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法規範を分類して表す用語のひとつで、“組織規範”ということばがあります。これはおもにお役所など、法共同体の組織としてのあり方に関わる規範の総称で、組織の構成および組織に帰属する権限の範囲などについての定めとおおまかに定義できます。また一般に法制度の枠組みについて定める規範でもあります。たとえば、内閣が法律の委任によって、法律の規定を政令という法令形式において制定することができるのは、憲法が73条で内閣にこの権限を授けているから(授権しているから)です。そうするとこれは、内閣という国家組織が有する権限であり、内閣の組織規範のひとつとして認識できるわけです。

組織規範という概念、視点は、憲法という法典範そのものにも適用できるでしょう。憲法は国家の原則典範として多面的、重層的な規範性 − 国家機関に権限を付与する授権規範であり、かつ国家行為を制約する制限規範でもある − をもちますが、日本という国をひとつの統合的な政治組織体としてみれば、憲法は日本という国家組織全体を規律する組織規範としてとらえることもできるわけです。もちろん憲法の最重要の規範側面は、統治権力を制限し、国民の人権を擁護保障することにありますが、それを憲法は、組織規範による国家権力の分権的統制によって実現しようとしているのです。すなわち憲法は国家組織を議会、内閣、裁判所というふうに分権的に構築し、各組織機関の権限配分や責務についての規定を定めます。そして日本という国家に憲法という組織規範を与えたのは、いうまでもなく主権者たる国民です。
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ところで憲法はその96条で国会に対し、一定の条件のもとに憲法改正を発議する権限を与えています。そうするとこの権限は、憲法が国会という組織機関に付与した憲法のあり方そのものに作用する権限であり、その権限は国会の組織規範としてあるわけです。そして96条が付与する憲法改正発議の権限は、同時にそこで国会が守らなければならない法的手続きのあり方を定めてもいます。

これを憲法が憲法の取扱いについて規定する条項として見れば、96条はいわば“自己言及的な”憲法条項としてあるとも言えるでしょう。つまり、「わたしを改正しようとするならば、このような手続き、手順で行うのですよ」と定めているのです。憲法96条は国民が憲法を改正する際に、その改正行為における国家組織機関の権限のあり方や手順方法のあり方を定め、制限する規定なのです。

それだけではありません。憲法96条は憲法を改正する際の、その手続きについての規定であるわけですが、96条それ自体が憲法の一部として制定されているわけです。それゆえその内容を改正しようとするならば、立憲主義の原則によって、当然そのこと自体にもこの規定は及ぶべきものでしょう。その行為はまさに憲法条項(96条)を改正する行為だからです。そして96条はまだ生きているからです。いまだ改正されず有効だからです。
つまり、「わたし96条を改正するならば、そのときも必ずわたし96条の規定で改正するのですよ」ということを指示しているのです。

では憲法条項の一部を改正しようと望む政党的集団が、その目的をより容易に実現するためにまず憲法96条の改正に着手し、憲法改正の手続きの条件を緩和化しようと試みるとしましょう。わたしたち国民は、このことをどのようにみるべきでしょうか。
もちろん憲法96条が議会に憲法改正を発議する権限を与えている以上、96条に従いつつ議会がこれを行うことに法的な問題はないでしょう。しかしこれを、そのようにして、単なる法的手続きの観点からのみ論じることは適切なことでしょうか。これについて考えてみます。


憲法96条改正の論点とは、96条が憲法改正発議の要件として議会に課す三分の二以上という数値基準です。そして衆参の両院議会で三分の二以上の賛成を獲得することは、憲法の改正を望む政治家、政党にとっては決して低いハードルではないでしょう。しかし“憲法の改正”ということがらの重大さによくよく考えをめぐらせば、発議のための議決のあり方に対し、一定の質的な水準が要請されているとしてもそれは道理に適ったことではないでしょうか。つまり単に議決して結論をだせばよいというのではなくて、議決そのもののあり方に対して、一定の“品質”が同時に問われているのではないかという視点です。 憲法の改正とは、たとえば、あるマンションの住民自治会がその会則の決め方を変更する、というようなことと同日に論じることはできないはずである、とは言えないでしょうか。

しかし他方では、「憲法改正の賛否は、国民投票によって最終的に決定されるのだから、その前に行われる議会での採決は三分の二ではなく、過半数をもって決めてもよいのではないか」という意見もあるようです。これはもっともな考えのようにも思えます。
また、「現行の三分の二以上という規定は、制定者がなるべく憲法の改正を実現しにくくするために設けたものではないか」というふうに解釈する人もいるようです。これもひとつの見方でしょう。しかしこのようにさまざまの意見があるとしても、最も重要なことはこの規定が、議会による憲法改正の発議のあり方に対して、実際にどのような作用を及ぼすものと考えられるものかということでしょう。

そうすると、国民投票による最終判断はさておき、それ以前の問題として、もし議会が国家の基本的な政治原則や、国家行為を規律する根本規範としての憲法原則を改正しようと望むならば、かろうじて国民代表の半数を超える議員が賛成するという程度の賛成水準のあり方によってではなく、国民代表の大勢が同意し、賛成できるような水準での原則同意性にいたるまで議会が討議を深め、しかる後にこれを国民の採決に委ねることが、国民に対する議会の責任ある行動ではないか、というふうには言えないでしょうか。
というのも、もしその議決が議会の大勢によって賛同されていなければ、それを十分に国民代表議会の責任と総意を反映した議決とみなすことはできないからです。そしてその大勢を現憲法は、三分の二以上という概念によって指定したのではないかという解釈です。

そして憲法96条のこの規定は、憲法が国会に与えた改正案発議の権限規定であると同時に、憲法制定者である主権者国民が、憲法制定のあり方について定めた規定性として、より大きな、そして根源的な枠組みのなかでとらえられるべきものでもありましょう。
言い換えると、現行の96条が求める三分の二以上という数値要請それ自体が、憲法の改正に臨む衆参の国民代表議会に対し、三分の二以上の決議に到達すべく改正条項を熟議し、掘り下げ、練り上げてゆくことを、またその到達に要する労力と忍耐を、組織規範の定めにおいて求めているのです。そしてそのような過程をへて議決されればこそ、議会の改正案は、憲法典範の有すべき理念性と一般性の水準に到達し、また国民にとっての“福利”や“公共の福祉”とよりよく整合もし、主権者である国民に提示されることとなるのでしょう。

一例をあげると、自民党の憲法改正案では、現行の憲法13条から「公共の福祉」という言葉を削除し、同箇所に、「公益及び公の秩序」という言葉を新たに使用しています。すなわち、「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。」という条文を、「すべて国民は、人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されねばならない。」に改正しようというのです。
そうすると、国民の権利を、「公共の福祉に反しない限り」において尊重するという現在の条文は、「公益及び公の秩序に反しない限り」において尊重するというふうに変わるわけですが、その結果として、権利の尊重される実体的な範囲が著しく不透明に、また予測不能になるように思われます。

「公共の福祉」も「公益」のひとつであることはたしかでしょう。しかし憲法13条は、個人の権利に「公益」という大きな網を打ち投げて、一気に頭から制限しようとするのではなく、かわりに「公共の福祉」というより平明な言葉を用いて丁寧にすくい上げようとします。つまり、個人の権利が制約され得るような根拠となる理由を、「公共の福祉」という「公益」観念をより絞り込んだ、− “人権の間の調整原理”とも呼ばれますが − そして社会全体として私たちがその内容をより容易に理解納得し、合意到達しやすいような社会的価値、判断基準によって規定しているのです。
これに対して、「公益」という言葉による条文規定では、「公益」という語の意味規定性が相当ゆるやかであるために、ややもすると、この言葉を使用する行政主体が多様な政策的価値や意図をそこにすべり込ませ、その上から“公益”という言葉をかぶせてしまうことを許してしまいます。極端な場合、そのような言語使用は私たちを、「公益とはなにか」についての果てしのない議論へと引きずり込むだけです。しかしながら、そのような議論を、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を制約するものは何か、についての考察で行うことは、いたずらに社会的な緊張をあおり、「公の秩序」さえをも撹乱しかねず、なによりも国民にとってなくもがなのことでしょう。そのような議論を始める必要はそもそもまったくなかったのですから。

第一、政治や行政はそもそも何らかの意味で、必ず「公益」のためにあるとも言えるのですから、国民の権利がこの改正草案のもとでどのように尊重され、「公益」に対して価値衡量されるかは、いかなる政策のもと何をもって「公益」と見定めるのか、その解釈権をもつ行政主体の判断ひとつで決まってしまう、ということにもなりかねません。そうなるとしかし、その改正条文は憲法13条とは似て非なるものになります。その条文はもはや統治権力を制限するための根拠原理、制限規範とはならないからです。それどころか「立法その他の国政」は、「公益」を理由にして個人の権利をいかようにも制限することさえ可能になるのです。
これに対し、より踏み込んで憲法13条の趣旨を言うならば、国民の権利、個人の権利とは“公益的状況”や“公益的事態”においてさえ、「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」というものではないでしょうか。そのように考えると憲法13条についての自民党改正案は、場合によっては現行憲法の否定でさえあり得るわけです。

さてこのように、憲法条文のたった一つか二つの言葉の差し替えでさえ、その背後には国民の生活や権利に深く関わる重大な問題争点が横たわっています。そして上に述べた条令案については現に、多くのひとがさまざまな懸念をすでに表明してもいるのです。にもかかわらず、かくも重要なことがらを、過半数という基準で採決してしまうことは、たとえそれが発議段階のことであれ国民にとっては受け入れがたいことです。
しかし少なくとも現行の96条のもとであれば、現在の議会はこのような「改正案」を実体的に厳しく問うことが ― まさに「公共の福祉」を「公益」に変更することが適切であるかどうかを十分に討議できるわけです。つまり、三分の二から過半数への変更は、いわば議会全体の熟議の「総量」が、これらの数値の差異に応じて減少することでもありましょう。そしていうまでもなく、ものごとの決定方法は、それが何を決定するかによって最適の方法を選択すべきなのです。

なお、「三分の一ほどの議員が反対しただけで改正案が否決されることは不条理だ」というような主張は傲慢ではないでしょうか。むしろそれら議員の背後にどれだけの国民がひかえているのか、そのことを憲法の改正にのぞむ政治家は謙虚に受け止めるべきでしょう。いわんやその半数近くに及ぶにおいておや、です。加えて、改正議案の発議が三分の二以上から過半数に変われば、議会の多数勢力は憲法改正へのより大きな誘惑に常にさらされ、しかもそうして発議される改正案は必然的により党派的、政策的な色彩を強め、国家原理的な基本原則性を薄めてゆくでしょう。それはしかし、国家の最高法規として望ましい、また賢いあり方でしょうか。

現行の96条について以上述べてきたことについては、反論があるかもしれません。たしかにこれもひとつの解釈ではあります。しかし憲法96条が議会に三分の二以上の賛成を求めていることは、決して単なる手続き上の事項としてではなく、そのことにおいて、憲法が憲法改正のあるべき、本源的なあり方をそこに示し、指定しているものと解すべきではないでしょうか。つまり憲法96条の規定は、憲法が国会に授けた「権限」ですが、同時にまた、憲法改正の実体的なあり方に関わる「権限のあり方の制約」でもあります。そしてそれは憲法改正の行為規範的な枠組み、あるいは制限規範的な枠組み、つまり発議にいたる議会の熟議はどのようにあらねばならないか、そのあり方についての規範枠組みともなっているのです。というのも三分の二以上の賛成という規定は、単なる“制定手続き”についての規定ではなく、そのことが改正される憲法原則の実体的な内容に直接反映され、作用し、その内容のあり方に深く関わる規定ともなっているからです。それはただちに憲法の制定性そのものに関わる制限問題であり、したがって、国家の主権性の領域に侵入してくる問題であるといえます。


もしこのことが96条についての妥当な理解であるならば、国会が憲法96条の改正案を憲法96条に従いつつ発議するとしても、その要件として以下のことが先行的に実施要請されるべきでしょう。すなわち、

 @ 憲法96条の改正に取り組む内閣は衆議院を解散し、総選挙を実施することにより 憲法96条の
    改正を 討議、採決することを主要目的とする国会が、新たに召集されるようにしなければならない。
 A この総選挙を経たのちに新たな国会のもとに組織される新たな内閣のもとで、衆議院および内
    閣は 憲法96条の改正に関わる議案を取り扱う。
 B  衆議院で憲法96条の改正案が三分の二以上の議員の賛成を得れば、改選選挙によって衆
    議院と同じ目的で構成されるに至った参議院での採決に進む。

ということです。

   (憲法96条は国会を名宛てにする規定ですが、@で内閣が議会を解散する理由は議院内閣制
    の下では、憲法改正についての政治的アクションも内閣の政策方針、イニシアチブによって行
    われるのであり、かつこの内閣に議会を解散する正当な理由と権限があるからです。)

ではこのことを言う根拠はなにか。
議会が憲法改正の手続を定める憲法96条を先行的に単独改正することは、同時に、その後に行われるであろう憲法全般に及ぶ改正発議のあり方を、根本的、実体的に大きく変え得る改正となります。それゆえ96条の改正は、まさに憲法全体の制定性に関わる改正です。そして憲法の制定権力が国民の代表ではなく、国民のうちに存するのであれば、議会が憲法改正の実体的なあり方を変え得るような改正を行おうとする際に、議会における討議のあり方と議決行為の過程そのものに対して、主権者国民の意思はあらかじめ確実に及んでいなければならないでしょう。つまり、この一連の政治過程において国民と国民の代表議会の間には、憲法改正議題をめぐる実体的な政治的往復運動が、国会発議に先立って始動していなければならないのです。

すなわち、憲法96条の改正に取り組む議会のあり方そのものが、改正案の実体的なあり方に直接反映され、その改正条文の規定性を決定づけるのであればこの議会、96条の改正案を発議する可能性のある国会が、全国民の代表として、どのような憲法観、どのような政治信条をもつ議員や政党によって構成組織されることになるのか、その議会の“成り立ち”において、さらにはその議会の“力学状況”そのものにおいて、そこに憲法制定者である主権者の判断と意思は確実に及んでいなければなりません。もちろんその意思には、憲法96条を改正することが望ましいことであるかどうかということ、それ自体についての国民の判断や思いも当然反映されるでしょう。それゆえ96条の改正に取り組む議会と内閣は、この共通認識に基づいて、衆議院を解散し、96条改正討議国会としての国民審判を受けた後に、新たな議会のもとでこの課題に着手すべきです。“96条解散”は議会の選択である以前に、国民の主権において要請され、実施されねばならないのです。

