中国の故事に由来する成句で、“朝三暮四”(ちょうさんぼし)という言葉があります。 宋の時代、ある男が飼っていたサルに朝に三つ、暮れ時に四つの木の実を与えようとしたところ、そのサルは不服を唱えました。そこで男が、「それでは朝方四つ、暮れ方には三つにしよう」と提案しなおすと、サルは喜んでこれを受け入れた、とそういうおはなしです。
仮に、ある社会制度上に反射的、呼応的な関係に設定された一つの権利・義務関係があるとします。権利に対して義務が課せられ、義務に対して権利が用意されている、というあり方の制度です。この権利・義務関係は、この制度の運営者によって、その構成員に適用されます。さて、この制度の運営過程で、もし格差や別異の取扱いを根拠づけるような正当な理由 ― ある構成員には無視できないハンディキャップがみられる、というような ― がないにもかかわらず、ある構成員に対し権利と義務どちらかの面で、不平等な取り扱いがなされたとすれば、それがどちらの側であれ、おかしなこと、理不尽なことです。両者はこの制度局面で、不可分、一体的に結びついているのであり、他の構成員とどちらか一方だけが同等で、もう片方は同等でない、というような処遇はこの結びつきを壊してしまうからです。もちろん、権利や義務のあり方について法が定めたいわゆる“信義誠実の原則”、民法第1条2項 − 「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。」 − は民法、私人のみならず、公法にも公共団体にも適用されます。また、権利と義務がひとつの制度の表と裏のように結びついている場合、この信義誠実の原則は両者の一体的、相互的な作用関係性そのものにも及ぶべきでしょう。つまり、その関係の連結性が尊重され堅持されたそのうえで、権利と義務がそれぞれにおいて履行されるのだ、ということが要請されるべきでしょう。 (“信義”と“誠実”は、法律以前の一般道徳として、私たちの皆がすでに個人として十分によく知り、保持してもいる基本的な社会感覚、および人倫上の価値意識であり、それとして必ずしも法的概念に包含されてしまうようなものではありません。 それゆえまた、この民法原則の実体的な充足性は、必ずしも当該事項に付随する法的概念の分析や、法的関係の整理のみによって十分に判断しうるとは限りません。法の底に道徳があるのであり、道徳の底に法があるのではありません。)
なお、この原則をなんらかの実際の権利や義務に適用するにさいしては、ひろく私たちの社会的営為のなかにみられる権利や義務のあり方、作用が、多様な形態と働きをとるものである、ということについても留意しましょう。すなわちそれらは、社会的権利や義務に関わる法や規則を策定するということおける権利、義務行為でもありうるし、社会的権利や義務に関わる制度を実施運営するということにおける権利、義務行為でもありうるのであり、そういった社会局面では、それらの社会行為もまた − つまりある特定の制度権利や制度義務を規定したり実施適用したりするさいに、そこで行使されている権利行為や義務行為もまた − 官民を問わず公正に、信義に従い誠実に行われなければならないのです。この信義誠実の原則は、権利や義務に関わるあらゆる社会行為を、それらが包含するあらゆる作用階層で規範拘束するのであり、あらゆる社会的組織にも、法を制定する議会にも、法を執行する行政機関、法を適用する裁判所にも等しく適用されるのです。
上に述べた仮定に戻って、この制度が医療保険給付制度であるとしましょう。権利はそこで保険給付の権利となり、義務は保険料義務となるわけです。そうすると、もし同一の医療保険制度に加入する二人の人間の一方が、権利または義務のいずれかの面で、正当な理由なく不利な取扱いを受けるとすれば、それは権利と義務の両面において不利な取扱いを受けることです。公的であるかないかを問わず、もし法源を共有する同一の医療保険制度内において、二人の被保険者が同一の保険料を負担しながら、保険給付の面で格差があるとすれば、― ひとりは医療費の8割を給付され、別のひとりは7割の給付にとどまるとしたら、これをおかしいと思わないひとはいないでしょう。(医療保険制度加入に際してのふたりの条件は法源的に同一と仮定します。)
ただしこれが反対の場合、つまり保険給付の割合は同一だが、保険料に格差があるという場合、これを疑問に感じることは、前者の場合ほど容易ではないことがあるかもしれません。たとえば、この制度を運営管理する口達者な保険者が、煩雑に設定された規定や“法律”の仕組み、手続き上の違いなどををもちだしてきて、強引に異なる取り扱いを正当化し、被保険者を言いくるめようとするような場合です。 しかし、保険者がどのような理屈を持ち出そうと、保険料義務に差があるということは、保険給付権利に差があるということにほかなりません。そこでは保険料の差が、同一であるかのように見える給付割合の実体的価値そのものに、決定的な格差をもたらしているからです。
上記のような事例において、権利の差は受け入れないが、義務の差は受け入れるというひとは、あるいは権利の平等に安住して、義務の格差に無頓着な者は、朝三暮四のサルと同じです。(失礼!) もちろん、そのような取扱いを司法認証し、法的お墨付きを与えるような裁判官は、まちがいなく同類でしょう。
異なる事象外観のもとにある二つの状況が、その根底では、ともに同じ一つの意味的状況としてある、ということを見抜けないでいる、もしくは見ようとしないでいるからです。( それゆえこの裁判官が、国民から負託された司法権の行使において、民法第1条2項に違反していることも見過ごすことはできません。繰り返しますが、この民法原則は、法を適用したり解釈する司法的思惟の作用そのものにも、合理性のあるなしなどについて下す司法判断そのものにも及ぶのです。)
ただし、この状況の背後には、権利や義務を超えて、これよりはるかに重い問題が横たわっています。 であればこそ、ひとりの人間にとって、このような理不尽な扱いを受け入れることはなおの事できないことなのです。
判決を受けて 7 法律と政令 C
国保保険料政令が、保険料処分の根拠規定としての法的適理性を欠いているという議論をさらに続けます。
政令の厳格憲法解釈的根拠
前回は内閣が、法律(国民健康保険法81条)に附則する法律内容としての公課規定を、法律の委任によって政令として法制定するにあたり、その法令制定は“行政行為”としてどのようにあらねばならないか、そのあるべき“ひな型”を図式的に描く試みを行いました。その際に、この法令制定行為を“行政行為”として認識することは、私たちがこの政令制定についての実体的な適否判断を下すさいの、その判断の枠組みとなる基本的前提となります。なぜなら、法令の制定行為という、表面的にはどう見ても立法行為のようにしか見えない国家作用行為を、― 事実それは立法行為であるということも勿論言えるわけですが ― あくまでも行政府の手による行政行為として、行政作用の行為範疇のうちにとらえることによってのみ、私たちはこの政令制定行為を、その制定手続きの正しい法的枠組みにおいてはじめて適切、正確に認識し、根源的に位置づけることができるからです。
さて行政行為については、一般原則として“法律の根拠”が必要であるとされますが、このことを法律学では、“法律の留保”が必要であるというのでした。そうすると政令としての法令を制定する立法行為が立法府ではなく、法律の委任を受けて行政府・内閣による行政行為として行われる以上は、この立法行為としての行政行為に対しても、法律の留保が、つまり法律によってあらかじめその行為の根拠性が与えられていなければならないわけです。ただしこの根拠性とは立法行為的行政行為の根拠であると同時に、この作業を担う行政行為の法規範的な制約枠組み、法規範的な要件性ともなってくるものです。そしてこの法律の留保という行政行為に向けられる原則要請こそが、― この要請は権力の分立制という国家統治原理を支える仕組みのひとつとして行政府を拘束するものですが ― ここでこの立法行為を、“行政行為”として把握しなければならないことの根本理由ともなり、統治原則的要請ともなっているわけです。
