根拠、制定権の法形式的根拠です。したがってこれは政令が法律の内容としてあるという、政令の法形式的規定性についての根拠ではありますが、その政令の内容が規範的に法律として成立しているかどうかについての根拠ではありません。

これに対してLR(y1)は、この制定行為が侵害的な行政行為の法規策定であることから、この制定行為そのものを拘束する実体的な法的根拠として、この制定行為にかかってくるものです。
ただしこのLR(y1)は、もし法律の委任がなければ、法律そのものとして、行政の外部から行政に負荷されるべきところ、ここでは法律の委任によって、行政がいわば自己規律的に負荷することによって、制定行為のあり方そのものを自己規制するわけです。しかし規範負荷の経路が自律的であるか他律的であるかを問わず、この行政行為が侵害的である以上は、このLR(y1)は法律の根拠として、この行政の法令制定行為を拘束していなければなりません。「拘束している」ではなく、「拘束していなければならない」のです。そしてまた、この制定行為を拘束することの結果として、それはまた制定される政令の内容そのものを拘束することにもなります。

またLR(x)は、委任政令において文言表現を与えられ、これを容易に読み取ることができますが、LR(y1)については、上にも述べたように私たちはこれを、法律の包括的な制定状況とそこにおける規範的意味連関構造からこれを読み取り、確定しなければなりません。その確定は法理に基づき、理性的な判断によって合議的に到達しうるものです。またその作業に特別の専門的な法律知識が必要であるとも思われません。わたしがこの裁判で行っているように、ごく普通の一般の市民でも十分に可能なことです。法律とは本来、国民の代表が制定するものであればこれは当然のことです。

以上の議論を踏まえると、もし公課規定のあり方が法律によって拘束されていないのであれば、つまり公課規定のあり方が、「法律の留保」、LR(y1)の根拠を欠くのであれば、そのように非拘束的に制定された公課規定、つまり政令が、行政行為(租税処分)を拘束すべき根拠規定たりえてはいないことは明らかでしょう。たしかにその政令は、法の内容としてある、という意味では法形式的に処分根拠といえます。しかしそれはLR(x)としての根拠であり、いわば公定力としての法的根拠です。しかし公定力は行政行為の最終的な法的適理性根拠ではありません。公定力とは行政に付与された、強制力をともなう法執行権力ですが、その権限、権力はあくまでも暫定的なものであり、終局的でも、不可侵のものでもありません。行政行為の被処分者である国民は、行政訴訟事件をおこすことによって、この行政行為を支える実体的な意味での法的根拠、公定力の根拠そのもの問い、争うことができます。そしてその最終的な法適理性根拠は、司法府における司法審判によってのみ審理され、可否決定されるものです。この裁判もそのようなこころみのひとつ、つまり公定力の執行そのものが、原処分において平等原則に反しているのではないか、ということを訴えたものです。そして保険者荒川区、および裁判所がもしこの公定力の適理性根拠を政令に求めるのであれば、その根拠規定性は、単にLR(x)のみならず、同時にまたLR(y1)において準拠し、成立していることを、さらにはその結果として、この政令が、この政令それ自体が、LR(y2)において“法律根拠”となっているということを、明らかにしなければならないのです。

この頁続く
                                            2012年7月11日  西秀樹






この一冊 6

“わかってる大人”を描いた絵本です。

ジャニス・レヴィ 作 クリス・モンロー 絵    
「パパのカノジョは」 岩崎書店  2002年