その反対に、もし国民が主権を行使することによってこの議会の成り立ちを自覚的に統制し、構築することができず、そのかわりに、“所与の議会”、“所与の国会”の討議と議決をただ事後的に受け取るのみであれば、たとえ国民が国会の発議を受けて国民投票を行うことができたとしても、国民は主権者としての権限を十分に発揮したとは言えません。なぜなら主権者である国民は、改正案を発議した国会を自分たちのこの特定意思において組織、構成することができておらず、その結果として、憲法制定のあり方に関わる重要な規定を討議したり議決する、その包括的な国政状況において、自分たちの譲り渡すことのできない主権者としての意思と権限をすでに手放してしまっているからです。それは、決して信託することのできない主権者としての権限、憲法制定権力の権能範疇に帰属する権限です。したがってまた、そのようにして万が一にも改正案が“通常国会”で発議されたとしても、主権者たる国民はこれを拒絶すべきでしょう。

しかしこれは杞憂でしょう。国民の代表として国政を負託されている議員および政党は、以上のことを十分に認識しているはずです。
そして、国会による憲法96条の改正案の発議が、他のいかなる国政上の政策課題と比較しても ― 経済政策であれ、社会保障、外交・安全保障であれ ― ことがらの重大性において少しも劣るものではないことを、内閣総理大臣以下すべての国会議員は同意するでしょう。
それゆえ彼らが国民の代表としての責任感と矜持を保持するかぎり、内閣と国会は@、AとBを誠実に履行し、しかる後に、しかるべき手続きを踏んで96条改正是非について国民の審判に委ねることでしょう。


 

 判決を受けて 8  不作為の体系

太平洋戦争が終結してほどなく、丸山眞男は極東軍事裁判の公判記録を手がかりにして、旧軍部を中心とする「日本ファシズム支配」体制を包括的に批判考察し、その過程でそこに見出したある顕著に責任回避的な精神様態と、それが連鎖して織りなす統治状況に対して、「無責任の体系」という表現を与え、観念抽出した。では、丸山がそこでえぐり出した、70年以上前の、我が国の軍国主義的統治のある状況側面は特殊歴史的なものであり、我々はこれを過去の記録として、ただ回顧的に眺めていればよいのか。*

“Fukushima”へと至る原子力行政に言及するまでもなく ― 率直に言って「原子力保安院」という呼称名から私は、発電所の正門わきに設置されている「守衛所」しか思い浮かべることができない、― また巨額の財政赤字を想起するまでもなく ― 就業者人口(その2割以上は非正規雇用である)一人当たり約1500万円の政府債務! 別に地方自治体債務もある、 ― 社会統治的状況としての「無責任の体系」は、大に小に今なおそっくりと、我々の頭上に、鼻先に、足元にぶら下がっている。ただしより巧妙に法的体裁を整え、もろもろの制度内部に深く埋め込まれてではあるが。 しかもこの「無責任」は、しばしば自主規制的な“不作為”、あるいは“黙過”を介することでさらに視認されにくくなっているために、日常性に埋没した我々市民が、これに気付くことますます困難である。たとえば行政の不作為は、薬害エイズ事件やアスベスト(石綿)健康被害のように、それが激甚的な惨禍、災厄を世にもたらす原因となる場合には、さすがに社会の発覚を免れえないが、とはいえそれも多くの犠牲者がすでに生み出され、もはや手遅れとなってしまった後のことである。

社会統治的事象としての「無責任の体系」は、なんらかの“できごと”によって、これを我々は事後的に知るのみである。それは或る事件として社会の表面に現れることで、しばし世間の注視を浴びることもある。 しかし、非顕在的な戦略的状況としての「無責任の体系」は、“できごと”の有無に関係なく、社会の基底部に伏在し、その土台を規定し制約している。そしてそこに我々の視線が及ぶことはまれである。

それにしても、財政赤字に対する、日米二つの議会のかくも大きな“対応温度差”はなんなのか。緊縮財政法案を政争の具に使う、米国議会の党派政治を割り引いてもなお、この対応落差は尋常でない。それとも日本の財政当局は、国家財政の破綻に瀕したキプロスのように、“預金徴収法”をすでに構想しているのだろうか。そういえば、国おもいのわが同胞は、郵貯の民営化を許して、かつてはあった預金保障のくびきから、気前よく国を解放している。(国は以前、預金を全額保障していたのだ。) 
かつて戦時下の日本では、戦意発揚のために“一億玉砕”なる標語まで使われたそうだが、時を経て今日、これまでの放漫な財政政策の後始末をつけるために、国が一方的にその債務を国民に押し付けて、国民を再び奈落の底へと道連れにするというのではたまったものではない。それとも、自滅的な国家統治への間欠的な自己回帰と、それを座視続ける国民の政治姿勢こそはわが民族の歴史的伝統なのだろうか。

それではあまりに情けない。来年度には消費税率も上がるようだが、ならば同時に、国と地方の議員および公務員の歳費、議員報酬、給与総所得(諸手当をすべて含む)をすべて、一律に最低2割は削減すべきであろう。これは第一に、国民の了解ぬきに行政がすぐに実行できる、そして財政の負担軽減化に寄与すること最も大なる施策である。また第二には、上記1500万円の債務返済のうち、一定の割合を公的セクターに制度リンクさせることで、政治、行政が負うべき責任を果たすことが可能となる。(一種の社会的案分比率という視点の導入。)
いずれにせよ、政府債務の問題は、逆進性の強い、国民間の経済格差を増長させる消費税だけに論点集約化して、単純化するのではなく、行政コストを含め、国民が真に納得できる負担のあり方を、負の社会的分配という政策視点から提示することが、政治の責務である。そのための国民的議論、“国民会議”も必要であろう。というのはこれは、“負の公共政策”に他ならず、単なる数字合わせではない、社会的公正さについての多次元的視点に基く合意形成がそこでは不可欠だからだ。

閑話休題
では、この行政訴訟をとおしてみる統治的事象としての無責任とは何か。それを私は構造化された統治的不作為の連鎖、すなわち「不作為の体系」としてとらえる。
国保保険料行政処分をめぐるこの裁判判決は、立法府、行政府、司法府の原処分をめぐる立法、処分、審判などの法行為過程をふまえて、これらが立体的に構築、集積されることによって、ある統合的な法制度的規範性のうちに収斂し、立ち現れたものだ。そして、この統合的規範性の土台を支える三権のそれぞれの法行為そのものが、その局面で、その背後に、それぞれに固有なありかたで、或る法的な不作為、あるいは法的黙過を包含している、という状況がみてとれる。

これらの分立権力における不作為は、通時的に相互に連結し、立法府は行政府の、行政府は司法府の不作為の“正当化根拠”をそれぞれ下準備し、提供することによって、ある政策的、法制度的状況を構築してゆく。この状況を原告の立場から俯瞰的に見れば、これら一連の不作為は、ある公的制度の執行状況に法的根拠性を与え、その法的環境を整備するために統治機構が協働的に展開する、ひとつの自律的な法的運動過程としてとらえうる。この過程はまた、その働きにおいては、法源や明文規定された法令諸規定の背後から、これらをその高次の解釈や制度運用において社会統制、制御する、ある統治的志向性として作用する。すなわち、このようにして、これらの分立権力を横串にしつつ、暗黙知的、自己調整的に連動し、進展するある統治的戦略状況が浮上し、透かしみえてくるのである。(“戦略的状況”については参照、「判決を受けて3 状況としての権力」) 

ただし戦略状況といっても、どこかに“軍師”や“作戦参謀”が隠れ潜んでいて、戦略を練っているわけではない。そのような戦略の策定主体(中央管理者)を特定させないことこそが、この戦略の戦略たる所以であり、真骨頂でもある。すなわち、この統治的自己運動は、不作為という側面では本来なすべきことを怠ることによって、また体系という側面では自己完結的な不作為ではなく、分立権力主体間の相補関係的な働き作用によって、越境的に、間主体的に、あるいは非主語的にその戦略性を発揮する。この裁判で司法認証された国保保険料原処分も、個別の統治権力不作為が、“互助的”に働きかけ、“相互依存的”な媒介作用によって、各自が”相補的”に法理論武装化し、その法的根拠性を確保してゆく、といういわばメタ統治的な分立権力関係構造に支えられている。そして司法府は、立法府と行政府の不作為を黙過し、法認証することで、この体系構図、「不作為の体系」に自ら参与する。

具体的に言うと、行政庁の保険料処分の合憲性いかんは、もちろん裁判所によってのみ裁決されうる。表面的に見ればそれはだから、裁判官による処分の審判という、いわば一方向的な関係行為である。しかしその審判そのものが、実は、この処分の根拠規定としての行政府政令のあり方によって根底的に制約され、枠組みをはめられていたわけだ。その政令のあり方とは、前回詳しく述べたように「法律で定めるという原則」を満たすことの無い、不作為としての公課法律規定に他ならず、裁判官はこれをそっくりと受け入れ、原処分の法的根拠として採用したわけである。

もちろん裁判官は、司法府のそして裁判所の原理的な存立目的、統治機構的役割と責務 − 国民の基本権の保護、保障 − において、このような行政法令による法律規定の制定とその適用を、単に“組織規範的”な適理性を根拠事由として受け入れるべきではなかった。もしこの受け入れを、憲法が裁判官に求める、「法律にのみ拘束される」(憲法76条B)ということの縛りとして了解しているならば、それは彼らが76条をまったく履き違えて解釈しているのであり、それ以前にそもそも、法的精神、法的思考というものが完全に欠落しているのである。(この問題については稿を改めて詳述する。)

ではなぜこのような厳しい言い方をするかというと、政令制定の法規範的あり方を実体的に検証することは、裁判官にとって必須の審理対象事項であり、しかも現行政令が法律および法源によってどのように制約されているかという問題は、立体構造的に、多面的に探求されなければならないことだからである。またそのような審理を経ることなくしては、この行政処分の公定力を実体的に検証することはできないであろう。ましてや原告は訴状において、法律の違憲性を主張することなく、処分の違憲性のみを法源を根拠として訴えていたのであるから、裁判官はなお一層そこで、法律と政令の関係性について細心の注意を払い、政令が法律規定として成立するための諸条件について検討する義務があったといえる。そのような思考、審理は必然的に、皆保険制度という共通法源を媒介した、国保法、共済法の法的規範関係性を視野におさめ、この関係性を適切に考慮しつつ、この政令が法律の規定として実体的に成立するための規範的被拘束性の検討に進んだはずである。

しかしながら、本件審理は、行政府による現政令の制定のあり方について、事実上なんらの実体的審理、検討を行うこともなく、これを包括的に受け入れ、これを法的根拠のひとつとして展開してゆく。それは原告の訴訟趣旨を理解しようとすることさえない、不作為としての審理にほかならない。
つまり、行政と司法は、このようにして、相補的に互いの法的行為を媒介することで、処分、裁決を法的に根拠づけてゆくのだが、そこにおいて媒介される互いの行為が本質的に、なにかを行うという積極的な行為ではなく、為すべき行為を為さざる行為、すなわち“不作為”としてあるということが、この審理局面における包括的な状況構造、その真のありようを見えにくく、わかりずらいものにしている。それは、相手が何かをしないことによって、初めてこちらのほうでも成り立つようなある行為 ― 不作為を、両者が相補的に持ちあい、そのことにおいて互いに支え合っている、もたれかかっている、というような相互依存的関係性の状況である。相手の不作為によって成立しうるこちら側の行為それ自体も、もうひとつの別の不作為に他ならないのである。(行政不作為的に制定された政令を司法黙過することは、平等権についての審判を回避する司法的不作為にとって必須の要件なのだ。)

このようにして、不作為を媒介した主体と主体のこの相補的関係性そのものが、ひとつの法制度処分を包括統治的に構成構築してゆく。そして、その処分の“適理性”は、これら不作為の互助的関係性によって堅固に確保されているわけだ。
それゆえ、不作為はここで、二重の意味、二重の働き作用において構造的に見いだされる。ひとつは個々の分立権力における不作為であり、いまひとつは、それら不作為の相補的関係性において発現する、いわば不作為の関係性としてある不作為、複数の不作為の間の関係性として成立している不作為である。この不作為については、これを担う主体を、特定の固有名によって名指しできる単独者、単独組織のうちに求めることはできず、そこに関与する複数の単独者によって相互に架橋されたそれらの関係性においてのみ、つまり“関係性的な主体”としてのみ捕捉できるのだ。

しかもこの不作為はまた、統治的な志向性を帯びた、ある戦略状況としての不作為でもある。
すなわち、不作為の相補的関係性としての高次の不作為では、不作為は分立権力をまたいで協働的に、連合的に発現し、この関係性そのものが、この関係性において、この関係性による“シナジー効果”(協働作用的効果)によって、ある統合的な法制度的規範性 ― 国保保険料原処分の法的適理性、法的有効性 ― をその公定力の水準で担い、産出する。こうしてこの高次の不作為、不作為の関係性として成立する不作為は、最終的に憲法14条そのものに対する国家統治的な不作為として発現し、機能するにいたる。これら不作為の関係性そのものが、ひとつの実体的な行為性、実体的な法執行力を発揮することによって、憲法原則に対する不作為として作用し、立ち現れるのだ。

このシナジー効果に関しては、また次のようなことも言えるであろう。すなわち、この相補的関係性としての統合的な不作為は、この関係性において統治構造的に強化された不作為でもある、と。強化されているというのは、例えば、政令制定における行政の不作為があってはじめて、これを黙過する司法の不作為も可能となるわけであるが、今度は司法の不作為が行政の不作為に法的承認性を与え返すというように、つまり行政は司法の不作為を媒介することで、今度は自らの不作為の正当性を裁判をとおして獲得するというように、両者は相手の不作為を媒介にして、相互反射的、反響的に、双方向的、共時的に支え合っている。しかも、もし我々が、ひとつの不作為を見過ごしてしまえば、その不作為は、他方の、相手側の不作為によって、覆いをかぶされ、法的適理性を与えられ、根拠づけられ、そのようなものとして受容されてしまうこととなる。もし政令制定における行政の不作為や、これを黙過する司法の不作為を見過ごしてしまえば、これらのシナジー効果によって形成される統治状況の“戦略的適理性”を論駁することは困難であろう。少なくとも表面的に見るかぎり、そこでは立法、行政、司法の間に何らの不法行為、法的齟齬、法的逸脱も見出せないからだ。