ではこの法令制定行為としての行政行為に対しては、いかなる法律の根拠が必要とされるのでしょうか。このことを考える際に、ここでは特に一つの事実に注目し、留意する必要があります。それはこの行政行為によって制定される法令が、最終的にこの法令(政令)を介して国民に義務を課すような強制的な行政行為の法的根拠として立ち現れるという事実です。そしてこの法令の有する義務賦課的側面は、この法令制定行為の法律の根拠、法律の留保の内容を検討し明らかにしてゆく作業過程において、この行政行為の行為性そのものを規定するひとつの独立的事実として取り出されてこなければなりません。なぜならここでは単に「ある法令を制定するという行政行為」とは別に、「国民に義務を賦課する行為という行政行為」が、新たに見出されることとなるからです。そしてこの後者の行為側面については、この行政行為そのものの法的な根拠が、法律の留保として要請されてこなければならないからです。
そうすると、行政行為としての法令制定によって、政令として制定されることになる行政法令が、同時に、義務賦課的な内容の法律(国保法81条)に附則する法令として実体的、規範的に成立し得るためには、その成立要件として、この法令制定行為はどのような法的根拠性に基づく必要があるのでしょうか。この問題構造を包括的に明らかにする作業は、前回において次のように試みられたのでした。すなわちそれはまず、法令制定行為のすべての過程局面を、“行政行為”としての行為範疇内に位置づけた上で、そこにおけるおのおの行政行為の、その行為性を支えるそれぞれの法的根拠性を“法律の留保”という道具概念に置き換え、そのようにしてとらえられ、抽出された“法律の留保”の複合的、多義的な意味機能性を記号的に機能腑分けすることによって、国民に義務を課す政令制定行為の法的根拠性を三つの局面に析出、階層化する、というものでした。そのようにしてたどりついたのが下の図式です。
( LE + LR(x) → G ) → S(a) / LR(y2) (ロ)
↑
LR(y1)
ただしこの図式は、単なる理念的な型にとどまるものではなく、“規範的鋳型”として、
法令化される政令がここに流し込まれ、実体成形されてゆく、そのような実働的な型
としてあるべきものです。(そうでなけば、この政令は白紙委任となります。)
では実際の国保保険料公課規定としての政令は、どうなっているのでしょうか。国保被保険者に適用されている実際の保険料政令を、S(a)として、(ロ)の図式に当てはめて説明することはできるでしょうか。それは(ロ)において図式化されているような法規範的制約の枠組みの内部で制定されているといえるでしょうか。前回述べたように、この政令S(a)が、「法律による行政の原理」を満たすべく、「法律の根拠」としての政令、すなわちLR(y2)としての政令になるためには、この政令の制定のありかたそのものが、LR(y1)によって根拠づけられていなければなりません。はたして現政令はそのように、LR(y1)によって根拠づけられているといえるでしょうか。
ここでLR(y1)の内容を再確認すると、これは保険料公課規定がもし内閣に政令委任されることなく、法律として、国会自らが法令制定していたとしたら、その状況において国会 − 立法府を規範拘束していたであろう法規範原則のことでした。もし立法府が、そのように法律において公課規定を法令化するのであれば、その公課規定にいかなる立法政策を適用するとしても、国会はその根拠となる政策判断を、法律の包括的制定状況に抵触するような、もしくはそのような疑義をもたれるような内容において下すことはできません。公課規定を課すその法律も、また法律全体によって根源的に拘束されているのであり、立法者が公課規定のみを取り出してきて、これを好き勝手に解釈して制定することはできないからです。
それゆえ立法府はこの公課規定法律を合憲的な内容において制定すべく、その規定内容の制定に先立って、法律のあり方についての厳格な法的検討、“厳格憲法解釈”を行うはずです。公課規定が国民意思たる法律の制定として、憲法上の原則要請を満たすために、制定者はその規定が、包括的に法律規範、憲法原則を遵守しているための検討を避けることはできません。(1)
さてLR(y1)とは、国保法81条の公課規定制定において、立法府を拘束していたはずの規範原則、つまり立法府の公課規定制定のあり方を、その局面で制約する規範原則のことでした。そしてこの規範原則の探求は、一般的解釈ではなく、厳格憲法解釈によってのみ行われねばならないのでした。そうすると、この解釈行為側面は、LR(y1)におけるひとつの規範拘束性としてとらえることができます。LR(y1)におけるこの拘束側面を、ここで(α)と呼びましょう。つまりLR(y1)は(α)によって規範的な枠組みをはめられているのです。同時にLR(y1)は(α)によって拘束されることで、LR(y1)としての真の実体的な根拠性を獲得するわけです。
次に、立法府が、(α)のもとに国保法81条の厳格憲法解釈を行い、その結果として、この公課規定が満たすべき規範原則を発見するとします。そこで得られる規範原則内容をここで(β)と呼びましょう。(β)は(α)において導かれるLR(y1)の実体的な帰結内容そのものです。それゆえLR(y1)は、実は(β)に他なりません。ただしここで(β)と念押しするのは、(β)と呼ぶことによって、「そのLR(y1)は(α)によってすでに根拠づけられているので、このLR(y1)を規範的な法的根拠(法律の留保)とすることによって政令が実体的に制定される限りは、そのようにして制定された政令S(a)もまた、この政令に基づいて行われるであろう行政行為(処分)における憲法適合的な法律の根拠(法律の留保)、LR(y2)となりうるのだ」、ということを客観的に保障し、明確化するためです。行政行為としての法令制定によってそこで制定された政令が、行政行為(処分)の根拠たるべく制定された法律法令、法律附則令として適切に成立していることを言うためです。
ここのところの概念関係は少しこみ入っているように見えますが、 その理由は主に、この公課規定内容の合憲的制定性を確保するための規範原則そのものが、厳格憲法解釈によって、前もって合憲限定的に検討されていなけばならないという、いわば憲法適合的な解釈要請が、入れ子状の多重構造になっているからです。つまり、
この保険料公課を定める国保法81条はどのように規範拘束されているのか、その拘束性についての憲法適合的な厳格解釈が(α)においてまずなされます。そしてそのうえで、これを規範的な解釈枠組みとして、この解釈に準拠した公課規定の規範原則が(β)として導かれます。そして最後に、公課規定の実体的な内容が、この規範原則(β)に準拠しつつ具体的に法令制定されることによって、その規定は最終的にLR(y2)として、憲法適合的な法律法令として制定されうるという展開になるわけです。保険料公課規定内容の、合憲的な制定根拠性を支える規範原則の探求そのものが、合憲的、憲法適合的に、厳格憲法解釈に則り行われ、獲得されなければならないのです。
したがってまた、国民に義務を課したり、権利侵害的な規定性としてある、特定の政令について、その政令がはたして、法律の留保としてLR(y1)/(β)によって根拠づけられているといえるのか、ということを確認しようとすれば、そのための検証作業も厳格憲法解釈によってなされなければなりません。
ここで以上に述べてきたことを整理し直すと、次のように言えるでしょう。すなわちこの法律、国民健康保険法は法の内容として、被保険者としての国民に対する保険給付の権利諸規定を定めると同時に、保険料としての公課の賦課、負担義務を定める法規定でもあります。そしてこの公課規定を制定するに際しては、その制定主体が国会であろうと、あるいは内閣であろうと、そのことにいささかも左右されることなく、この制定手続き作業は、この公課規定の法体系、および法源における包括的なあり方、被制定性が自ずと要請してくるところの「法規範的な要件性」において、この要件性に従いつつ、とらえられ着手されなければならないわけです。そしてこの要件性に制約された制定手続きの実体的なあり方そのものが、この規定の法的根拠制そのものの根源的な法的根拠となり土台となってくるのです。
ではその要件性とは何かというと、それは、この法律規定が“法律として成立している”ということを厳格憲法解釈的に言い得るために満たしていなければならない根源的な法的根拠性である、というふうに認識されてくるところのものです。それをここでは便宜的に、LR(y1)/(β)という記号で表したのでした。ところでこの公課規定の内容は現実には政令へと法令委任されたのですから、この「法規範的な要件性」は、内閣による政令の制定という“行政行為”を拘束規定する「法律の留保」という規範観念において概念把握される、という仕儀と相成るわけです。