原初の個別統治権力主体における不作為は、このようにして、それらの相補媒介的諸関係におけるシナジー効果によって、ひとつの融合された統治状況へと流動的に生成してゆく。そしてこの状況段階に達すれば、個別的不作為はもはや自身によってのみその正当性を主張する必要はなく、この溶融池に身を沈め、さらにはそこに不作為性を拡散してしまえばよい。なお、この状況は、丸山が日本ファシズム体制のうちに見出した「無責任の体系」において、軍人や政治家の多くが責任を取ることもなく、責任の自覚さえなく、日本を戦争へと引きずり込んでいった、あの愚昧低劣な統治状況の溶融的生成過程と ― ことがらの軽重は別として ― 多分に類似的であろう。つまり「不作為的無責任の体系」として、状況論理的に相似形であろう。おそらく、メディア、アカデミズム界がほとんど無力、無作為、不作為であったそのことも含めてだ。

このように見てくると、原告が裁判で対峙していた制度事象が、単にひとつの保険料行政処分ではなく、同時にまた、これらの戦略的に運動展開する、分権的統治構造そのものであった、ということが今にして了解される。この構造状況はふつう、行政処分や行政行為においてはもちろん顕在化することなく、いわば単なる可能性として、“可能態”にとどまっているものだが、裁判という社会制度的行為形式を通じて、“現実態”としてその姿をあらわしたとも言えよう。それは原告の提訴主題とは別個の、しかし同時に、この行政処分を深部構造的に支えているところの、より根源的な統治原理上の問題メカニズムとして、この行政事件裁判をとおして原告の前に出現したものである。
このようにして、判決を通して現れた統治戦略状況は、原告の視点からみれば、保険料処分と同じように、原告の基本権に対して侵害的に作用するものだ。したがって、この構造状況そのものと対峙することなく、我々が基本権を回復することはおそらく不可能であろう。それはとりもなおさず、我々自身がこの状況を前にして、より戦略的に思考することを要請している。

なおこれらの問題に関連して、すこし飛躍した発言を行うと、ここに言う「不作為の体系」は、この社会の現在の統治機構そのもののあり方に由来する、統治制度の根源的な構造的問題としてあるわけだが、そのことが、さまざまの行政的局面を通して、この社会共同体が直面する少なからぬ問題側面において、閉塞と停滞、社会不安や無力感さえをももたらしている、というように私は受けとめている。なぜならば、最も脆弱な社会、強靭さや希望感覚に欠ける社会共同体とは、決して単なる産業経済活動の低調な社会ではなくて、なによりも社会的公正さの希薄な社会、公正さが人々に実感されない社会だからである。

別言すれば、この社会を憲法原理のもとに、規範統制し、法的秩序を与え、構成構築してゆくその公的担い手、その公的制度機構の主体群そのもののあり方が、そしてそれらの相互媒介的諸関係そのものが、さまざまな行政的社会問題の根本原因そのものであるという、最大限の統治的アイロニー、 矛盾、 ― あるいは統治的厄災というべきか ― がそこに見いだせる。
(これらの状況について、まるでハリウッドのB級映画によくみられるような“筋書き”を連想させる、と言ったら不謹慎であろうか。つまり、本当は社会正義を体現すべき組織機関や登場人物が実はそうではなかった、なんと事件の黒幕であったというおなじみの筋書きだ。ただしここでの話は、映画ほどわかりやすくはない。この黒幕は、“統治機関相互媒介的諸関係”としての戦略状況としてあるわけだ。)

その最たるものの一例が、この裁判で争われた公的社会保障制度における、著しい、許容不能の格差存在なのである。租税処分における保険者と被保険者の間の差別的な取扱い、平等原則に違背する差別的な行政行為なのである。そこでは行政や司法が、不作為としての法的行為によって、憲法原理に拘束されることさえなく、法律を恣意的に解釈し、もって格差処分を断行継続する状況が社会放置されている。なにより容認しがたいのは、これが公的制度によって生み出されている官製の格差であること、行政や司法それ自身によって、この社会に新たに産み落とされている格差であるということだ。
それゆえ、この状況をどのように乗り越えてゆくかということは、単にこの行政事件にとどまることなく、この社会全体に突き付けられた、ひとつの根源的な統治システムの原理的問題としてとらえられるべきである。しかし現状はといえば、この問題に接近する方法論はおろか、これを語る言語さえ我々は未だ見い出していないのではないか。

さてでは本論に戻って、その不作為としての統治戦略状況は、この裁判審理において、どのように作用していたかをみてみよう。
まず、原審判においてこれらの不作為、とりわけ行政府の政令制定行為(国保法81条)における不作為は、なにひとつ実体審理されることもなく不問に付された。そしてこのような黙過的な審理のあり方は、裁判官に、法律や政令の“読みかた”について、ある解釈の採用を許した。どのような解釈か。それは、― 国保保険料の賦課徴収は、国保法の法源において国が制度保障する、国保被保険者の“憲法上の権利”、すなわち“制度横断的に公平均一な医療保険給付の実体的諸権利”に拘束されることなく行政処分されうる、という解釈である。さらにはまた、このような処分結果として生じる、国保保険者と被保険者の公課格差も正当なる法的根拠に基くものである、という法解釈である。

つまり、行政府の不作為を司法黙過するまさにそのことが、黙過することにおいて、黙過することの包括的自己了解性のうちに、― 現行の国保保険料に関わる法律法令規定は、そのような脱法源規範的な保険料処分の法的根拠としても、またこの根拠を支える法令相互間の法的関係性においても、これらを整合的、統合的に法解釈しうるのだ、というこのような法律法令の“読みかた”を自らに許し、このような解釈に門戸を開いたのである。

その結果、国保被保険者の視点よりみれば、平等権の侵害以外のなにものでもない保険料行政処分が、この司法黙過的にゆがめられた法律諸規定の特殊文脈的意味性を審理通過することで、ここに法律法令に則った適法な行政行為として、まさに法規範的にひっくり返されて司法承認されるにいたったのである。驚くべきは、国民に公平で平等な公的医療保険給付を制度保障するという、法源としての原則さえもが、そこではこの司法的黙過を媒介して、反法源的にねじまげて措定解釈されているということである。しかもこれらすべての過程が、法の言葉において、法の論理において、法の形式に沿って行われ、司法認証されているということだ。
社会的規範としての法が、一部の国民を差別的に取り扱うための抑圧的な手段方便として読みかえられ、その規範的拘束性を根本的に骨抜きにされ、変換されているということである。

すなわち統治行為としての不作為は、なにかの欠如、なにかの不在どころではなく、原処分を規定する法制度の基本的な枠組みをつくると同時に、「不作為の体系」として、原告の基本権を斥けた原判決のまさに論拠基底部を“黙過的に”骨組み構成し、その司法認識地平を支えている。不作為はかく体系化され、かく戦略を任務完了し、ここにあるひとつの法制度的施策 − 国保保険料賦課徴収制度 −がある規範的解釈了解性のもとに、三権統制的な公認性を獲得する。この戦略体系の内側からみれば、この裁判さえもが、いやこの裁判こそが、この体系内部にしっかりと組み込まれ、これを最基底部で支える土台そのものであろう。裁判所の終審判断によってこそ、これらの行政処分も、政令という行政法令も、その終局的な法律適合性、合憲性をゆるぎなく確保し、宣言しうるからだ。つまり、裁定者としての裁判所そのものが、裁判という場で、この格差状況に法的根拠を与え、これを固定化する決定的な役割を果たしているのだ。

いうまでもなく、このようにして状況的、相補関係的に展開し、統治的に支配する「不作為の体系」を見抜くことなく、保険料原処分や原判決を、あたかも不可避の法制度的帰結であるかのようにみなすことは、彼らの思うつぼだ。なぜならそれらは、個々の統治局面の、その発生現場では、常に必ず、どこかのだれかの解釈、判断、選択、決定として意図的に方向づけられたものだからだ。国会であれ、内閣、裁判所であれ、無責任としての不作為は、為すべき行為を為さざるための、だれかの、積極的、意思的な選択行為なのだ。
もっとも行政処分の最終現場まで到り来れば、これらの意思も、錯綜とした統治手続きの幾重もの過程を経て、何百倍にも希釈され、検出困難となるだろうか。しかし同情にはあたらない。彼らは、共済と国保が制度趣旨を異にすると、しっかり反論しているのだから。

とはいえ、この不作為の体系は、これを包括的な制度状況として遠望する限り、個人にとってはなすすべもないものにみえる。状況はあまりに大きく、堅牢で、被処分者としての個人は非力にみえる。たしかにその通りであろう。しかし我々は、あくまでもこの憲法と法律の内部にとどまり、憲法を根拠として、これらの統治戦略状況に立ち向かうべきである。もちろん司法府そのものも、そこから除外されない。司法府もまた、裁決によって、この格差的な行政処分としての統治行為に参画しているからである。

そしてこの統治状況がどのようなものであれ、たとえそれがひとつの巨大な権力機構として、国民にたいして敵対的に作用するものであるとしても、憲法は、“憲法上の権利”において、国民を、行政および司法の権力濫用そのものからさえも、防御するはずである。だから我々にできることが限られた、ささやかなことであるとしても、あきらめる必要は少しもない。法の論理、法の正義がこちら側にあるということを、自覚しているということがなにより重要である。憲法を侵害しているのは、行政府であり、そのような行政を追認する司法府なのである。

ではそのささやかなこととは何か。それはまず、我々が法律と法源の原則に立ち帰り、立法目的を確認することで、保険料処分をめぐる包括的な制度状況を、もう一度その振り出しに投げ返し、置き戻し、これを立法者の視点からとらえなおすことだ。現政令として今ある保険料公課規定を、いったん行政府に送り返し、保険料が行政処分される以前の、法の原初の段階に巻き戻すことによってである。それは同時にまた、現政令の制定背後にあった、行政府自身の法的判断と選択を、その主体的行為性において捕捉し、摘出することを可能にする。さらにはその行為性を、法律と法源の原則、趣旨および立法目的の下に、根源的に批判検討する視点を我々に与える。

そのあかつきに、めいめいの国保被保険者は、この保険料政令を制定する行政統治行為を、法律と法源を踏まえて、自分自身の基本権の地平上にとらえなおすことができよう。それはある行政行為を介して、個人を強制的に拘束するある行政上の法的関係性を、その者が、自身の基本的人権の上に定立し、とらえ返すことである。政令および行政処分のフィールド上で展開する、行政府と一個人の間の、憲法原理上の原則的問題を、単に被処分者としてのみならず、行政府に負託する主権者として、相互的、双方向的にとらえ返すことである。そこにおいて行政府は憲法に拘束され、個人の基本権を侵害するようなあり方において、政策を策定し、裁量判断を下すことは許されない。そして、被保険者がこの局面で、行政統治行為の法的根拠性を、まさに行政府の土俵で、彼らを拘束する憲法原則、および「法律による行政の原理」の中でただしてゆくことは、当然の権利である。我々は国民主権のもと、それを可能ならしめる必要十分な統治権制約の諸原理を、行政府の権力執行のあり方そのものを規制する統治原理として、多面的、重層的に憲法上に定めている。そしてこれらの原理問題を、行政裁量の解釈問題のうちに解消することは、憲法そのものが許さない。

最も警戒すべきことは、本来は法の原則問題としてとらえなければならない問題を、政策上の選択問題として、取り違えて受けとめてしまうということだ。一般に行政政策は高度に複雑で錯綜としており、またその選択肢はほとんど無限にありうる。その選択が政治、行政に委ねられていることも事実である。また行政が、“社会保障国民会議”のような外部委員会の助けを借りることもあるだろう。それはそれでよい。しかしたとえそれらの政策提言が、どのようなものであれ、それは最終的には、統治原理の原則枠組みのなかで、法と憲法に従って行政府の、すなわち内閣の統制を受けるべきである。そしてさらには、そのことが、統治権力をコントロールする制度的機構において、最終的に別途、担保されていなければならないのである。残念ながら、現在の司法府、裁判所のあり方が、その役割を適切に果たしているとは到底言えない。
とまれ、もしその選択が主権者の視点からみて、統治原則に抵触するのであれば、それを政策選択の問題として受け入れるべきではないし、政策問題として論じるべきでもない。

行政が政策検討を行うことは当然である。しかし、いかなる政策検討も、それが政策論としてとどまる限りにおいては、必ずしも国民の基本的権利を保障することはできない。もし行政が不当に裁量権を行使し、法律から逸脱したり、法律を拡大解釈すれば、本来は行政が選択しえない政策が採択されてしまうこともありうる。
政策と法律の混同や、安易な同一視が許されれば、政策の法的枠組みそのものが不適切に変換され、設定されることにもなろう。つまり行政の政策選択権において、法律の本来の規範性そのものが骨抜きにされてしまう。しかしそのような場合、我々に必要な議論は政策論ではない。政策選択の問題ではない。そうではなくて、「法律で定めるという原則」は何であったのかという原則の問題として、政策を法律の原則、法律の趣旨に引き戻した議論である。

行政による政策策定が法律の原則、法律の趣旨、そして憲法原理の枠組みの圏内にとどまるかどうか、ということは決して自明なことではないし、そのことを誰かが保障しているわけでもない。誰かが保障してくれるわけでもないのだ。(内閣法制局が保障することはもちろん原理的にできない。それは行政府の一部だからである。)
行政の政策に対して、そこから国民の基本権を最終的に確保し保障するものは政策論、政策選択の議論ではなくて、それら政策の背後にあって政策を法規制する法的原則や法的枠組み、そして最終的には憲法原則なのである。

さまざまな行政政策のその背後で、無責任、あるいは不作為が一種の統治的駆動原理として作動し、そのことが法律や憲法からの逸脱として作用するならば、我々はその端緒をつかみ、その働きを現前化し、事象化して、何かが行われないことによって行われていることははたして何か、という問いを問わねばならない。そしてしかし、取り組むべき真の問題はその先にある。主権者としての国民が取り組むべき問題として、そこに投げだされている。不作為はだから向こう側だけではなく、こちら側の問題としてもある。主権的不作為が統治的不作為を放置するという構図においてある。(とすると、それをしもこの体系に含めるべきか。)

この国の統治のありようを総体として眺めたとき、公平に言って我々は、今日なお、かつて丸山が見出したような「無責任の体系」的状況からの脱却を、自分たちで思い込んでいるほどには、なしえていないであろう。その状況認識の欠落を一貫して集合的に保持すること、それ自体についてもだ。
しかしだからといって、この状況に乗じて、国民をある制度局面で差別的に取扱うような国は、美しいどころか、醜い“行政国家”である。そして蔑むべき為政者である。彼らは語の真の意味で、愛国者ですらない。公僕ともいえない。なぜなら彼らは、そこに大きな格差、不平等があることをよく認識しているはずだからである。
他方、同時に、そのような事態を、今日まで許し続けるような国民も、決して十分に賢いとはいえない。だから愉快なことではないが、「愚民ノ上ニ苛キ政府アリ」という福沢諭吉の言葉は時を超え、この国の実像を今なお、程度はともかく、描出し続けている。