つまりここにいう「法規範的な要件性」は、この法律規定が内閣へと政令委任された場合には、内閣の行政行為に求められる「法律の留保」という視点から捕捉されるし、国会自身による法律規定として制定された場合には、国会をその制定局面で拘束する厳格憲法解釈の要請という視点でとらえられるわけですが、これらの二つの視点はこの要件性をみる視角の違い、あるいは国家作用上のアプローチの違いに過ぎないのであって、この公課法律規定が“法律として成立している”ために乗り越えなければならない「法規範的な要件性」としては、まったく同一のものとして存立しているのです。両者は法的観念として実体的に同一のものなのです。したがって、たとえ法律の公課規定の箇所だけが政令に制定委任されたからといって、そのことがこの規定の立法要件性それ自体の解釈に変化を引き起こすようなことは決してあってはならないのです。議会が行うことの許されない立法作業、仮に行おうとすればストップがかかるような立法を、内閣(省庁)が行うぶんにはすんなりと通過し、法律附則令として成立してしまうというようなことは許されないし、あってはならないのです。
では以上のことをふまえて、国会がおこなったであろう厳格憲法解釈としての公課法律解釈(国保法81条)とは、実際のところどのようなものだったのかを、考えてみたいとおもいます。すなわちそれは、(α)においてLR(y1)の内容を求めるという作業です。
まず第一に推定できることは、立法者はこの法律、国民健康保険法を単独の法律として制定したのではないということを、十分に自覚しているであろうということです。この法律が、ある特定の社会的条件を満たした人々のためだけに、単独立法的に制定されたものではなく、国民皆保険制度という包括的な法源に基く、斉一的な公的医療保険給付制度のひとつして、法源根拠的に法律制定されたものである、ということを国会は、この法源の制定者として当然、熟知しているはずです。したがってまたこの法源が、二つの法律をとおしてそれぞれ付与する医療給付権利の側面において、保険者と被保険者を公平、平等にとりあつかっていることも了解事項でしょう。そのように公平な給付権利を両者に付与したのは、立法者自身であったからです。さらにまた、この公課の賦課徴収を、地方税に準拠して、租税処分とすることを定めたのも立法府自身ですから、この徴収方法の形式がどのような法規範性、法原則をこの公課に及ぼすべきものであるかについても、当然これを十分に認識しているはずです。そしてすなわちこれらが、立法者を(α)において拘束している法規範的状況の実体内容であり、この状況に準拠することよって、LR(y1)は(β)として導かれます。
つまりこの公課にどのような立法政策を採用するとしても、これらの法源的な諸規定性が状況として、すでにこの公課を制約している、ということについて、立法府は当然これを熟知し、この制約性に背くような内容においては、公課規定を定めることができないことを認識しているはずです。ではその制約性の内容とはなにかといえば、この公課規定がどのようなものでれ、その規定は法律横断的に、保険者公課との間に水平的な平等性を満たすようなあり方で、定立されていなければならないということです。保険者もまた、被保険者と同一の法源に準拠する公的医療保険給付制度に包摂され、被保険者と同一で公平な給付を、被保険者と法源を共有する法律によって制度享受しているからです。また、憲法14条は、法適用の平等にとどまらず、「立法権をも拘束する法内容の平等を意味する」(樋口陽一)ものですが、一方では給付権利の水平的平等性を法律として規定確保しながら、他方、その権利の反射としての公課義務においてはこの水平的平等性を破る取扱いを法規定するということは、明らかに憲法14条に反しているからです。もし義務の側面における水平的平等性を立法者が確保しないとすれば、国民代表機関としての国会が、国民を差別的に取り扱うことになり、あきらかにそれは平等原則に反するものです。
以上を要約すると、この保険料公課規定は、給付権利規定が法源的公平性を具備しているまさにそのようなありかたで、法源的公平性を実現していなければならないということです。そしてこの規範制約こそが、厳格憲法解釈によって導かれたLR(y1)の、この法的事案における個別内容(β)であり、この政令を政令内在的に規範拘束する規範原則、憲法適合要件に他なりません。すなわち(β)の内容とは、この公課規定の制定局面において、その立法者に差し向けられる平等な取扱いの原則、平等原則に他なりません。
そしてこの規範原則の拘束性は、立法府のみを単独的に拘束するものではなく、法令の制定者がたとえ立法府から行政府へ移転したとしても、その拘束性を同一のまま維持、発効し続けます。なぜなら法律の立法行為を、その根底において規制するところの憲法適合要件性とは、法律としての立法行為は言うに及ばず、行政過程、さらには司法過程におけるそれらの解釈や処分、審査局面においても立法府と同じように、これらの分立権力主体を等しく厳格拘束すべきものだからです。
では現政令は、上に述べたようなありかたにおいて、LR(y1)/(β)によって規範拘束されているといえるでしょうか。
訴状において実証的に立証したように、保険者が帰属する共済保険料と国保保険料のあいだには、最大で5倍にも及ぶ応能負担の格差が存在しています。であればこの政令が、保険数理的な側面でどれほど合理的な根拠性を主張しえても、法源的な公平性という規範原理を現に賦課側面において実現してはいない以上は、保険料原処分の法的根拠としてこの政令は、LR(y1)/(β)による規範制約を欠落しているといわざるをえません。したがって、現政令は(ロ)によって制定された政令とはいえず、LR(y2)としての法律の根拠、法律の留保でもありえません。
その公課規定が、現に保険者との応能負担公平を実現する根拠たりえてないとすれば、この政令を、法律として保険料処分のあるべき根拠規定とみなすことはできないのです。 現政令が保険者との公平な公課規定の根拠たりえていない以上は、この政令が、法律の内容として、法律の根拠として、国保保険料の根拠規定たりえていないことはあきらかです。
重要なことは、政令という根拠規定がまずあって、その規定を適用する結果として公平性が実現されたり、されなかったりするということではないということです。そうではなく、公平性という価値は、ここで法源に基づく規範的な要請命題として、政令立法者の前に、その授権に先立って、法律において要請されているということなのです。
いうまでもなく、もし立法府がこのような公課規定を法律として採択し、これがこの格差的な保険料処分の根拠規定となるのであれば、それは直ちに、議論の余地なく、違憲立法となるでしょう。
二つの公課規定法律は共通の法源を根拠とすることによって、同一の法的平面上に立法されるわけですが、給付権利における水平的公平性が、すでに法律間で法源根拠的に確保されているところに、合理的な理由なく、格差的な公課規定が持ち込まれるということは、給付権利の公平性そのものを毀損することにほかならず、法内容の平等を打ち壊すことだからです。
もちろん法律として憲法適合しない法令が、政令としては合憲であるなどということはあり得ません。政令が法律の内容としてある限り、それは法律の法令制定行為として、法律としての規範水準、法律としての憲法適合性において成立しているべきものです。法律の法令制定行為として成立するということは、立法者である国会を拘束する法規範、法原則に従い、その圏内において立法するということです。したがってもし、政令がこの意味における法律の根拠、LR(y1)を欠けば、それは法律の内容規定としてあるための要件を欠くのです。
現政令が単に法律委任政令であるということによって、法律としての、憲法適合要件がわずかでも緩和化されるというようなことは、断じてあってはならないことです。また政令が法律の内容としてあるという、その法令様態側面における形式的な根拠性、LR(x)は、政令の法律法令としての実体的な合憲要件性を保障するものでもないのです。