では、どちらなのか。
「不作為の体系」としての「無責任の体系」は、70有余年前のそれと同じように、国民にとって抗い難い巨大な不可抗力として、そのようにして、そのようなあり方において、やはりこれからもあり続けるのか。いや、そもそも不可抗力としてとらえることそれ自体が、この力を自ら不可抗力にしてしまっているのではないか。そこから我々の錯誤が始まるのではないか。

  * 丸山眞男 “軍国支配者の精神形態” ― 『現代政治の思想と行動』 未来社 

  この頁続く
                                                   2013年8月8日 西秀樹




追記・立法府の不作為とその主権的統制  

ここまで立法府の不作為については触れていないが、この不作為についても一言あるべきであろう。いうまでもなく本稿において立法府の不作為とは、「法律の委任」に関わる不作為として認識される。(そしてその不作為は、本件裁判においてもはっきりと視認できる不作為として確認できる。)

順を追って述べると、まず国会(立法府)が内閣(行政府)に授権して、法律に付則する法令の定めの制定を、− 国民の権利や義務に関わる定めも含め − 府令、政省令などの「委任命令」という法形式において委ねることは、憲法73条6の許すところであり、その際にこの委任行為そのものに特定の制約や条件が課せられているわけではない。他方しかし、憲法41条は国会を「唯一の立法機関」として厳格に規定しているのであるから、国会による法律規定の制定委任は一見したところ、この「唯一の」という規定性に矛盾しているようにもみえる。法律の委任によって内閣も法律の一部分を制定するにいたるのであり、それは事実上、行政部門が“立法機関”として機能することとなるからである。

では国会が「唯一の立法機関」でありながら、そのことと矛盾することなく国会が内閣に法律の委任をおこない、内閣が立法を行うことができるとすれば、それは国会がいかなる委任者としてのあり方において法律の委任を行い、内閣がいかなる受託者としてこれを立法する場合においてか。またその際、「法律の委任」における「法律」の委任命令への立法権授権の根拠はどこに見出せるのか。憲法が国会について定める二つの別個の規定、唯一の立法機関という規定と、法律の委任という規定とは、国会と内閣がどのような規範的関係にあるときに憲法原則として、また憲法の根本理念において、調和し整合し得るのか。憲法が単に個々の条文を寄せ集めたものとしてではなく、国家作用に対する首尾一貫した統合的、包括的な規範原理として読みとられるべきものであるならば、これら二つの定めはいかなる国家作用のあり方のもとに、条文横断的に、横断通底的に齟齬なく接続可能となるのか。

最初に憲法41条の定めについてみてみると、ここで憲法が立法権の行使を国会に限定する理由、根拠は何であろうか。おそらくそれは、法律の制定という国家行為は、いかなる既存の社会組織によってでもなく、あくまでも選挙で選ばれた国民全体の代表者によってのみ確実に実現され得るような、そのような公正性、公共性のあり方において行われなければならず、またそのような行為結果としてのみ法律は制定されていなければならない、という立法行為全般に対する主権者国民の原則的な要請に基くものであろう。(これを主権的立法原則要請と呼ぼう。)
憲法41条は、この要請を国民が法制度的に確かなものとするために、立法行為を国民代表機関としての国会に限定したものと解される。つまりこの条文規定には、法律の制定という国家行為の行為性に対する、国民のこのような要請が前提として前置されているのであり、立法行為に対するこの主権的原則要請こそが、国会を「国の唯一の立法機関」と規定する憲法41条の理由であり根拠であろう。したがってこの視点よりみれば、主権者が国会に授権した「唯一の立法機関」という“組織規範”は、立法権の行使のあり方を規定する“行為規範”という側面を同時に含み持つものでもある。

ところで、憲法前文は「国政は、国民の厳粛な信託によるもの」であると述べるが、国政が権力分立の原理に基いて分権的に行われていることから、国政を担う立法、行政、司法の三つの国家機関へのそれぞれの権限授権もまた、この信託原理に基いて行われているといえよう。ただし国政が国民の信託によるといっても、そこでいわれる両者の信託関係を、いわゆる財産管理制度法としての“信託法”における信託観念、信託的関係と単純に同一視することはできない。憲法が信託という言葉を、国政と主権者国民の基本的関係性を規定する“統治関係概念”として用いるとしても、そこで言及されている信託対象物が、金融資産や不動産などの財ではないことは明らかである。したがって憲法上に現れた“信託”の語はあくまでも憲法原則上の概念として、主権者国民と国政の間の統治関係概念という視点からとらえられねばならない。

ではこの視点から、国民から国会への立法権の授権をみるときに、この授権を支える「国民の厳粛な信託」は、立法行為のあり方一般に対する国民の要請とどのように関わっているのであろうか。言い換えると、国民が立法権を厳粛な信託において国会に授権したということと、立法権の行使のあり方に対する国民の原則要請(主権的立法原則要請)とは、どのような作用関係においてとらえられなければならないのであろうか。というのも、立法権の授権が国会を「唯一の立法機関」という排他的規定性の枠組みにおいてなされたのは、上述したように立法行為への国民の原則要請そのものに由来し、そこに淵源するからだ。しかもこの原則要請は理屈として、国民が立法権の授権を行うのに先立って、国会への授権が行われるその手前で、立法という国家行為一般に向けて包括的に確立されていなければならないはずである。立法権が授権される際、それが“どのように授権されるのか”、“いかに授権されるべきか”ということはすでに前もって決められていなければならないはずだからである。時間的にみて、それは立法権の授権以前の決定事項であるはずだからである。

であるとすれば、立法権の授権を支える国民の厳粛な信託を、立法行為に対する国民の原則要請から分離することは原理的にできず、それどころか立法行為に対する主権的原則要請は、「国民の厳粛な信託」そのものに対してさえ及んでいるというべきであろう。そしてこのことはまた、国会への立法権の授権、および国会に対する「国民の厳粛な信託」が、決して無媒介的なものとしていわれているものではない、ということを意味してもいる。つまり、テクストとしての憲法においては「国民の厳粛な信託」がまず前文中に最初に現われ、そのずっと後、第41条にきて【国会の地位・立法権】がいわれるわけだが、立法権の授権のあり方を主権者の視点を通して見れば、この順番関係をその通りの前後関係で受け入れることはできない。こと立法権における「国民の厳粛な信託」関する限り、「国民の厳粛な信託」そのものが、憲法41条の背後にある主権的立法原則要請によってすでに根源的に制約されているからだ。すなわち、ある所与の、無媒介的なるものとして「国民の厳粛な信託」がまず準備されており、その後で、無拘束的な信用供与によって、立法権の授権が行われたわけではないのである。

したがって、立法権の授権における「国民の厳粛な信託」という原理的契機は、同時に、立法行為への主権的立法原則要請という視点からも構造的、複眼的に把握されねばならない。このことは次の事実からも明らかである。つまり国会は、さまざまな国家組織が広範な国家活動を遂行してゆくために、その規範的根拠となる法律を制定する国家機関であるが、国会はそこでこの立法権を授権した国民に義務を課し、またその権利を制限するような法律をも立法せねばならず、他方、国民はそのような法律に対してもこれに服することを、まさにこの「厳粛な信託」において了解し受容しているのであるから、立法権の行使がその行使のすべての過程局面において「国民の厳粛な信託」を裏切るようなものであってはならないことは、十重二十重に要請され、確保されねばならないことである。それゆえ「国民の厳粛な信託」は、国会の有する立法権という権力の国家原理的な根拠であると同時に、立法行為の実体的あり方を規制する主権的制約原理としても機能しているのであり、「国民の厳粛な信託」におけるこれら二つの側面は、立法権における重層的な主権統制原理として併存しているのである。

すなわち、「国民の厳粛な信託」とは、国民が国会という組織機関に立法権を授権したその際の、その授権行為の許諾的側面のみを限定的に言うものでは断じてない。より重要なことは、この厳粛な信託が、そのようにして授権された立法権のもとに行われる各々の立法行為のあり方に対して、さらにはそのようにして立法される個々の法律法令の内容、規定性に対してまで及んでいるということである。それゆえ「国民の厳粛な信託」とはここで、立法権の授権、立法権の付与という作用局面において静態的、完結的に言い尽くされているのではなく、国会における立法作業全般を対象とする時間的なひろがりをもった、動態的、持続的な作用的観念としてとらえられなければならない。ここで、立法権の授権行為としての信託作用側面を信託(1)、立法権の執行作用に向けられる信託作用側面を信託(2)として措定すれば、信託(1)は信託(2)の制約作用を受け続けることによって、常に“現在化されたもの”、“現前化されたもの”として国民の前に引き出され、国民の前に置かれるのである。

さて、以上のことがいえるのであれば国会は次の事実に留意すべきである。 それは、立法権の授権に対する国民の厳粛な信託とは、主権者である国民が国会にこの権限を授権するにあたり、この授権に伴う、立法権への“包括的な信用供与”として無条件的に付与したものでは決してないということだ。立法権が「国民の厳粛な信託」において国会に授権されたということは、国民が国会に無条件の白紙委任的な立法裁量権を与えたということを意味するものではない。そうではなく、「国民の厳粛な信託」は立法行為を制約する主権的立法原則要請を介して、国会における個々の立法過程と“同期しながら”常にそこに作用関連づけられているのであり、法律が施行されるその最後まで、その立法行為に付随してこれを規範原則的に拘束しているのである。したがってまた、「国民の厳粛な信託」は、国会が行う法律の委任という行為にも当然及んでいる。法律の委任も、立法過程における立法行為の一部であるからだ。

仮に国会が、内閣に委ねられた委任命令は国会による立法過程の圏外に位置づけられるのであるから、何であれ委任命令に関わる直接的な取扱いはもはや国会の手をはなれ、国会にはその法令内容に関与する必要も権限(組織規範)も存しないというように解釈するのであれば、そのような解釈は立法権を授権した「国民の厳粛な信託」を裏切るものである。またそのような解釈に基き、国会が委任命令に対する立法責任を回避することができると考えるのであれば、そのような委任解釈行為も、立法権を「唯一の立法機関」という規定性において授権した「国民の厳粛な信託」を裏切る行為であり、「唯一の立法機関」としての立法責任、責務を放棄することに他ならない。加えて、このような解釈はそもそも憲法原則に反する。なぜなら、立法権のあり方を拘束する「国民の厳粛な信託」という主権的要請原理によって、国会の内閣への法律委任行為のあり方も、 ― “法律の委任”が立法行為の一部である限りにおいて ― 国民によって、憲法41条によって根底的に拘束されているからである。

それゆえ立法者としての国会は、行政部門への法律の委任を行うことができるとしても、委任命令のあり方についての最終的な立法責任から逃れることはできない。その責任は国民に対する責任としてあるからだ。国会は、法律の委任によってもたらされる委任命令の実体的内容が、法律で定めるということの原則に従って、この原則に抵触することなく制定されていることの責任を、立法権を授権した主権者国民に対して負うのである。国会が「唯一の立法機関」である限りにおいて、― その規定を国会は勝手に変えることができない ― 国会は法律法令のすべての制定過程、すべての法令内容の委細にわたって、立法者としての責任を、立法権を授権した国民に対し負い続けるのである。

なお、立法権の授権と国民の信託の関係性についてのこのような考えに対しては、「それ自体がひとつの解釈に過ぎない」ということも言われるかもしれない。そしてそれはたしかに解釈以外のなにものでもなかろう。がしかし、どのような内容であれ、両者の関係性について述べるとすればそれは解釈でしかあり得ない。重要なことはそれが解釈であるかどうかではなく、あるいは解釈として絶対公平で中立的であるかどうかでもなく、― なぜならそのような解釈は存在しないから ― あくまでも解釈として、条文の読み方として、主権者の意思に沿うものであるかどうかということである。そしてそのことについて我々が解釈の一致を見出すことは決して困難ではないだろう。

では「国民の厳粛な信託」は法律の委任という立法過程上の行為に対し、どのように及んでいるのであろうか。「唯一の立法機関」としての国会が、法律の委任を行うに際して国民に対して負い続ける立法者責任とはどのようなものであろうか。
その内容については、委任命令の立法府的統制として次のような項目が考えられるのではないだろうか。
すなわち、国民の代表者機関としての国会が、主権者国民の立場にたって国民の視点よりみたときに、

  1  委任命令の法的規定性、およびこの規定性が必然的にもたらすであろう政治的、社会的、経済的な帰結
     や法的効果などが、この命令が附則づけられるところの法律条文の立法目的や立法趣旨に適合、合致
     しそこからの逸脱がないこと。

  2   委任命令の法的規定性、およびこの規定性が必然的にもたらすであろう政治的、社会的、経済的な帰
      結や法的効果などが、この命令が附則づけられるところの法律条文を包含する法律体系や法源などの
      立法目的や立法趣旨に適合、合致しそこからの逸脱がないこと。

  3   委任命令の法的規定性、法規範的意味性およびこれらが必然的にもたらすであろう政治的、社会的、
      経済的な帰結や法的効果などが、この命令が法律条文に附則づけられた後も、他の法律法令との
      関係性において法的調和、法的整合性を保ち、その結果として、我が国における制定法全体のうちに
      これを位置づけて見たときに、いかなる意味においても、そこに法令および憲法原則に違背する状況、
      事態を発生させることがないこと。

  4   委任命令の規定性を、上述の項目にとどまることなく、その社会的帰結性のあらゆる側面を包括的に
      一切の制約なく、国民生活全体のなかに位置づけてとらえたときにも、その規定性が、公共の福祉や
      国民および個人のまもられるべき正当な福利や権利、さらには国土や社会の安全、安寧を害する
      おそれの存しないものであること。ひろく民意や社会の大勢が異を唱えるような自然環境の破壊を伴
      うおそれのないこと。また、恣意的な国家作用や国政機関の自己目的的、自己都合的な事由、要素
      を含むものでもないこと。   
    
委任命令が、附則する法律の趣旨、目的に合致しそこからの逸脱がないということは当然であろう。しかしそれだけでは十分ではない。その上でさらに、委任命令という“分断法”によって、立法府の外部から法律に接続することとなる“行政府法令”が、法の制定過程における分離と再接続という作用過程を媒介することによって、その母体となる法律や法源に対してばかりではなく、我が国における法体系全体のうちにこれを位置づけ包括的にみたときにも、その法律附則性がいかなる法的な逸脱や齟齬、恣意的な法解釈、国民への不公正な取扱いなどを伴うものではないということが確認され、保障されなければならない。そしていうまでもなく、その確認、検証作業は、“立法者行政府”の政策視点や法解釈を無批判的に追認するのではなく、あくまでも国民代表の視点から、“立法者立法府”の視点から、“委任命令の立法府的統制”として厳正に行われるべきであろう。