それゆえ、国民の権利義務に関わる法律規定内容の立法過程において、この立法行為が立法府から行政府へと委任されるというその一事をもって、もし立法内容における憲法適合制約上の被拘束性が変質するのであれば、内閣法11条は、事実上、“ザル法”に堕したも同然です。否、ザル法より悪質です。なぜならば、11条はもともと、政令に義務的法令の制定を禁じる趣旨内容としてあったはずですが、そこでは11条の「政令には、法律の委任がなければ、義務を課し、又は権利を制限する規定を設けることができない」という制約的規定の裏面の読みとりから、法律の委任を媒介することによって、政令に義務法令の制定を許し、しかもこの制定過程では、行政府による法律解釈のもと、法律の合憲限定解釈の解除、解体が起こってしまっているからです。そしてその結果として、委任政令の名の下に、脱・憲法適合解釈的な義務法令が制定される、というなしくずしの、いわば合憲原則の決壊的な状況とでもいうべき事態にまで進展したからです。しかし内閣法11条が政令から原則として、国民に義務を課す法令を除外したその立法目的のひとつは、立法府による主権者代表意思を確保することによって、義務規定の規範内容が、厳格憲法解釈によって、憲法適合的に成立することを、ゆるぎなく確実にするためであったからではないでしょうか。
たとえ内閣法11条が、委任政令に義務的法令の制定を許すとしても、そしてこれに伴って行政府の裁量判断がそこに反映されえるとしても、そのことは決して、法律としての合憲要件性の緩和化のもとにこれを法令制定しうる、ということの許諾根拠とはならないのです。内閣法11条を、そのような免罪符的なはたらきにおいて行政府に使用させてはならないのです。
現政令の図式化
では以上に述べてきたことをふまえ、現政令は法令としてどのように図式化しうるでしょうか。
単純に考えれば、現政令は(ロ)からLR(y1)が欠落したものですから、(イ)から(ロ)へと進むことなく、(イ)の状態にとどまり、(イ)の状態で法令制定されたものとして、次のように表せるはずです。
( LE + LR(x) → G ) → S (ハ)
しかしながら、このように表すと、内閣は(イ)から(ハ)へと無時間的、無媒介的に政令制定へと進んでいったかのように理解されてしまいます。しかしでは、現政令と(ハ)を、実体的に同一であるということはできるでしょうか。内閣は、政令がここで国民に義務を課す、侵害的な法律の内容規定としてあることを認識しているはずであり、そのような法律の内容としてあることの規範的な意味を十分に理解しているはずでしょう。であれば、この法規の制定がLR(y1)によって拘束されていることの了解性も前置されているのです。とすれば内閣が(ロ)ではなく、(イ)において政令を制定するということは、内閣がLR(y1)を欠落した状況を選びとることによって、すなわち白紙委任としての委任状態を選択することによって、政令を制定するということにほかなりません。
そして政令としての法令制定権が内閣に帰属する以上、内閣がそのようなありかたで政令を制定することは可能です。もちろんそれは、「法律の留保」に対する不作為として認識されるべき法行為ですが、ここで制定者の動機や意図を推し測る必要はなく、(イ)を起点として法律の委任を受けた内閣が、LR(y1)に対するひとつの関係性を選びとることによって、その結果として、政令を制定したことを確認すれば十分です。それはもはや、単なる原初段階としての(イ)ではなく、内閣によって選択された政令の制定方針としてあるのです。それゆえ現政令は(ハ)とは区別して、たとえば、次のように表されるべきでしょう。
( le + lr(x) → g ) → s(b) (ニ)
ここで小文字を使うのは、この過程が(イ)ではなく、(ロ)に対応する政令の制定段階として
あること、さらには内閣によって自覚的に選びとられた、非・合憲限定解釈的な制定として
あることを識別するためです。
このようにして現政令がS(a)ではなく、実体的には、s(b) としてあるということが明らかになったわけですが、実際には(ニ)においてs(b)として制定された現政令を、保険者がもし、あたかもS(a)であるかのごとく、公課規定の規範的法律根拠として主張するとすれば、国民の目を欺くものでしょう。法律と政令の関係をめぐる、このような逸脱的、恣意的な“読みかえ”は、「法律の委任」を媒介した、まさにひとつの、“解釈水準における統治的戦略状況”の劇的展開というべきものです。それは、政令が法律の内容としてあるということの実体的、規範的な意味を、行政府が法律と政令の規範関係構造を読みかえることによって、つまり政令の本来あるべき実体的ありかたを、その規範的被拘束性を骨抜きすることによってもたらされたものだからです。それゆえ内閣法11条が、政令の規範的読みかえにおいて果たしている、あるいは果たさせられている戦略的な役割は決定的であり、めざましいものです。
というのも、11条はその半面においては政令に義務規定を禁じながらも、もう半面では条件付きでこれを許す、という両義的な意味性としてありますが、11条によって国保保険料の公課規定を政令制定した内閣のそのありかたを、11条を制定した立法府の政令禁止的な立法趣旨、立法目的において照らしみるとき、この立法側面の本来の趣旨、目的は、そこで国保現政令の実体的なありかたによって、完全にくつがえされてしまっているからです。これは、11条がまさに法律の委任なしでは政令に容認しなかったこと、つまり政令が法律に準拠することなく、独断的、自主的に義務規定を制定するというまさにそのことが、法律の委任を介したにもかかわらず、現政令による公課規定において生起したということにほかなりません。否、委任を介したにもかかわらず、ではなく、まさに委任を介することによってというべきでしょう。すなわち、義務規定をめぐっての11条の政令禁止的な立法趣旨に真っ向から抵触するような政令制定様態が、同じく11条の裏面に伏在する委任政令容認的規定側面を根拠として実現するという、立法規範的矛盾に満ち、かつアイロニカルな反転状況として現象しているわけです。
ただしここにみる“解釈水準における統治的戦略状況”の展開過程は、上にも述べたように、わたしたちが政令を、所与の静態的な法規範として、無批判、無思考に受け止め、政令イコール法律という素朴な思い込み、受容にとどまる限りは決して認識されえません。政令を行政から与えられた法令として鵜呑みにするのではなく、「法律の委任」と「法律の留保」の緊張的関係性の枠組みのなかで、動態的に生成する立法過程としてとらえた時にのみ、さらには法源とふたつの根拠法の関係構造、行政行為の憲法原則的な制約性などなどを包括的、立体的、有機連関的に把握したときのみ、LR(x)と
LR(y1)のすりかえを、あるいはLR(x)の不当な拡張解釈を見抜き、認識できるのです。
(この公課規定政令がその実体的な法効果として、国民経済に及ぼす実体的な作用をべっ見すれば、法律の委任を介して、行政府によって行われた内閣法第11条の規範転覆的な読みとりに基づく政令解釈が、決して単なる机上の法律論議にとどまるようなものではなく、いかに巨大な負の実体衝撃を社会全体に与えているか、その法的効果作用は文字どおり、わたしたちの想像を絶するものです。)
予想される反論への反論 1
さて現政令に対する以上の批判に対して、保険者および裁判官はそれでもなお、現政令が法律の根拠に基づき、法律の内容として成立している、法律に正しく準拠している、と反論するかもしれません。では、そこでいわれうる「法律の根拠」の内容とは、裁判の審理のあり方を振り返ってみたときに、どのようなものとして考えられるでしょうか。
そうすると裁判所は、裁判の全過程を通じて、国保保険料が租税処分されていることについても、さらには保険者と被保険者が、国民皆保険制度によって、均一の給付権利を共有する法源拘束的存在者であることについても、一切の言及を避けたのでした。国保保険料が法制度としてそのようにとらえられていた以上は、裁判所がたとえ、現政令が(ニ)ではなく(ロ)であり、LR(y1)としての“法律の根拠”に基いている、という主張を行うとしても、当然その根拠性からこれらの制度側面は除外されるべきでしょう。そこでは立法者によって規定されている、法的客体概念としての国保保険料が、そもそもこのニつの側面を欠落しているからです。
ではその場合、現政令において主張されているLR(y1)としての“法律の根拠”性は、厳格憲法解釈の視点からみて、どのような制定性においてとらえうるものでしょうか。現政令が(β)としてのLR(y1)たりえているか、ということを(α )の視点から検証するとどうなるでしょうか。
そうすると、たったいまみたように、一、ニ審判決では、保険料現処分の租税性および給付権利事実の均一性が、公課規定としての国保法81条を拘束する根拠内容から除外されてとらえられているわけです。「除外されている」という言葉が表現として強すぎるとしても、これらについて裁判を通して、ただの一度も審理言及されていない以上は、「少なくともこれらが争訟論点において、適切に考慮され、配慮をはらわれたとみなすことはできませんよ」、ということはできるでしょう。