 Lrx としての法律の根拠は、決してLryとしての根拠をカバーするものではない以上、そのことの確認を委任者たる議会が行うのは当然でしょう。仮にそのことまでをも信任するというのであれば、そのような信任概念、信任理解はもはや信任概念のあるべき範囲を大きく逸脱しているといわざるを得ません。それは信任ではなく、ただの丸投げです。そして国民は唯一の立法者としての議会がそのようなあり方で内閣を信任することを決して容認はしないはずです。
唯一の立法機関としての国会の役割そのものが実体的に大きく変わってきているということでしょう。その現実を直視することなく、その表看板だけを後生大事にする一方、その実体的な機能が大きく低下して、肝心の立法機関としての役割そのものが機能低下しているのでは困るのです。授権者としのて国民の立場はまったくありません。

なお上に述べた1から4までの項目内容は、前の回で(判決を受けて7)“法律の留保”という視点から、行政行為としての法令制定が満たすべき法的根拠性を分析した際に、LR(y1)/(β)という記号によって指し示したところの法的根拠性を、こんどは立法者国会および主権者の立場に立って、より深く掘り起こして明文化したものであるとも言えよう。両者は法律の趣旨、および厳格憲法解釈という視点からの要件性において重なり合うものであるが、見るものの立場が変わることによって、後者の視点ではより広い目配りのもとに、法律の根拠性が精査されることとなるのである。そこで、ここではLR(y1)/(β)と区別するために、これら1から4を総括して、LR(y1)/(ω)という記号で呼ぶことにしよう。(ωは「オメガ」というギリシア文字)

ここまで、憲法41条の規定を解釈することから出発して、国会の立法者責任が委任命令に対してどのように及んでいるかについて論じてきたが、ここで視野を押し広げて、法律本体の立法過程がどのような実態状況であるか、というところにまで目をやると、立法行為をめぐる国会と内閣の間の作用関係は、必ずしも「委任命令の内容」という事象局面に限定されるものではないのではないか、ということが見えてくる。これは、憲法41条の規定にもかかわらず、わが国で制定される法律の大部分にあずかって力があるのは、国会議員提出法案ではなく内閣提出法案であるという事実と深く関わる。とすれば、立法府の不作為という設問視点も、法案の提出というより立法過程を遡った局面からとらえなおされる必要があるのかもしれない。そこで考察の対象を政令(委任命令)の実体的内容から法律の制定状況そのものへと移して、この視点からあらためて国会の立法責任という問題を考えてみよう。

 誰が内閣提出法案を策定するのか
さて今日わが国において制定成立する法律の8割り、9割り以上は、国会議員の起案によるものではなく、内閣が提出した「議案」によるものであるということは、立法のあり方が話題となる際にしばしば指摘され、しかも多くの場合当然のことのようにして了解されていることでもある。そうするとここまで私は、政令(委任命令)について、それが行政行為による行政法令に他ならないという認識を根拠にして、政令に対する立法府の立法者責任ついて論じてきたわけだが、なんのことはない、大部分の法律そのものがある意味で、事実上すでに“行政法令”と化しているということもいえなくはない。というのも内閣が現実に提出しているのは、単なる議案ではなく法案であるからだ。しかしここにいう行政法令化とは、単に行政府としての内閣が法案を“提出している”、ということだけを指していうものではもちろんない。

問題は、これらの内閣提出法案の大多数が内閣提出とはいいながら、実質的に、省庁に帰属する行政官僚が主導し、起案作成したものであるという事実である。「内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出」することができるとしても(憲法72条)、そしてこれらの官僚が内閣総理大臣および内閣組織の下に帰属することで一定の行政上の権限をもつことを認めたとしても、そのうえで、これらの法案の実体的な制定性が、主権者である国民の視点からみたときに、その法案制定のあり方として、72条の前提の延長上に帰結する事態、状況として、全面的に容認することができるものであろうか。  

もちろん内閣提出法案といっても、国会の承認を経なければ法律として制定されないのであるから、行政法令化とはいえこの点において委任命令(現行制度での委任命令)とは決定的に異なろう。しかしそれはそれとして、大部分の法律が内閣(総理大臣)によって法案(議案)提出されながらも、行政官僚の手になる法案として起案、策定されていることは、法案が議員立法であるか内閣提出であるかという区分の以前に、わが国の統治原理のあり方に関わる根本的な問題を投げかけているのではないだろうか。なぜなら、一般に、その製作物がどのような性質、対象分野のものであれ、― 学術論文であれ、芸術作品であれ、工業製品であれ ― ある者が何かを始めから最後まで自分だけの意思と手で独自に作り上げてゆくという場合と、ある者が他者の手になる製作物を引き取り、おのれの名前をこれに冠して提出するという場合とでは、― たとえそれを批判検討し、なにほどかの修正や補足を新たに加えたとしても ― 製作行為のあり方として、まったく性質の異なる別々の行為というべきものだからである。  立法論

ではこの何かが法律法案であるとしたら、これら二様の製作行為の違いとは、国民にとって何を意味するであろうか。法律法案を策定し提出する行為者が一者ではなく二者となる場合に、しかも両者が法案の実質的策定者と提出者として分かれ、国民代表性の有無においても区分される場合に、その区分の絶対的な断絶性は製作行為の二様あり方に対して、どのような作用結果を及ぼすものとして理解すればよいであろうか。また理解すべきであるか。

そうすると、製作物が法律という高度に規範的な公共規則である場合、法律の事案対象がいかなるものであれ、法案をある者が自らが策定(作成)する過程では、必ずや種々の選択行為や判断が下されるはずであり、それらを相互に関連づけ組み合わせてゆくことで法案は形成されてゆくものと理解されよう。その際に、― これは後に触れる論点とも深く関わるので強調しておきたいのだが ― 策定者がある事案についてどのような基本認識をもつのか、その認識のあり方や認識の枠組みさえもが、認識者の価値判断の反映であり、固有の選択行為である。法案の策定とは、法案を策定する者が、この選択された認識枠組みに基き、法令化を要請するある社会的事案をめぐって、ひろく基礎的情報を集め、この情報がもたらす現状認識に基きつつ、何かと何かのどちらを優先するのか、何と何を関連づけ、比較し、考慮するのか、何と何を切り離し、何を算定や検討に組み入れ、または締め出すのか、といった多種多様な選択や判断を積み重ねることで、構築してゆくものであろう。この錯綜した作業過程のあり方こそが法案策定の、ひいては立法作業の実質的な中核部分になると言えるのではないか。

とすれば、法案策定者と法案の提出者を別々の行為主体としてとらえることは不自然であり、不合理でもある。第一、もし法案提出者が、これらの選択や事案の基本的な認識を他者に委ねてしまうのであれば、どうして国会に提出する法案について自分の言葉で語り、責任を負うことができるだろうか。というのも、法案化の必要性、法律化の必要性を認識することそれ自体がすでに策定者の政治的、政策的価値判断であり、立法行為における根源的な選択行為であるからだ。そしてそのような選択行為とは自らが、ときには迷いつつも行う主体的行為としてなされるものであり、単に自己以外の他者が行った選択判断の結果を引き受け、これを所与の前提として、表面的な手直しを施したりすることをいうものではない。

むろん完成形としての提出法案が、策定途中で行われたいかなる選択の痕跡も残さないのは当然である。しかしさまざまな選択過程における熟議や検討のあり様こそが、“決定稿”としての提出法案の規範的内容と方向性を決定づけているのである、という事実を否定することは困難であろう。そしてこのような認識の上に立つからこそ、憲法は法案の提出者に ―  国民の代表としての国会議員であれ、議会多数派政党の首長でもある内閣総理大臣であれ ― 国民の代表性という要件を求めているのである。法案の提出者とは法案の策定者であるという前提了解があればこそ、この提出者には国民の代表制が要求されているのであり、したがってここにも主権的立法原則要請は及んでいるのである。もっともここにおいて重要なことは、単に策定者と提出者が行為者として一致しているかどうか、という外面的な事実にあるものではない。法案の策定者が法案の提出者でなければならない核心的な理由根拠は、両者における二つの立法的行為が、行為通底的、行為内在的に意味連結されていなければならず、この内在的な相互拘束関係性を切断してしまうと、法案の策定、および法案の提出というそれぞれ行為そのものが、国民の視点からみたときに、それらの行為の根源的な存立性を根底的に変質させてしまうということにあるのだ。

であるとすれば、はたして、国民の代表性を有しない行政官僚、行政機関職員がその大かたを策定した法案に、“内閣提出”という名を冠することができるのかということは、― たとえ同法案に内閣法制局の厳格審査を受けさせ、あるいは内閣の構成母体である議会与党に法案を持ち込んで各種委員会の審査検討をくぐらせたとしても ― 「内閣」という概念を憲法テクスト厳密に解釈するかぎりにおいて、国家統治原理上の根源的な疑義を国民に突きつけているのではないだろうか。そこにおける策定者と提出者の切断は、主権的立法原則要請とは相容れないのではないか。(内閣法制局は法案の審査に対し重要な責務を負うが、それ自体は内閣ではなく国民代表性を有しない。) 註 立法学
というのも、 ― 繰り返しになるが、 国民の代表性を有するかどうかという条件が、単なる法案“提出者”に対する条件であるばかりではなく、法案“策定者”であるための必須不可欠の要件でもあるとするならば、そしてそのことが、「議案の提出」(憲法72条)行為のうちに含意されていると考えるならば、そのような法案の実体的成立過程そのもの対して、主権的立法原則要請の充足性が根源的な疑義として立ち現れてくるからだ。

たしかに憲法72条は、内閣総理大臣が法案(議案)を国会に提出することを許してはいる。しかし法案の提出という行為には、その法案の策定という錯綜した“立法的行為”が、切り離すことのできないの先行行為として連結しているはずである。では、法案の策定が行政官僚による行政行為によってもたらされたものであっても、この法案を内閣が「提出」しさえすれば、何ら問題はないのか。すでに述べたように、そのように両者を分離するとらえ方には同意できない。
そして以上の前提を踏まえるならば、今日の日本において、制定される法律の大部分が内閣提出法案によるものであるという厳然たる事実に直面したときに、もし我々が、内閣による法案提出行為に行政庁がどのように関与し、またその行政政策的意図はなにか、という視点からの問題意識を持つことなく、法案の提出という複合的実体行為が、あたかも文字通り単なる「提出行為」に過ぎないかのように決めつけてしまうことは、しかもそのようなきめつけによって、内閣提出法案に向けられる一切の立法原則的疑義を回避することができると考えるならば、そのような思考のすりかえは、現実の政治状況に触れることのない自己欺瞞的な、あるいは弥縫的な思考態度であるとさえ言えよう。
そこで以上の認識に基いて、現下の内閣提出法案のあり方、およびこれに対する立法府の対応が、なぜ立法原則における主権的疑義を惹起するといえるのか、その根拠を「議案の提出」を起点してさらに掘り起こしていってみよう。

 誰が委任命令を統制するのか
まず一つめの根拠はその端緒を、委任命令をめぐる法律の制定過程状況のうちに見出すことができる。ふたたび委任命令、つまり政令や省令などについて論じることになるわけだが、今回は立法過程をさかのぼって、“内閣提出法案による委任命令の規定”という地点から考えようというのである。すなわち、ある法律が内閣提出法案に始まるという事実は、この法律中のある条文がその委細規定の定めを委任命令に委ねると定める場合に、当該委任命令に対しある特別な作用関係性にあるものとして考えられるであろう。というのも、そこにおいては次のような状況構造が想定されるからだ。

仮にもし行政官僚集団が内閣を介してある法律法案を議会に提出するのであれば、― その間には立法府による審査を含めてさまざまの事前審査段階があるわけだが、そのことはおくとして ― 当然その際に、議会の承認を確実に受けられるような内容においてこれを提出するはずであろうし、そのような内容において法案を策定、作成することは、法律の委任を設けずに制定する場合に比べて容易でもあろう。なぜならこの場合、法案は基本的に法の趣旨や目的を一般的、抽象的に述べた上で、最小限の必須の規定を定めれば十分に事足りるのであり、それ以上の細部の規定に関しては、委任命令に委ねてしまえばよいからである。法案の策定者は、法律の細かな規定について、これを法律の委任に委ねることをまさに法案の策定の段階で、法律の規定として条文中に盛り込むこができるのであるから、法案の提出時においては、異論の出そうな細かな規定にまであえて踏み込む必要はない。法案提出者はあらかじめそのような規定については先回りして、すべてこれを委任命令に委ねる手はずを法案中に盛り込めばすむだけのことととなる。ただしそのような規定条項が、法律全体のなかで最重要の核心部分であるという場合もあり得るだろう。国民健康保険制度における保険料の法律規定もその一つである。もっとも官僚の立場にたてば、法律が国会の承認を受けたのちに、肝心かなめの規定を委任命令として自分たちの手で仕上げることが、好ましい筋道であろう。誰であれ、仕事はスムースに遅滞なく行いたいと願うことは当然であり、立法府との軋轢や摩擦なく法令化するに越したことはないからだ。

しかしこのような状況は、国会を「唯一の立法機関」と定める憲法の規定からみるとき、多分に逸脱的な事態であるとはいえないであろうか。というのは、「法律の委任」という行為は本来、「唯一の立法機関」としての国会が立法した法律について想定され、法規定されているはずであり、であればこそ内閣への“委任”も国会による委任行為として名実ともに成立するわけであるが、法案の策定、提出が内閣によってなされるのであれば、ここにいう法律の委任とは事実上、“内閣による内閣への委任”という、不可思議な行為となってしまうからである。しかし、いかなる主体も自分自身に対して何かを委任することはできないのだから、法案と委任命令の策定主体がいずれも内閣であるとすれば、委任という言葉はここで使われるべきではなくなろう。いや、これも正確ではない。法案の策定者が実態として行政庁の官僚職員であり、法律制定後に行われる委任命令の制定も行政官僚が行うのであるならば、この過程状況は内閣による、内閣から内閣への自己通達ということさえできない。それは事実上、― 内閣という権威を借りつつ ― 単に官僚による自律的規定に過ぎないからだ。