さてしかし、ここでわたしは、根源的な疑問にぶつかります。すなわち、荒川区および原審判が提示すると推定される国保法81条の、その法律法令としての根拠性および被制約性を規定する規範的側面が、租税性および法源的給付権利の均一性を欠落しているのであれば、一体どのようにして、そのような非規定性においてとらえられた国保法81条の、その附則内容としての保険料公課規定政令が、(α)のもとに、国保法81条を厳格憲法解釈した結果として導かれたものである、といえるであろうか、という疑問です。というのも、租税性と給付権利事実の均一性は、この公課規定制定局面で、立法府がその厳格憲法解釈において考慮しなければならない、最も重要で客観的な立法事実であり、そうである以上は、行政府において、この立法事実側面を除外して制定されたとみなされる保険料公課政令の、その法律根拠性LR(y1)が、(β)において成立していると認証することは、もはや議論の余地なく不可能であるからです。
そして事実、わたしたちが目にする現政令は、わたしたちがそうあるべきである、と考えるところの法律の根拠によって、つまり平等原則としての(β)によって、根拠づけれられてはいないのです。
以上の主張に対して、あるいは裁判官は、この政令の法律準拠制定性 ― 政令が法律の趣旨、原則において正しく制定されているという被制定性 ― の審理において、厳格憲法解釈を適用することそれ自体を斥けるかもしれません。しかしここでわたしは原処分が、単にある法令に形式的に従っているかどうかではなく、その合憲性を憲法第14条の視点から、根源的に問うているのです。憲法14条において合憲か違憲か、ふたつにひとつの決定的な選択問題として司法府に問うているのです。であれば、原処分の法的根拠としての国保政令の、その法律準拠制定性の適否問題は、例えばこれを単なる政令制定手続の適理性水準によってのみ行うというようにではなく、原処分の合憲、違憲を問う、訴訟主旨の深度水準において問われるべきでしょう。第一そうでなければ、いかにして裁判官は、わたしの訴訟主旨に向き合い、審理し、答える(判示する)ことができるのでしょうか。
原処分を基本的人権としての平等原則において、その処分の実体的様態に即しつつ司法審理する際に、― とりわけ処分者と被処分者の法的規範関係において司法審理する際に、― 原処分における租税処分性と給付権利上の制度事実の均一性は、これらを規定する立法事実の客観的な制定状況から判断して、この保険料行政処分の憲法原則的被拘束性から除外することはできないのです。現政令は、はたしてそのような原則的規範水準でとらえられた制定性、LR(y1)/(β)において原処分の法的根拠たりえているか、ということがここで問われているからです。
加えて、より根源的な視点よりいえば、このような憲法原則水準における法律準拠制定性は、本件のような行政訴訟事件に関係なく、そもそもこの義務規定としての政令が、法律附則令として、あらかじめ満たしていなければならない、必須の法令制定要件であるということを、裁判官は肝に銘じているべきではないでしょうか。
仮に保険者や裁判官が、保険料原処分の租税性や給付権利事実の均一的公平性を排して、これら以外の別の制度側面において、現政令の法律準拠制定性をLR(y1)として主張するとしても、国保制度にかかわる公課処分の法的公正性、法的適理性を、国民皆保険制度という法源性から切断した地点でいうことは、司法的思惟、行政的思惟として不適切なものであり、本来のあり方から逸脱しています。なぜならそのような思惟は、国保法という法律と、その法源としての国民皆保険制度との法的関係性を恣意的、操作的に取り扱うものであり、司法的思惟、および行政的思惟としての公正性、客観性、中立性を失っているからです。
しかしそうすると、LR(y1)の内容として、どのような“法律の根拠”がかれらの手元に残るのでしょうか。まさか、租税処分が内包する強制的な執行性をもちだしてくるとでもいうのでしょうか。
一方では、保険者が租税処分する際の、処分の租税性への準拠を黙認しながら、他方、その根拠規定としての政令については、その法律準拠制定性の要件から租税原則拘束(租税公平の原則)を抜きさるということは、ありていにいって二重基準ということです。(二枚舌とまではいいませんが)
にもかかわらず司法府はここで、かくもご都合主義的、場当たり的にふたたび租税性の助けを借りるというような、そのようなあさましい正当化を試みるのでしょうか。いうまでもなく、行政府も司法府も説明状況に応じて、その都度、租税性という制度概念、法的規範性を、国民の前に出したりひっ込めたりするというようなことはできないのです。
このようにみてくると、保険者および裁判官が、 LR(y1)をどのように解釈しようとも、つまり公課規定としてのSの法規範的根拠をどのように主張しようとも、彼らの手元に残されているのは、公課規定の保険数理的な合理性根拠のみではないでしょうか。しかしながら、それのみによっては、この政令が白紙委任的制定ではなく、法律の内容として、国民の一般意思として成立しているということを、すなわち法律の準拠性、根拠性において成立していることを主張することはできません。なぜならば、公課規定の合理的根拠を構成する事実的諸命題から、この公課が保険者との間に水平的公平性を満たしている必要はない、という平等性の要請を否認する当為命題を結論として導くことは、
LR(y1)の厳格憲法解釈においてできないからです。租税処分、および法源的給付制度事実の均一性、照応性についての判断を回避しながら、「政令はかくかくしかじかのように、合理的に公課規定している、であるがゆえに二つの公課は公平である必要はない」、ということはできないのです。政令が法律の内容として、(β)の規範制約性のうちに成立すべきものであることを否定しない限り、そのような反論は成り立ちません。保険者が、いかに保険数理的な合理性、適理性を主張するとしても、それらが法的根拠性を獲得するためには、同時に厳格憲法解釈によって導かれた規範拘束要件を満たしていなければならないのです。
したがって、二つの保険料公課の間に何倍にも及ぶ応能負担の格差が存在しているという現実を、法規範的に説明しうるような”法律の根拠”として、保険者や原判決が現政令を説明することはできないのです。もちろん、二つの法律が立法目的を異にする、という荒川区の驚くべき主張に同調することによって、裁判官が区長とともに、このような比較の不当性を主張することはできます。しかし、そのためにはまず、これらの公課がともに法源としての国民皆保険制度に準拠しているという、その法源準拠性そのものを客観的に否定する必要があります。ただしいかなる司法権力、行政権力をもってしても、そのようなこと ― 公知の事実を否認すること ― は絶対に不可能でしょう。
現行政令の算術的な数理根拠が、ある根拠規定に準拠し、さらにはその根拠規定の合理性を証明することができたとしても、そのような合理性を根拠として、保険者との公平性が現に実現されていないという事実を合理化したり、正当化することはできないのです。
予想される反論への反論 2
現政令は依然として“法律の根拠”に基づいており、法律の内容としてなんらの問題もないという予想反論とは別に、現政令によってもたらされている処分格差は、根拠法律の制定状況そのものに由来するものであって、内閣の政令制定に帰すべきものではない、という反論も予想されます。
つまり、格差を伴う処分は内閣が政令立法を委任される以前に、二つの公課規定がそれぞれの法律で区分的に制定されている、という事実に基づくものであるから、もはや内閣としてこれを避けることはできない、という反論です。しかしながら、これら法律の区分制定性こそが公課格差の法的根拠であるという主張は、少なくとも二つの理由によって成立しがたいものです。
第一の理由として、この主張は客観的な立法事実に反しています。二つの公課間の著しい格差は、あくまでも行政法令、行政規定としての国保政令と共済の各公課規定に拠るのであって、法律条文に拠るものではありません。いかなる実体的な公課保険料も、法律条文それ自体からは、導出されえないからです。また公課規定としての政令が法律の内容としてあることは事実ですが、であるからといって、法律の政令への委任行為そのものが、政令のLR(y1)としての適理性、法律の内容としての政令の実体的な適理性を保障しているわけではありません。また、合憲性の推定を、法律に対してのごとく、行政法令に対しても適用することはできません。それは立法府ではなく、あくまでも行政府自身が、行政府の名において実現し、国民に証すべき問題事項なのです。
訴状でも述べましたが、租税公平の原則とは、なによりも処分における租税の実体的な賦課、科料において実現されていなければならないものです。そして現行の法律条文に基づきながら、現行の政令とは別異の公課規定、公課料率を設定することによって、法律横断的に公平な保険料処分を行うことは十分に可能です。その私案を訴状に書きましたが、優秀なる行政官僚の英知をもってすればはるかに洗練され、かつ合理的な規定が可能でしょう。内閣の総理によってひとたび、公平性という規範的枠組みを与えられれば、その達成は決して困難なことではありません。行政庁はその裁量的な政策判断を、あくまでもこの公平性という法規範枠組みのなかで発揮すべきなのです。
反対にもし内閣が、その法律解釈において、これら二つの法律を公平性の枠組みのうちにとらえることがなければ、大きく隔たった、別個の公課規定をそれぞれに附則させることは ― 二つの根拠法が実体的な枠組みを与えていない以上 ―容易なことです。行政庁にとってはそれが、もっとも安逸で、合理的、妥当な政策決定であるかもしれません。しかし、二つの法律をそのような関係性において解釈し、関係づけることは、それらをある解釈水準における“戦略的状況”として読みとることです。公平性の枠組みをあてはめないということは、それ自体が内閣の選択であり、判断なのです。そしてそのような解釈、すなわちLR(y1)を欠落した政令解釈は、法律の客観的な制定状況が要請する、事実水準における“戦略的状況”を反映したものではありません。国保、共済、二つの公課間の現行格差は、行政府が生み出した、解釈水準におけるある特定の“戦略的状況”によってもたらされたものであり、事実水準における“戦略的状況”としての法律条文、法律関係がもたらしたものでは決してないのです。
第二の理由は、法律条文の公課規定そのものが、格差処分の根拠にほかならないという法律解釈は、法律の憲法適合的解釈、あるいは合憲限定解釈として成立することはできない、ということであるからです。(2)
法律そのものに格差根拠を求めるということは、どういうことでしょうか。それは二つの根拠法が分離独立し、それぞれの法律に別異の公課規定が附則することをもって、格差根拠とみなすということでしょう。しかしながら、二つの公課規定が区分的に法律制定されているという事実をもって、格差的な処分の説明根拠とする場合においても、この格差処分と二つの法律の同一法源準拠性(立法目的共有性)や、給付制度事実の均一性との関連性を説明することなく、区分制定性を格差根拠理由とすることはできません。なぜならこの法律解釈においては、二つの法律が、それぞれの法律条文中に、同一の権利付与規定を定める一方で、同時にまた、二つの格差的な義務賦課規定を、この同一権利規定に対応させることとなるわけですが、そのような二様の権利義務関係は不可避的に、法律そのものが格差処分の根拠起源であるということになります。そしてそのような法律の制定事態は、ただちに、区分的な法律制定のありかたそのものが、憲法第14条の平等原則を侵害しているのではないか、「法律規定によるこの格差は、差別に他ならないのではないか」、という違憲立法の疑いを呼び起こさずにはすみません。しかも内閣はここで、区分的立法に起因するとされる格差処分の規範的整合性を、区分制定性という概念に依存することなく、説得力をもって合理的に説明できなければなりません。「区分制定されているにもかかわらず、両者は公平であるべきではないのか」、という疑義に答えなければならないのですから、当然ながら、区分制定性そのものをその回答理由にすることはできないのです。もしあえて区分制定性で押し切るならば、それは区分制定が格差的な処分のための根拠事由となり、差別的な公課賦課を目的とする区分立法は違憲となります。ゆえに区分制定性は、決して差別的な公課処分の法的根拠として解釈されてはならないのです。
しかしでは内閣は、二つの法律における同一の給付権利と格差的公課処分の関係について、これを公正で、憲法原則にも従う併存的法関係として説明しうるような、なんらかの実体的、合理的根拠理由を、これら法律の区分制定性以外に見いだすことができるでしょうか。「社会的、経済的に」人を差別してはならない、と定める憲法第14条を侵すことなく、これをなしうるでしょうか。
(そしてもしそのような理由が存在するならば、なぜ被告荒川区はその理由を、裁判において主張しなかったのでしょうか。それは原告の訴えを斥ける、最も強力で効果的な反論となったにちがいないからです。ただし国保と共済が「異なる趣旨・目的に基づいた制度」であるという主張(荒川区)は、笑止であり問題外ですが。)
このように法律そのものに格差根拠を求める解釈では、両公課の同一法源準拠性や給付制度事実の均一性、さらには租税性と、格差保険料とを論理的に整合させることはできず、制定法律が実体的な矛盾を抱えることになります。しかしながら本来は、立法府の制定した「法律を誠実に執行」すべき行政府としての内閣が(憲法第73条1項)、また「この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」「国会議員、裁判官その他の公務員」(憲法第99条)が、その法律を内部矛盾した、憲法原則に反するような意味内容において解釈する、などということはまったく条理を失した、憲法違反的な法律解釈ではないでしょうか。行政府は上にも述べたように、なによりまず法律を憲法適合的に解釈しなければならないからです。裁量的な行政行為、処分に適合するように、それに合わせて、法律を自分勝手に解釈するなどといういうことは論外なのです。
つまりこのようにして、法律の公課規定そのものに、あるいはその区分制定性に格差根拠を求めるような解釈は、憲法適合的な法律解釈とはなりえず、したがって内閣は法律を根拠理由として、格差的な公課処分の説明理由とすることは法原理的にできないのです。
(法律の区分制定性は重要な問題なので、区分制定性が決して、別異の格差的な公課処分の法的根拠とはならないということの、その理由については、別の視点から再度、厳格憲法解釈的に論じたいとおもいます。)
それゆえ内閣は格差処分の根拠、事由を根拠法律に押しつけることはできず、保険料公課規定を制定する内閣こそが、法律の正しい解釈に基づいて、公平、公正な政令制定を行う責任を有するのです。
小括
現政令の法的適理性について、いくつかの側面から論じてきましたが、ここで、高橋和之教授の著、『立憲主義と日本国憲法』から、「法律の留保」について書かれた文章の一部を引用したいと思います。政令についてここまで長々と述べてきたことが、ここに簡潔に要約されていると思うからです。(3)
教授は、明治憲法にまでさかのぼって、法律と「臣民の権利」の関係を説き起こしつつ次のように書きます。(“臣民”とは、国家の主権者を天皇に“いただく”明治憲法下における日本国民の総称です。)
「つまり、臣民の権利は、そのほとんどが『法律の範囲内』で保障されていたのであり、
制限には原則として法律が必要であった。 明治憲法について法律の留保を語る場合、
権利は法律によりどのようにでも制限しえたという意味で言うのが通常であるが、法律
の留保は、その裏面として、法律によってしか制限しえないという積極的意味ももっており、
立憲主義にとっては、法律の留保のこの側面の方が重要である。
明治憲法では、実は、権利は法律によってしか制限しえないという、この側面は必ずしも
保障されておらず、一定の場合には命令により権利を制限することも認められていた
(明憲9条・31条参照)。権利を制限する法を「法規」と呼んだことから、そのような命令は
法規命令と呼ばれたが、法規は法律によってしか定めえないという立憲主義の原理に
対する例外が認められていたのである。
しかし、日本国憲法は、かかる例外は認めていない。法規の定めは、すべて法律を必要
とするのである。ただし法律で制限の基本を定め、細部の定めを命令に委任すること(委任
命令)は許される。しか命令に委任する場合にも、法律で定めるという原則を形骸化するよ
うな広範な委任は許されない。」
法律によって、行政上で租税としての取扱いを定められたある公課処分が、委任命令を媒介することよって、租税原則を満たすことなく、処分者がこれを片務的に行政処分する場合、この命令は「法律で定めるという原則を形骸化」しています。「制限の基本」を逸脱しています。そして租税の公平原則をみたすことなく、租税制度を行政政策上の単なる便宜手段として用いることは、一点の曇りなく、憲法第14条違反です。「制限の基本」、「法律の原則」、はここで、法源を共有する二つの法律、国保法と共済法の“規範的関係性としてある”、“規範的関係性として成立している”、ということが押さえられていなければならないからです。