法律の委任という法行為そのものが、行政官僚によって法案上にすでに指定されているということは、この委任判断さえもが、立法府の選択でもなければ内閣の選択でもないということになろう。しかしある規定を委任命令に委ねるかどうかという判断は、「唯一の立法機関」としての議会にとって本来、他者に委ねてはならない根底的な判断であり、立法権限機能である。それさえをも他者に委ねてしまえば、議会が委任者であるということさえもはや言えないのである。しかるに議会はここで、どのような規定を委任に委ねるかの判断すら下してはいない。立法府が、どのような法規定を内閣への委任に委ねるのか、委任にまわすのか、という判断さえ下していないのであればそのことは、そのような過程を経て法律を制定した議会が立法権を保持していると真にいえるのか、立法者的判断の主体として存立しているといえるのか、根源的な疑問を国民に投げかけずにはおかない。他方、官僚機構に国民の代表性はなく、したがって議会の信任も及ばないのだから、国民の意思はそれらの委任命令の制定過程のどこにも見出されないことになる。当然、そのようにして制定された法令に主権者国民の意思が反映されているのかということに対しても疑義が生じてこよう。

しかも内閣提出法案が“法規”としての性格を有する法律条文において策定準備されるとき、つまり“国民の権利を制限し、あるいは国民に義務を課すような法規定”として準備されるとき、そのような法律制定の過程は、憲法41条の拘束規定を根源的に否定する立法の様態と断ぜざるをえない。 なぜなら、法規としての法的性格を有する法案は、そもそも法案自体が主権的立法原則要請によって議員提出法案でなければならず、しかも法律の委任という行為そのものが限りなく回避され、法文から排除されていなければならないところ、もしこれが内閣提出法案として始まり(上程され)、その上この法案によって法規の核心的な規定部分までもが行政立法に託される運びとなるのであれば、憲法41条の定める立法権への拘束原則は名実ともに反故にされたものと理解せざるをえないからである。

なお、立法権の保持についてのこのような疑義に対しては、“内閣提出法案の議会承認それ自体が、委任命令に対する立法府の判断を、立法府の意思として最終的に反映しているのではないか”、という反論があるかもしれない。つまり、法律の委任がたとえ立法府自身の選択ではないとしても、最終的に国会ががこれを承認するのであれば、国会の意思判断としてなんら問題はないのではないか、という論理である。なるほど理屈としてはそのようにも言えるかもしれない。
しかしそのようにとらえることによって法律の委任についての議会承認が、政令に対する立法府の“包括的、かつ最終的な承認として認知され得たことになる”というように主張するのであれば、そのような主張は、法律の委任という立法行為を根本的に歪めることであり、不当に小さくみせることである。そのような反論によって、法律の委任を承認することが、委任に委ねられることなく制定された“地の法律規定”と同様に、政令が包括的、最終的に根拠づけられることになるのであれば、そのことは、委任命令の法律法令としての拘束力を考えるときに、国民の視点からみて到底説得力のある反論とは思えない。そもそもそこにおける国会の意思判断、および承認の実体的な内容とは何なのか。

いうまでもなく、政令であれ省令であれ、委任命令が法令としてあることによって発する法的な拘束力、国民を拘束する作用力は、法律となんら変わるものではない。政令や省令であれば国民はこれを軽視することもできるということにはならない。一方、法律のもつ規範的拘束力の根拠はなにかといえば、あくまでそれは法律が国民代表者議会であり、「国権の最高機関」である国会において議決、採択されたという事実に拠るものであろう。(憲法が国会を「唯一の立法機関」として定めた理由についてはすでに述べた。) 
とすれば委任命令としての政令はこの原則の例外であり、委任命令であるというただそのことにおいて、その内容を議会で審理されることもなく、法律法令としての適理性と拘束力を、議会での制定性を免除されつつ先取した法令であるといえよう。では一方において、法律の有する強固な法的拘束力の根拠が「国会における制定性」に求められていながらも、法律の一部分の制定が「法律の委任」によって内閣へと託され、それが事実上行政庁によって制定されることになるのであれば、この委任命令が法律法令として保持しなければならない法的拘束力の根源的、包括的な法的根拠はどこに見出されることになるのか。

すぐに予想される回答は、上にも述べたように、法律の委任もそれが議会で採択された以上は法律の決定であり、その出自が内閣提出法案であろうとなかろうと、法案の採択を踏まえて法律の一部の制定権が行政府に移行することも法律の意思に他ならない、というものであろう。その「法律」採決の背後に「議会の意思」が、さらには「国民の意思」が確保されているとみるわけだ。しかしこの理屈は、その法案を提出した主体が議員であれ、内閣であれ、根源的に成り立たない。なぜなら法律の委任という法行為を議会が承認することが、そのことにおいて、政令が法律法令として成立しているということの包括的、最終的な法的根拠ともなるということは、― LR(y1)/(β)、あるいはLR(y1)/(ω)において根拠成立しているということは ― この政令/委任命令が未だ制定されていない以上は原理的に不可能であるからだ。

たとえ国会が国権の最高機関であり、唯一の立法機関であるとしても、国会はそのような法的お墨付きを、いまだ未制定の委任命令に付与することは絶対にできない。しかも、「法律の委任という法行為」の指示が、委任の適用条項の選択をも含めて、当該政令を制定することになる内閣/行政庁そのものによって選択され、法案中に準備用意されているのであれば、議会がそのような内閣提出法案を採択したからといって ― もちろん国民の厳粛な信託を受けた国会はそのような採決を行う権限を授権されているわけだが ― 委任命令に対するいかなる立法府的統制作用もそこに見出されるわけではない。議会がそこで行ったことは、内閣提出法案において、ある法律条文規定が法律の委任に託されていることを事後承認したというただそれだけのことであり、それ以上の何ごとでもないからだ。

とすれば、そのようなあり方における議会の採決が、“その採決において、この政令の議会における法令制定性を免除させつつ、しかも法律法令としての拘束力根拠ともなり得ている”、とか、“この政令が法律的法令として成立しているということを言うために必要な実体的な法的根拠を、包括的、最終的に付与したことでもある”、などと解釈することはできるはずがない。そのような解釈は、憲法41条、および41条を支える“主権的立法原則要請”に真っ向から反するものであり、議会に立法権を授権した主権者国民を納得させることは不可能だからである。またそのような解釈は、国民の視点から見て、あきらかに立法権についての恣意的な拡大解釈であり、国会を唯一の立法機関と定める憲法規定さえをも有名無実化させるものでもあろう。のみならず、そのような解釈行為は、立法権の授権を制約する「国民の厳粛な信託」そのものを根底から崩壊せしめる。

さらに言えば、法律の委任を認める議会での最終的な法案採決そのもののうちに、委任命令の最終、包括的法律根拠を認めるような考え方は、法一般について国民の大多数が抱く常識や良識の感覚からみても、大きくかけ離れ、納得できるものではないだろう。なお、法律の委任についての議会の採決を「法律の根拠」として置き換え、了解すれば、この「法律の根拠」は前回で、政令として制定されることになる行政法令が満たすべき法的根拠性を、“法律の留保”という視点から三つの局面に分けて論じた際に、LE + LR(x) という記号によって指示した法律の根拠概念と同一のものであるといえよう。
つまり前回は、法律の根拠を受け取る受け手としての行政府の視点から論じた、その同一の法的根拠性を今回は立法府の視点から論じているわけだ。ただしここにいうLR(x)としての法律の留保は通常、国会から行政部門への委任LEにともなって付与されるものであるが、― 仮にこれを LE(D) + LR(x) と呼ぼう ― 内閣提出法案にあっては事実上、行政官僚によってあらかじめ法案中に“仕込まれている”のであるから、これについては、 LE(A) + LR(x) とでも呼んで、両者を区別して認識する必要があろう。これは、LR(x)としては同一であっても、その委任行為の“真の”担い手、真の委任者において異なり、したがって法律の根拠付与(法律の留保付与)のあり方において異なるからである。

もっとも、LE(D) + LR(x)であれ、 LE(A) + LR(x)であれ、法律がある規定内容を政令化(委任命令化)するという決定を行うさいに、決してこれらの“留保”のみによって、直ちにこの法令の包括的な法律的根拠となるものではない。これについては前回詳しく論じたとおりである。そもそも、「法律の委任という法行為」をめぐるそのような国会の採決のなかに、委任命令化の許認を上回るどのような国民の意思が、国民の代表議会として担保されて得るというのであろうか。率直にいって、国民の視点からみれば議会の採択とはこの場合、極めて不満足、不十分なものであると言わざるをえない。それゆえまたLR(x)のあり方がどのようなものであれ、委任命令に対しては、その法令としての実体的あり方に対し、立法府的統が厳しく要請されてこなければならないことは言うまでもない。

繰り返しいうと、法律を委任する国会はこの場合、内閣が提出した法案を策定したわけでは勿論ないから、法律の委任という指示も国会の意思で規定されたものではない。国会はそれをただ追認しただけであり、となると国会は実体的に法律の委任者ですらなく、単なる名義貸し人のようなものに過ぎなくなる。このような表現は、適切さを欠くと言われるかもしれないが、「唯一の立法機関」としての国会がそこで、本来果たすべき立法機能を手放していることを否定することはできないであろう。また名義貸し人をいうなら、法案を提出し、委任命令を制定する内閣も同段である。内閣はそこで事実上、法案の策定にも、委任命令の策定にも実質的な当事者としては関与してしていないからである。法案の提出者は文字通り、ただ「法案を提出している」に過ぎないからだ。(1)

そしてこれらのことが例外的な事例ではなく、むしろ法律法令制定の大勢を占める状況であるならば、憲法41条のもと、主権者である国民はこのような立法状況を容認することはできないであろう。なぜなら、法案の策定から法律の制定、法律の委任、委任命令の制定という一連の法的国家作用の過程を通して、国民の代表性こそが最も重要な作動因として機能すべきであるのに、現実にはこの主権的契機は“内閣の法案提出権”のもと、行政官僚の関与、介入によって限りなく薄められ、縮小されてしまっているからである。かてて加えて、法律の委任条項が内閣提出法案の中に組み入れられていることで、上にも述べたように、当該法律体系の核心的な部分の統制が法案の策定段階から行政部門に取り込まれてしまうということもあるだろう。しかもそのようにして行政部門への委任に託される法令規定が、まさにその法律体系の根本的な性格や規定性を形成する、ということも十分にあり得ることなのである。

さて主権者の立場から、内閣提出法案に始まる委任命令の制定過程のあり方をみてくるとき、立法過程全般に及ぶ根源的な疑義が見出されるということ、この事実そのものにこそ我々は向き合うべきであろう。むろん、国会が唯一の立法機関であるべきならば、そもそも法律の委任という行為は、内閣提出法案であろうとなかろうと、それ自体においてなにがしかは逸脱的な行為ではある。しかしこの逸脱性は、法案が行政府によって準備され、しかも国民の代表性を有しない行政官僚によって事実上策定されるに至って、単なる逸脱性を越える。そこにおいては、法律の委任という法行為そのものが、すでに立法府の意思とは離れたところで、行政部門によって決定されており、したがって立法権そのものが包括的に行政部門に移転しているのではないかという疑念を払拭できないからだ。(2) (3)


他方しかしながら、委任命令についての取扱いを含めて、制定される法律が総じて内閣提出法案によるという現状については、次のような趣旨の反論が予想されるに違いない。すなわち、
“今日の複雑化し、多様に専門分化した高度産業社会、およびそこにおける市民生活社会にあっては、社会制度的なインフラとしての法律法令も細分化を余儀なくされ、法案や政令などの策定作業も事案についての遺漏ない高度の専門的知識、包括的理解力が要求される。こうしたなか、立法作業が社会の広範な要請に即応して不足なく十全に行われるためには、ひとり国会、もしくは内閣だけの人的資源をもってしては到底遂行不可能であり、法の扱う対象分野について専門的な知見や基礎的情報を有する所管の行政省庁の参画、場合によっては外部専門家の助力なくしてはよくこれを為し得ない。とすれば、法案策定における国民代表性の有無や濃度だけを絶対規準にして、立法過程のあり方を評価することは、このような現実を直視しない理念に走り過ぎた態度であり適切を欠く。そもそも法案策定に必要な専門知識がなければ、法案など作りようがないのであり、通り一遍の知識や理解力で立法責任を果たすことは決してできない。”

表現はさておき、このような主張の趣旨は十分に根拠があり、当を得たものであろう。実際のところ、我々は国会議員や国務大臣が、許認可の対象となる食品添加物の選定や、健康保険が適用される医療行為の範囲を画定するすることなど想像もできないし期待もしない。それに、「選挙で選ばれない官僚が、独自の判断をする正当性は、その専門能力を通じての効率性・有効性と、必然的に党派性を帯びる政治家や政治的決定から中立性を確保する必要があるからである。」(1)という指摘にも耳を傾けるべきかもしれない。翻って、“選良”としての代議士はどうか。自民党議員の約4割はいわゆる2世議員であるそうだが、個々の政治家において、“国民の代表”という絶対的観念がその裏付けとして、一体どのような質の客観的な国民承認性根拠、および選挙獲得投票数に基いて言われているのか、その大部分は数的概念においてさえ、国民が相当の信任を託すような数値に遠く及ばないこと、これまた否定できぬ事実であろう。(自動車を運転したり、学校の先生になるのにも国家試験はある。ではなぜ国会議員には不要なのか。責任の重さ、税負担の大きさを考えれば理解に苦しむ。すべての代議士立候補者に適用される、「立候補資格国家試験制度」を導入すべきである ― 最低限、自分のことを立法府の長である、などと繰り返し公言する内閣総理大臣を生みださないためにである。) 

となると、行政官僚が高い職務使命感と自己規律を堅持する限り、法案や政令の内容が恣意に傾くこともないであろうから、ここは人間性善説を受け入れて、法案策定者の国民代表性をあえて問題視するには及ばない、と割り切ってしまえば良いのであろうか。内閣提出法案による法律制定のあり方は、そこに含まれる法律の委任の取扱いを含めて、なんら問題視する必要もないであろうか。そういうわけにもいかないであろう。性善説は特定の個人が自分の人生訓で採用するぶんにはともかく、これを国家権力作用に対して不用意に適用することはこの権力を負託し、かつこの権力に拘束される立場にある国民全体にとっては危険すぎる選択だからだ。第一それは権力分立原理とも相容れない。それに、委任命令の策定のなかに逸脱や恣意の要素がないことを、国会は何を根拠に、どのような行為、制度によって保障するのか。そのことは現にいま保障できていると断言できるのか。法案の制定内容が高度の専門的な知見を要求するというそれだけの理由から、そのような法案の策定は全面的に行政機関に委ねざるを得ないというのであれば、その必要性に一定の根拠があるとしても、唯一の立法機関としてのあまりに安逸で無責任あろう。