もし行政が、法律の区分制定性を根拠理由にして、同一法源に由来する、同一の義務的、権利侵害的行政処分行為で、二様の、格差的な取扱いを行うとすれば、たとえその処分が処分を規定する政令に準拠するものであっても、その処分政令は法律に正しく準拠したものということはできず、その行政行為は法律の根拠をもつとはいえません。
(なお上記の図式に当てはめていうと、「法律で定めるという原則」とは、国保法81条に附則する政令の制定性の根拠を、“81条の(α)において厳格憲法解釈し、その結果を(β)において求めるという法行為”、といえます。)
法律も政令もともに法令です。 両者をこの法令という共通項でくくり、しかも同一平面上に、“附則”関係としてとらえる限り、法律の政令に対する制約性、拘束性が意識の表面に登ることは困難でしょう。しかし政令が法律に附則するということは、附則することにおいて、政令が法律に制約され、法律に準拠し、法律の規範的内容としてある、LR(y1)/(β)においてあるということを直ちに意味するものでも保障するものでもありません。政令法令によって最終的に実体化された法律法令が、法律として憲法原則に適合しつつ成立しえなければ、その政令は法律に附則すべき規範内容として制定されていないのです。それゆえ、「法律の留保」の実体的な内容、働きを問うことなく、単にその法令が政令としてあるという一事をもって、政令条文に法律としての法的根拠を見いだしてしまう、「法律で定めるという原則」を付与してしまう、というような転倒した短絡的思考を、主権者たる国民は決して受け入れてはなりません。
政令が違憲であるのか
さて、国保保険料の根拠規定として今みる政令が、法律の内容規定として成立するための法的拘束要件、LR(y1)を欠き、したがって保険料処分にとっての“法律根拠”、LR(y2)たりえていないということを、ここまで述べてきました。しかも格差処分の法的根拠を、法律そのものに求めることもできないわけです。
そうすると、この現行政令こそが憲法違反なのだ、と考えるべきでしょうか。現政令がLR(y1)としての、法律の留保、法律の根拠によって根拠づけられていないということは、少なくともこれが、根拠規定としての実体的適理性を欠落している、とはいえるでしょう。
そしてこの政令が法律の附則令としてあることによって、保険者を法的に拘束していることも疑いを入れない事実であり、保険者がこの政令に従いながら、同時に保険料公課の公平性、平等性を実現することは非常に困難でしょう。そのように考えれば、この政令こそが公課格差の主なる原因である、とみなすことが当然の帰結であるようにもおもえます。
しかし公平性とはなんでしょうか。社会経済的、政治的事象に限定していえば、公平性という概念は、必ず二人以上の人間のなにかを、あるいは二つ以上の事象のなにかを比較し、衡量することによって初めて存否をいうことのできる、なにかとなにかの関係性についての規範的価値概念です。自然的、偶然的事象概念ではなくて、公平であらねばならないという規範的事象概念です。さらにはまた、公平な関係性が実現されているためには、一般的にいって、そのような関係性を統制するなんらかの主体の存在と、その統制作用、あるいは作為的な働きかけが、前提として要請されるでしょう(もちろんそれは規範関係性を媒介した、自己統制的な価値実現を排除しませんが。)
公平性という関係的な価値が、例えば、社会的に異なる二つの人口集団の、それぞれ異なる数理的根拠に準拠した、二つの異なる保険料公課規定の算出結果として偶然的にもたらされる、などということはありえないことです。一体だれがそのようなことを期待するでしょう。
他方しかし、もう一歩踏み込んで、これらの公課が社会的制度として、同一法源に準拠するという事実に着目するならば、これら二つの公課処分が、あくまでも単に異なる公課規定の算出結果として同一ではないだけである、という現象観察的な見かたも、皮相かつ不適切です。そこでは両公課にとってこの同一法源準拠性がどのような意味をもつのか、法源的拘束性において公平であるべきとはいえないのか、という根源的な問いが封殺されているからです。
それゆえ、二つの公課の規範的関係性という視点、およびこの関係性を統制する統治力学的状況を考慮することなく、一方の公課規定のみを取り上げて、そこに不公平の原因を求め、これを違憲であるということは適切さを欠きます。つまり社会制度上の概念として、公平性という概念が規範関係的、かつ統治的なものである以上は、たとえこの政令が、根拠規定としての要件を満たしていないからといって、それだけで国保政令のみを一方的に違憲処分の原因と決めつけることは、必ずしも“公平ではありません”。そのような判断は、関係的に思考することなく、もう片方の公課規定のありかたも、関係性を統制する主体の役割をも問うことがないからです。
もとより二つの公課規定はいま現在において、関係的な視点において制定されてはいないのですから、そのどちらかを基準に据えることは、政策論的にみても適切さを欠き、少なからぬ無理を生むものでしょう。また、内閣がLR(y1)の拘束のもとに、公平な公課規定を行うということは、必ずしも一方の規定を、他方の規定に対して適合的に改変させてゆく、という方向性で考えることを意味するものではありません。二つの根拠法の、法源に対する関係は同等であり、どちらか一方が他方の上位にあるわけではないからです。そのように考えれば、公平な関係性とは本来、二つの公課規定をひとたびは制定の原初段階、その振り出しに戻し返してから実現されるべきものでしょう。
(もっともこのような見方は、いわば第三者的な見方であって、保険料被処分者が現行制度上、原告という法的立場から、自らの権利救済を司法に求める際には、処分者としての保険者に対して、処分者の保険料との格差の解消を、原処分に即してより実体的、直接的な仕方で請求することができる、あるいはそうすべきであるという見かたも可能でしょう ― それを請求してはならないという法的理由があるでしょうか。
ただしそれは同時に、原告の求める処分の公平性の実現という法原理的な視点からみれば、二義的な手段選択の問題ともいえます。その実現を、原告がどのような是正措置において保険者行政庁に請求する権利をもつのか、あるいはもたないのか、という問題はそれとしてひとつの独立した法的問題ですが、その行政政策上の選択肢問題によって原告の求める平等権の要請問題が争点として曖昧化されたり、基本的な論点がずらされたりすべきではありません。争訟問題考察の焦点は、二つの公課が公平であるべきかどうか、という主題論点から決して逸れてはならないのです。)
いずれにせよ、ここで公平性の問題は、規範的関係性の問題としてこれを関係構造的にとらえる視点が必要なのです。
この頁続く
(1) これ以下の部分を含め、“厳格憲法解釈”という用語、概念は、内野正幸 『憲法解釈の論理と体系』
(日本評論社 1991)に負います。(同書に所収のここでの典拠当該論文は1985、1986初出)
無論この言葉の使い方は西に帰責します。いうまでもなく、ここで憲法学の一分野としての憲法解釈
学に分け入ることはしません。その能力がないことはもちろんのこと、原告にとっては訴訟趣旨の個
別問題を論じることのみが主要目的であり、その文脈過程で要請される限りにおいて、この概念をそ
の字義どおりの一般的な意味で使用できれば十分だからです。 なお、この概念が提起する憲法解
釈学上の論点を多角的に分析した論考として、下記論文も参照しました。
市川正人 『憲法解釈学の役割・再考-「厳格憲法解釈の意義と限界」』(ジュリスト No.884 1987)
(2) 「ある法令に、合憲的に適用される可能性と違憲的に適用される可能性がともに存する場合、一般に、
そのどちらの可能性をも法令の適用範囲に含める広い解釈(広義の解釈)と合憲的に適用される範囲
を以て法令の適用範囲とする狭い解釈(狭義の解釈)のふたつが可能である。広義の解釈をとれば、
その法令は何らかの形式で違憲と判断されるべきこととなる公算が高まるが、狭義の解釈を施して、
法令の適用範囲を合憲的に適用される範囲に限定し、違憲的な適用の可能性を封ずるという選択も
考えられる。これが合憲限定解釈といわれるものである。訴訟当事者たる被告人は、法令を違憲と