またこの必要性を、議院内閣制という国政の枠組みによって根拠付けようとする説明も受け入れることはできない。
なぜなら、たとえ議院内閣制が「行政権の成立根拠を、議会(国会)の信任に置く制度」(飯尾潤)であるとしても、「議会(国会)の信任」がLE(A) としての「法律の委任」を媒介して、委任命令の最終的制定権としての「行政権」にまで及ぶと解されるのであれば、そのことは立法権の一部が事実上、法案の段階から行政庁に転移していることを意味するからだ。その場合、LE(A)の背後に横たわる行政庁の意思によって、局所的であれ、議会は「唯一の立法機関」という立場を完全に手放すことになる。そうなれば、「法律による行政の原理」までもが骨抜きにされ、この行政原理は、「『法律の委任』による行政の原理」へと変質し得よう。そのとき「法律」はもはや行政に対する外部制約原理としての機能を完全に喪失し、立法府と行政府は限りなく一体化してしまう。しかもそれは事実上、行政庁によって統制された一体化であると言える。無論国民はたとえ限定的にせよ、立法府と行政府がこのような力学的関係性において作用し合うような議院内閣制を支持することはできないし、支持するべきでもない。議院内閣制はもはや権力分立の機能側面を失い、国権の最高機関としての立法府は事実上、行政府、行政庁に統制されることになるからだ。したがって、「行政権の成立根拠」という根拠観念のうちに、委任命令の最終的、包括的制定権限、制定権力を包含させてはならないし、ましてや「議会の信任」を、そこでの包含根拠に使うことは認められるべきではない。

あるいは、議院内閣制における力学構造に根拠を求める説明はどうか。つまり、“議院内閣制では議会で最有力の政党が内閣を構成しているのだから、この内閣が提出した法案が高い確率で議会採択されるのは党員の頭数の問題として当たり前である”、という理屈だ。なるほどこの言は現象の説明として誤りではないだろう。しかしその法案の多くが、委任命令の取扱い全般を含めて、官僚によって構想され、準備されたものであるならば、この議院内閣制は政権与党や内閣にも増して、行政省庁にとって大変に都合の良い ― 都合がよいのは、法案の提出に内閣を使い、議会の内閣への信任を適宜利用することで、委任命令にも主権的原理が確保されているかのような外観を装うことができるからだ ― 法律制定機構として実体機能しているのではないか、という側面も見過ごすことはできなかろう。この場合、政権の交代を含め、どの政党が政権与党であるかということは、官僚にとってはほとんど関係ないことだからである。
それゆえ、議院内閣制における立法過程の了解として、前者の“当たり前”によって後者の”好都合”がおおい隠され、意識化されないような説明解釈は、これを主権者の視点からみるとき、思考のありようとして皮相的かつ、迂闊に感じられる。なぜならそこでは、内閣提出法案を介して議決された法律の委任に対し、「唯一の立法機関」としての国会が、与野党間の政治駆け引きや勢力分布はどうあれ、いかにして国民代表議会としての審議機能を果たし、主権的立法原則を貫徹したのかということが顧みられていないからである。

そしてそうであればこそ、LE(A)によってもたらされた委任命令の最終制定のうちに、議会の“お約束的な信任付与”を読み取り、しかもこの信任付与を、議院内閣制が拠って立つところの、議会と内閣との信任的関係性そのものに根拠づけるような、そのような立法過程の説明や了解は、権力分立の原則からみて斥けるべきなのである。「唯一の立法機関」としての国会は、委任命令を含むいかなる法令であれ、時間的要因に制約されることなく、それらの法令の適理性を審査しなければならず、またそのようにして委任命令の最終制定権、最終承認権を保持することで、国民に対する立法責任を果たすことができるからである。それとも国民は、このような了解性において議院内閣制を制定したのではなかったのか。

以上に述べてきたことに加えて、省庁の官僚と与党・内閣の代議士の間に働く一種の逆転的な力学関係性が、立法過程状況に対し、小さからぬ影を落としているのではないか、ということも軽視できないことに思われる。適切な例ではないかもしれないが、これは、たとえば官僚の献身的、全面的協力がなければ、はたして国務大臣が、国会(委員会)における政府答弁さえ十分にやりおおせることができるであろうかという観点から、両者の関係性を想起すれば納得できるであろう。一般に複雑で錯綜した政治・行政過程の実像をとらえる際に、このような人間心理の機微に触れてくるような要素や、個別状況におけるさまざまの駆け引き、多種多様な作用因、利害関心的契機を過小に評価することは決してできない。
当然ながら、統治システム全般の働きも単に機構的、工程表的なものとしてとらえるのではなく、そこに関与するさまざまの組織人の多種多様な動機や意図、利害関心などに制約されつつ展開する、錯綜的な人間営為としてとらえる視点も必要にもなってこよう。

そしてこの視点を、議院内閣制における立法過程の考察作業に当てはめて言えば、法律の制定という国家行為も、分立権力構造のなかで相互作用するさまざまの人間的、組織的諸関係の、いわば行動心理学的な人間行為側面をも直視することで ― 言葉のひろい意味で我々のだれもが持つ人間的弱さの側面も含めて ― 、これをその本来の主権的立法過程へと統制してゆくための実践的な方途を探索し、構想してゆくことができるのではないか、ということになる。つまり立法過程とは、単に政治学や法律学によってのみ扱われていればよいものではなく、社会科学、人間諸科学を総動員して取り組むべき複合的問題ではないか。そのような総合的な人間科学的な知見や理解を踏まえたうえで、立法部門は官僚による行政的意思や判断をどこかで、“方法として”統制する回路を確保してゆかなければならないのである。さらにはそのような状況を主権者である国民が最終統制してゆかなければならないのである。(寺澤)

(議会と国民、あるいは議院内閣制と国民の間にも、個別の実体的立法運動過程において、もう一つのチェックアンドバランスの機制が、国家統治における最終的な抑制と均衡のメカニズムが設けられなければならないのではないだろうか。洋の東西、歴史の古今を問わず、権力とはその主体が何であれ、常に何らかの隙間を見付け、隙間から入り込み、最も脆弱な部分を突いてくるものである。LE(A)による法律の委任とは、主権者である国民からみてまさに、行政権力が侵入する国政の隙間に他ならないのである。“不作為の体系”が跋扈しはじめる最初の隙間に他ならないのである。)

国会はどのように立法責任を果たし得るのか
では、ある法律法令を法律の委任に託するという法の定めが、内閣提出法案によって法律制定されたとき、そのようにして委任に託された委任命令の制定が、事案についての必要十分な専門的な知見、洞察、理解を満たしつつ行われながらも、同時に主権的立法原則要請を充足していると言い得るためには、そしてそのことを唯一の立法機関としての国会が自己確認し得るためには、何が行われなければならないのであろうか。そのような確認作業は、いかにして実体的な制度的行為として具現化されるであろうか。そうすると、その骨子となる行為内容は本稿中すでに示唆されているといえよう。

すなわちそれは、先に委任命令の制定が満たすべき法的根拠性を立法府の立場より洗い出した際に、LR(y1)/(ω)という記号で総括した論点の確認作業を、国会が国会の行為規範として引き受けるということである。そしてこの作業を踏まえて、当該委任命令が実体的法内容において法律法令として成立していることを、国民に対して宣言し保障することである。当然これを行うためには、いったんは制定された委任命令をその施行前に議会に引き戻し、法案としての政令が、LR(y1)/(ω) において成立しているといえるかどうかを、審査、検討し、さらには必要があればこれを修正することができなければならない。そしてその確認作業は与党と内閣の宥和的、協調的な関係性を遮断することによってとり行われなければならないであろう。またその実現のためには、さまざまな制度的な創意工夫を新たに凝らすことも必要になってこよう。いずれにせよ、そうすることによって国民代表議会は、委任命令を行政府に委任することで終わりにするのではなく、「唯一の立法機関」としての立法責任を国民に対して果たすことができるのである。(このようにみてくると、議会と内閣の関係性をあらゆる国政状況において、信任という観念によってのみ単独的に、無反省的に規定することは、必ずしも適切ではない。) 

では国会自身に対するこのような行為規範の定めとは、はたしてこれをどのように実体化すればよいのであろうか。国家権力を縛るという法の趣旨から言えば、この定めは本来憲法においてこそ規定されるべきであろう。しかし憲法の改正は手続きとして困難であり、手間もかかかる。そうすると、より簡便な方法はこの定めを国会についての法律、「国会法」において制定することではないか。国会法という法律に、国会を行為規範的に拘束する条項が加えられることに、手続き上の障害がないのであれば憲法原則にこだわる必要はないからである。
そこで国会法をみてみると、主としてこれは国会の組織、運営、権能、議事手続きなどについて規定した法律であり、国会の立法行為そのものに対する行為規範的な側面はほとんど見出されない。これはなぜであろうか。推測するに、国会は「国権の最高機関」であり、「唯一の立法機関」でもあるのだから、国会の立法行為のあり方を縛る法規は必要ないというふうに考えられているのかもしれない。

しかし国会の考えがどうあれ、国会の最重要の使命は法律の制定にあるのだから、主権者の視点よりみれば国会法が、単に国会という国家機関についての組織規範にとどまることなく、立法行為そのものに対する実体的な行為規範として制定されていることに何ら不可解なことはない。それどころか、立法行為が国民の厳粛な信託を裏切ることなく行われるように、国会法が法律制定行為への規範的指針やわく組みを与えるような定めとして立法されていることは、この法律のあり方として主権者の利益に適うもっとも望ましい制定様態であろう。とすると現在の国会法のあり方は、この見地よりみて、主権者国民を満足させるような行為規範的な定めとして十分であるとはいえない。その最たる理由のひとつこそ、他でもない、国会法が委任命令に対する適切な立法者責任を国会に課していないということなのである。

そうすると、ここにおける問題構造は一見したところ、国会が自身の権限において行う法律の委任に対し、― この権限はそもそも国民が国会に授権した組織規範のひとつであるが ― 新たに義務を課すような定めを自ら制定するのかどうか、という自己規律の問題のように見えるかもしれない。そして国民の立場からみれば、国会が立法者責任を自己認識することによってこの法規定を自ら制定することが、もっとも望ましいことではあろう。すなわち「唯一の立法機関」としての国会が、法律の委任を行うことに伴い、国民に対する新たな立法者責任がそこで発生していることを自覚し、この自己認識に基いて、国会がそれらの委任命令の制定適否性を国会自身に向けて問いただしてゆくのである。ただし国会は「唯一の立法機関」であるのだから、どのような法律を制定しようとしまいと、その判断は国会の権限に委ねられるべき問題であるという反論もあり得よう。その場合、この選択は国会の裁量に完全に委ねられることになるわけだ。ではこの行為規範の制定存否は、包括的に国会の立法権に委ねられるべきことであろうか。国会が国会の裁量判断において自主自律的に決定すればよいことであろうか。そしてその判断がどうあれ、国民はそれを従容として受け入れればよいのだろうか。受け入れるのみであろうか。

そうは思われない。というのもこれは決して国会が立法権を行使してどのような法律を制定するのかしないのかという、立法権限上の問題ではないからだ。そうではなく、ここで問われているのは、委任命令に対する立法府の立法責任をめぐって、この国会に立法権を授権した委託者国民と受託者国会との間に生起する、両者間の信託関係そのものに関わる問題であるといえよう。したがってこの視点よりみれば、国政の受託者としての国会が、委託者であり主権者である国民に、この授権的信託関係そのものへの不信を抱かせるような不作為を選択することは、許されざる裁量行為であると言わねばならない。なぜなら、委任命令に対する立法府の統制欠如は、国民から国会に信託授権された立法権の存立基盤性そのものを揺るがしかねない信託原理的問題であるからだ。それゆえ、国会が行為規範条項としてのLR(y1)/(ω)を法律制定するのかどうかは、主権者であり委託者である国民との信託関係性においてみれば、国会の立法権の権限範疇を超えた問題であり、国民によって命じられているところの他律的な問題に他ならない。委任命令に対する議会の統制は、国会の自覚や裁量に委ねて済むことではなく、終局的には国政を「国民の厳粛な信託」において委ねる主権者国民によって監視され、統制されるべきことなのである。法律を制定するという行為は、国政における中核的行為、国政のなかの国政的行為であり、そのような国家行為に対しては「国民の厳粛な信託」が最も厳格に充足要請されるからだ。

仮に国会が憲法上にそのような義務規定の存しないことを根拠にして、この行為規範の法制定を斥けるのであれば、そのような姿勢は国民の信託を裏切る不誠実な対応であり、法の問題であること以前に、そもそも「唯一の立法機関」としての自覚や矜持の問題ではないかとも思われる。また憲法がそのような議会の選択を積極的に支持とも考えられない。
憲法が国家の基本典範として、大きく二つの側面から構成されることは以前にも述べた。ひとつは、憲法が宣言し定める国家の基本理念や国民の基本的権利の保障に関わる原則の側面、いわゆる憲法のなかの憲法の側面であり、いまひとつは国家機能を分権的に区分構成した上で、それらの機能を担う各々の国家機関の基本的な役割やあり方を定める組織規範としての規定側面である。このうち後者の組織規範についていえば、ある歴史的時点において制定された憲法が各機関の細部委細にわたる規則規定たりえることは不可能であるし、そうであればこそ例えば議員の定数、選挙方法、歳費などは個別の法律がこれを規定している。とすれば国は時代社会の変遷とともに顕わとなるその足らざる点を、法律改正などの手段も組み合わせながら臨機応変に補強したり、補完してゆけばよく、またそうしなければならないであろう。「法律の委任」に関わる規定はまさにそのような規則のひとつである。したがって、憲法に委任命令に対する国会の定めがないことは、多くの法律法令が政省令に委ねられている今日において、現在の国会がこの義務規定を免れることの根拠になるものではない。

すなわち、日本国憲法が命令委任に関して国会の立法府責任行為を特に義務規定していないからといって、国会がその責務から永遠に解放されているなどという解釈を憲法から引き出すことはできず、むしろ現憲法はそのような法規定が追加されることを強く推奨するはずである。というのも、「唯一の立法機関」としての国会の実体的なあり方が、憲法制定の当初から大きく変質した(と考えられる)今日、「唯一の立法機関」としての立法者責任を再確認し、明確化する旨の法的整備、法的対応を行うことこそ憲法の精神を継承実現するものというべきだからである。そうしてこそ、国会を唯一の立法機関と定める41条条文の理念は、夥しい数の内閣提出法案や委任命令にもかかわらず、その空文化を回避できるからだ。したがって、国会が国会法においてこの義務規定を賦課するとしても、そのことが憲法原則との間にいかなる法的齟齬も摩擦も起こすものではないことは明白であり、その反対に、現行憲法を盾にしてこの立法を否認することこそ、むしろ憲法の定める権力分立の原則に抗うものであろう。