攻撃しても裁判所に受け入れられる見込みが低いとすれば、自分の行為は当該法令の適用の範囲
外にあると主張したほうが有利である可能性が高いし、裁判所にとっても、法令を救済することによっ
て立法府との衝突を避けることができるというメリットがある。 合憲限定解釈とは、このように、当該
法令を違憲と宣告することなく、その違憲的な適用の可能性を封ずる技術である。それは、法令の
違憲的な適用に伴う被告人の憲法上の権利の侵害の危険を減殺しつつ、法令の効力それ自体を
維持することによって立法府との過度の摩擦・緊張をも回避するための、広い意味で憲法判断の方
法のひとつである、とひとまずいうことができる。
だが、合憲限定解釈は、広い意味で憲法判断の方法のひとつであると同時に、法令の解釈方法の
ひとつでもある。したがって、合憲限定解釈には、法令の解釈として備えなければならない一般的要
件を充たすことが当然に求められる。具体的にいえば、法令の文理・趣旨から余りにも乖離した限定
解釈や立法者の意図に明白に反するような限定解釈は、いずれも、法解釈の限界を超えるものとい
わざるをえず、適法な合憲限定解釈が備えなければならない要件を充足していないと断ずるべきであ
る。」 蟻川恒正 『合憲限定解釈と適用違憲』 樋口陽一 編著 『国家と自由・再論』
(日本評論社 2012) 269頁
『合憲限定解釈』という言葉は、上記の引用文の説明にあるように、ある特定の法解釈のあり方を示す
一種の専門用語としてあり、このような解釈が選択される理由は、法令に「狭義の解釈を施して、法令
の適用範囲を合憲的に適用される範囲に限定し、違憲的な適用の可能性を封ずる」ことにあるわけで
す。つまり、審理に臨んで法令の適用範囲そのものを「合憲的に適用される範囲」に意味限定してしま
えば、その範囲外の事象については合憲か否かを問うこともない(憲法判断の回避)、ということがこ
の『解釈』で目論まれていることなのです。なおこの『解釈』は訴訟当事者によって選ばれることもある
わけですが、そのような場合でも、その選択が、違憲審査に対する裁判所の消極的な姿勢を予想した
上での対策としてあるものならば、その『解釈』は本質的に司法由来的なものというべきでしょう。
ところで、私を含め法律の専門知識を持たない一般の人間が、『合憲限定解釈』という言葉から思い浮
かべるであろうことは、ここで言われていることとはずいぶん離れた内容ではないでしょうか。おそらく
それは、裁判所が法令をある特定の訴訟事件に適用し解釈する際に、違憲判決をだすことによって予
想される立法部門との軋轢に委縮したり、法令に対する硬直的な合憲性推定に裁判官が呪縛される
こともなく、あくまでもその解釈が「合憲限定的」に行われるということを、そしてそのことのみに審判全
体が拘束されているような、そのような解釈状況として、思い浮かべるのではないでしょうか。
そのような委縮や呪縛などの心的な影響によって、法令の解釈や適用のあり方に恣意的な方向性や
意味的な加工が施されることは、まったく合憲限定的なこととは思われないでしょう。もとより合憲限定
的に法令を解釈することに広義も狭義もあろうはずはなく、いかなる作為的な意図も排除されているべ
きだからです。
しかし、“法律専門用語”としての『合憲限定解釈』はこれとは大きく異なるものです。それはなにより、
合憲性についての判断を回避するための操作的な解釈方法を指していわれているわけです。
とすると、『合憲限定解釈』という語は、憲法96条の命ずる厳粛な要請において裁判官の思惟を拘
束する規範的解釈というよりも(あるいはあるだけではなく)、むしろ法律そのものを防御することを
主目的として動機づけられたところの法解釈の、その解釈の“為にする”憲法解釈行為を修辞的に
描写する言語表現のようにさえ見えてきます。(“自己弁護的に描写する”とまでは言いませんが)
ただし数ある訴訟事件のなかには、次のような予想外の事例が発生することがあるかもしれません。
つまり法令が、神ならぬ人間の作り上げた規律規範であることの帰結として、その制定時には想定
していなかった状況に遭遇することで、違憲的とみなさざるを得ないような法作用を結果として生み
すに至る、というような事例です。そのような場合に、そのようなたったひとつの事例を根拠にして法
令そのものを包括的に違憲と判断するのではなく、『合憲限定解釈』を施すことで「法令を救済」し、司
法的解決の道を別の法理に探る、というようなことが選択肢として検討されるわけです。このような場
合において、「適法な合憲限定解釈」は十分に成立可能なものでしょう。
無論そのような事例においてさえ、蟻川教授が述べるように、「法令の文理・趣旨から余りにも乖離し
た限定解釈や立法者の意図に明白に反するような限定解釈」は、容認されえません。そしてなにより
もこの『合憲限定解釈』の採用において広く国民や社会一般の側における正当な、守られるべき権利
がしっかりと擁護される、確保されるということが貫かれていなければならないでしょう。そのことがない
がしろにされたままで、法令の違憲性判断の回避のみが自己目的的に優先されてはならないことはい
うまでもありません。
いずれにせよ、私が充分な学習と理解を経ることなく、短絡的に『合憲限定解釈』について否定的なこ
とを一般化して述べるのは賢明ではないでしょう。少なくともこの『解釈』が有効であり、適切でもある
ような事例がひろく認知されているからこそ、このような意味限定的な語として定着しているのでしょう。
「合憲解釈のアプローチは基本権の保障に消極的な態度であると一般的に論決してはならない。
(中略)
法令についての最高裁の合憲判断は事実上の拘束力をもち、最高裁も一般には先例を容易に
破棄しないから、下級審としては、正面から違憲判断を下すよりも合憲限定解釈に訴える方が
結果的には人権擁護に役立つことが考えられる。」 (佐藤幸治 樋口陽一編 『憲法の基礎』
(執筆は佐藤) 青林書院新社 1975 236頁)
このような指摘には十分な合理的根拠があるのでしょう。 しかし他方、我が国が司法権力の分立
と民主制の統治原理を採用する欧米諸国と比べたときに、法令違憲判決の異様に少ない国である
ことも、否定できない公知の事実です。そのことは果たして、「適法な合憲限定解釈」とどのような表
裏関係にあるのでしょうか。なによりも、国民の基本権は本当にそれらの『解釈』局面で常に、実体
的に擁護、保障されていると言えるのでしょうか。私たち国民はどこまでそのことを了解し、納得した
うえで、その解釈を受け入れていると言えるのでしょうか。
話が拡がってしまいましたが、私がここで強調したいことは、ずっと慎ましやかなことです。
それは、『合憲限定解釈』という言葉がいかなる法曹界の“専門用語”として使われようとも、私たち
国民はそのことに少しも気兼ねしたり、気後れすることなく、この語をその本来の語義において堂々
と使用できるし、使用すべきであるということです。
もちろんそれは広義でも狭義でもなく、「合憲限定」という規範要請の徹底化としてのみ了解される、
そのような語義においてです。これは、「合憲限定解釈」というような根源的な法的観念を表す語が、
特殊の文脈意味性を帯びることによって法曹関係者に使用専有されているような社会は、決して法
一般が健全に機能する市民社会とは思われないからです。またそうすることによってのみ、或る『合
憲限定解釈』が、「適法な合憲限定解釈」と言うことができるのかどうかを、その解釈が真に“合憲限
定的な合憲限定解釈”であるのかどうかを国民自身が問い、判断することができるからです。
(3) ただし、一市民としてのわたしには、この法律を違憲という権利があります。わたしは憲法99条に縛
られないからです。なお、そのような訴訟趣旨の裁判はこれまで起こされていないようですが、そのこ
とは法曹界を含めて、むしろこの社会の知的不活発さの現われというべきことではないでしょうか。
他方しかし、法律をあくまでもその合憲限定解釈において解釈することが、結局のところ、法律をして
わたしたちの基本権を擁護せしめる、最良の選択であるとも考えられます。
(4) 高橋和之 『立憲主義と日本国憲法』(有斐閣 2005)109頁
2012年12月12日 西秀樹
この一冊 7
多くの作品が翻訳されている、ジェーン・カブレラのこの絵本は未邦訳ですが、言葉を読む必要はほとんどありません。
Jane Cabrera
“The Polar Bear and the Snow Cloud” 2002年