命令委任という問題

なお、ここで提案されていることは国会への“命令委任”の要求 ― 国民が議会に直接的にある法令の制定を命令すること ― であり、立法府に対する不当な介入であるという指摘がなされるかもしれない。これついてはどうか。
国民が国会に対しある特定の法令の制定を“命じる”ことは、たしかに命令委任の疑いを引き起こすものであろう。となるとこの要請を行為の外観形式でみる限り、この要請行為は議会によって斥けられるということになるのかもしれない。
ただし国民の視点から言うと、命令委任の禁止という議会制民主主義の根本原則が成立するためには、それに先立って、議会の基本的なあり方や、議会による立法行為の実態状況が、ある前提要件を満たしていなければならず、そのことを不問に付しつつ命令委任の禁止だけをいうことはできない。ではそれは何か。

すなわちそれはこういうことであろう。そもそも国民代表議会において立法という国家行為が成立するためには、議会と国民との間に厳粛な信託関係が保持されているという状況が同時に成立していなければならない。むろん国会はこの信託において憲法の理念と諸原則を遵守することが期待されている。国会はこの信託関係の土台の上に国政としての立法行為を行うのであり、国民はこの信託的な関係性が満たされることにおいて国会への命令委任を自らに対し禁じるのである。この信託関係が成立していてこそ、議会は国民の介入を受けることなく、議会の自主独立を保ちつつ、自律的立法行為を許されるのである。しかしこのように言っただけでは正確ではなく、十分でもない。なぜなら立法行為への「国民の厳粛な信託」とは決して所与の、無媒介的な前提としてあるものではなく、また無時間的な、あるいは時間を超越した静態的関係概念でもないからだ。「国民の厳粛な信託」とは決して国会の活動、行為全体に対する約束された与件としてあるものではない。それは事前的な立法承認権を付与し、認めるものであっても、制定された法律に対してまでこれを自動的、盲目的に事後承認するような認証根拠としてあるものではない。そうではなく、それは個々の立法行為と同期しつつ、信託的関係であることにおいて、それらの行為を制約する関係作用、関係枠組みとしてもあるべきものである。そしてその作用の実効的な働きの上に、両者の信託的関係性はその都度成立し、その成立の上に命令委任の禁止は成り立つのである。したがってこの信託関係は議会の立法行為において、単なる静態的な関係概念ではなく、第一義的には国民と議会の間を規定する動態的な作用関係概念である。信託という観念はだから二重の、重層的な意味性を担っているともいえよう。

以上を踏まえて、“命令委任の禁止”をめぐる国民と国会の関係を、“権利義務関係”という枠組みでとらえてみよう。すると、命令委任の禁止とは、国会にとっては国民による立法過程への直接介入を防ぐための保護された権利であり、国民にとっては介入禁止の義務である。(国会・権利、国民・義務の関係) しかし、これらの権利と義務はいずれも単独的なものではなく、それぞれの背後には対応する義務と権利が付随している。すなわち、国会の権利の背後には、国会における主権者信託的な立法行為の遵守という義務が張り付いているのであり、この義務拘束は国会にとって命令委任の禁止という権利のいわば条件的裏面である。同様にして、国民への禁止義務の裏側には、国会が立法者としての受託者責任を誠実に履行することを要請する国民の権利が確保されており、ここでも義務と権利は表裏的な関係にある。(国会・義務、国民・権利の関係) そうすると、国会における権利と義務も、国民の側の権利と義務も、両者はそれぞれ不可分の一体的なものとしてありながら、それらの一体的な権利義務関係を媒介して、国民と国会はお互いを二様の権利義務関係において、相互に双務的に拘束しあっているのである。そしてこの二重の権利義務関係そのものもまた、分離不能の一体的な相互拘束関係において結びついている。

したがって国会は、命令委任の禁止という権利の主張だけをいうことはできない。国民はあくまでも、国会が立法行為における受託者義務から逸脱しないことにおいて国会の権利を受け入れ、命令委任の禁止という国民の側の義務に従うのである。“命令委任の禁止”という原則は、国会の信託的立法作用によって、国会と国民との間が相互拘束的な、二重の権利義務関係性において維持されているということの包括的、動態的な関係性において成立するものであり、国会にとってそれだけで単独的に成立する不可浸の権利保障としてあるものではない。その反対に、もし国会が国民に対して負う義務拘束を受容することなく、この義務を履行しないのであれば、そのとき立法権という権限、権力は、主権を超越することになる。勿論そのような事態を国民は承認できないし承認すべきでもない。そして国会の立法行為のあり方が国民の信託を裏切るようなものでないかどうかについての最終判断は、立法権を「国民の厳粛な信託」において授権した国民自身によって下されるべきものであろう。

では以上の議論を前提にして、命令委任を疑われている立法府への国民要請をみるとどうなるか。そうすると、委任命令に対する立法府責任の厳格化という要請行為は、国会の立法行為全般にも及ぶ「国民の厳粛な信託」の成立適否そのものに関わるような立法的要請であるといえよう。なぜなら第一に、この要請は国会による特定の立法行為についていわれていることではなく(命令されていることではなく)、委任命令一般に対する立法府の根本的な立法姿勢、立法責任のあり方に向けられている包括的立法統制への要請(あるいは命令)である。第二に、国会が行政府に制定委任した法律法令に対し、国会がその制定性の審査検討を独自に行うのかどうかということは、主権者である国民にとり、「唯一の立法機関」としての根源的な信託性、あるいは信頼性の存否に関わる問題事項である。それゆえこの国民要請は、国民の国会への信託的関係性を、委任命令の制定状況一般において成立確保させることで、結果として、“命令委任の禁止”という立法原則を国民に受け入れさせるための信託作用的根拠として機能する、というふうにも了解されよう。この統制要請は、議会と国民との間の信託関係状況そのものを保持するために要請されているのであるから、命令委任の禁止という立法府の権限を支えるための要請であるとさえ言い得る。その反対に、この要請が作用することなく、そのために委任命令への立法府的統制が確保されないのであれば、“命令委任の禁止”という立法府の権限そのものが、その権限を支える“国民の厳粛な信託”という土台を失うのである。

とすれば、委任命令への立法府的統制が、LR(y1)/(ω)において十分に制度実現されていない今日、国民が国会に対し、委任命令についての行為規範のさだめを国会法において求めることは、“命令委任の禁止”という原則がそもそも成立し得るような、そのような国民と国会との根源的信託関係を今一度再構築するためにこそ要請される、統治権統制的な主権行為であるともいえよう。この立法要請の目的は、命令委任の禁止という原則そのものをいったん棚上げしたうえで、国会と国民の関係性を法律の制定過程という局面において根底的に見直し、そこに主権的国家統制を回復させることでもあるのだ。
したがってまた、委任命令に対する立法府的統制への要請が、一見したところ、議会に対する介入行為のような行為外観を呈するからといって、この主権的要請をあくまでも命令委任という概念枠組みでとらえるとすれば、そのような把握は、国政に対する国民の厳粛な信託が決して白紙委任ではなく、立法府と主権者国民との間に成立する双務的、相互拘束的な関係性としてあることを理解していないからである。それに、そもそも主権者である国民が、国民代表者議会に対して、国民との信託的関係性を犠牲にしてまで優先されるような立法者権限を、あるいは国民との信託関係を超越するような立法者権力を授権するなどということは、― “命令委任の禁止”を根拠にしてこの主権的立法統制要請を斥けることはまさにそれに該当する ― 国民全体が主権者としての自覚、自己認識を失うことでもない限りあり得るはずもないのである。

“命令委任の禁止”とは、決してその禁止において、立法府による立法過程が主権性によって統制されることがないことを意味するものではない。立法過程のあり方から主権性が排除されることを意味しない。まったく逆である。 国民は、委任命令の制定を含むすべての立法過程が主権的立法原則に基いて統制されていることを知悉し、確認することにおいて命令委任を自粛するのである。その反対に、もし立法府が国民の信託を裏切り、その立法責任の履行を怠ることがあれば、そのように逸脱した議会を国民は受け入れるべきではない。そのとき国民は主権者として、直接的に国会に介入しなくてはならないとさえいうべきである。国民がその状況をどのように確認し、その認識をどのようにして行為外化するか、ということが未だ社会合意されておらず、国民への課題として残されているとしても、その課題の困難さのために主権的統制の必要までもが否定されることは、主権原理そのものに反した解釈であろう。

議会制民主主義は国政を支えるしくみとして尊重されるべきではあるが、すべての社会制度がそうであるように決して完璧な制度ではなく、国民の視点からみて逸脱することはないなどと断言することもできない。憲法前文にいう「国民の厳粛な信託」とは、議会の権威や公正さを擁護する方便や護符に供されてはならないのであり、国民はむしろこの信託という観念を、国政作用に同期させながら、そこにおける動態的な関係状況においてとらえることが求められているのである。命令委任の禁止もこの例外ではない。それが国政の主権者であり、“被治者”でもある国民の国民自身にたいする主権的責務だからである。
繰り返しいうと、もし命令委任の禁止が議会にとってあたかも不可侵の既得権のように主張されるならば、それは、議会のあり方を憲法規範に基く国民との信託関係においてとらえる了解性の視点からみて、受け入れられるものではない。“命令委任からの自由”という権利の背後には、“主権的立法原則の遵守”という義務の履行が不可分の、一体的な付帯条件としてとしてこの権利に張り付いているのであり、国会はこの権利だけを取り上げて、既得権のように言うことはできないのである。

 要請物としての主権
ところでここまで述べてきたことに関して、ある重要な問いが問われていないことを言わなければならない。それは、国会に対する上述の行為規範への主権的要請(委任命令への新たな立法的統制の要請)とは、いかにしてこの要請そのものを、主権的実体行為において根拠付け、主権の名において宣明することができるのであろうか、という問いである。というのも、このような行為規範的要請がひとつの主張として、現行の委任命令の制定状況から導くことができるとしても、そのことと、そのような要請を主権者の名において社会行為化するということとは別のことではないか、ということが考えられるからである。たしかに、ある特定の人間(集団)がある考えを理念としての主権性において訴え、主張することと、ある社会実在的な権力主体が、主権の名においてある実体的な社会作用を遂行することとは、行為範疇においてまったく別異の行為である、ということは明らかであり、前者の行為から後者の行為を直接的に導きだすことはできないであろう。

とすれば上に述べた問いは、ある特定の個人あるいは人間集団の見解を、なんらの留保も条件もなく、直ちに主権者の声を代表しているというふうにみなすことなどできないと了解する限り正当な疑問である。この“国民的要請”が主権者によって発せられているということを主張するのであれば、“それは国民の大多数が認めるところの主権的主体によって言われていなければならず、しかもその主体が主権性を担っているということが、この要請の表明に先立って公共的に社会認知されていなければならない” ― 先立っていなければ要請の公正さを主張できないであろう ― という指摘はもっともであるように思える。ではそのような主体が社会的事実として存在しない場合はどうなるのであろうか。その場合、この主体の不在を理由にして、この要請そのものが成立し得ないことになるのであろうか。この要請の存立根拠までもが根底的に失われてしまうのであろうか。

もしそうなるのであれば、新たな困難が国民自身に突きつけられてくるように思われる。というのも、国会の立法権が主権者である国民によって授権されたものであり、国会は国民の信託を受けて国民のために法律を制定するということについての社会的了解が、国会の成立原理のうちに組み込まれているとすれば、にもかかわらず、国民が国会による立法行為のあり方に対し、もはやいかなる主権的統制作用をも事後的に及ぼすことが許されないという事態は、その事態において、根源的に矛盾した国家原理的状況を生み出しているように考えられるからだ。その場合、ここで出現している国政と国民との関係問題状況について、なんらかの説明が授権者である国民自身によって与えられなければならないであろう。
ただしここにいう“主権的統制”とは、国政選挙(権)を指すものではない。国政選挙は国会のあり方に対する一定の作用力を持つが、― したがって広義の意味において主権的統制であることに相違はないが、― その権能、権限はあくまでも国民の代表を選ぶことに限定されており、国会におけるそれら代表者たちの個別の立法行為や国会活動行為にまでは及ばないからである。
 
はたして国会に立法権を授権した国民は、立法権の授権とともに、主権がもはや個別の国家作用、国家行為に及ぶことは一切許されないことを受け入れなければならないのであろうか。そのような事態さえをも、「国民の厳粛な信託」において是認しなければならないのであろうか。またこのような政治状況が、国民主権の原理に基く議会制民主主義の本来的な姿であるのか。
おそらく私をふくめて多くの者は、このような考え方を支持することはないであろう。なぜならそのような状況は、国民と国会の関係性がもはや信託関係ではなく、白紙委任的な関係に差し替えられてしまっているように思われるからだ。そしてそうなれば国会は、まさに“命令委任の禁止”を根拠にして、国会外部からのいかなる干渉や介入を心配することもなく、国会多数派自身による国家統治、立法行為を開始することが可能となるからである。この場合、国民は国家の主権者であるにもかかわらず、国会の立法行為を実体的に統制することはもはや不可能となり、他方国会はいかなる法律の制定もいかなる委任命令の承認も可能となる。そしてそのようにして制定された法令が、こんどは国民が国会に授権した法権力によって国民を拘束してくるのである。ナチス政権による全権委任法の制定はその極端な例である。

しかし上述の懸念に対しては、“そのような主張も結局のところ主権性についてのひとつの考え、ひとつの立場を述べているに過ぎない”、という批判も予想される。そればかりか、上記のような受けとめ方に対立するより根源的な反論も予想できなくはない。つまり主権者としての国民が議会民主制を採用して、国家の統治権限を国民代表議会に委ねた以上、立法権はあくまでも議会のみに専属するのであり、委任命令についても、これをどう取り扱うかは全面的に議会に委ねられるべきである、という立場からの反論である。そこでは、「国民の厳粛な信託」とは文字通り議会への無条件的な全面委任となるのであり、ひとたび国民が国民の代表者を選んで国会に送り込んだ以上は、命令委任の禁止という原則も一切例外を許すことなく、厳守されるべきこととなるのである。はたしてこのような了解性が、主権原理とどのように整合するのかは甚だ疑問であるが、このような主張もそれが、“国家の主権は国民に存する”という国家原理を共有する限りにおいて、平等の発言権と平等の取り扱いが確保されるべきであろう。

しかしそうなると、ここにおける問題の核心はなにか。一方においては、国会における立法過程のある状況が、主権者の視点からみて立法統制上の疑義を提示しているように了解され、そのような国政状況に対する主権的な統制が加えられねばならないことが主張されている。しかし他方では、国会が有する立法権を絶対的なものとして認め、国家行為に対する主権的統制を一切容認しないような考え方がこれに対抗するのである。では仮に、国民が後者の立場を選択するとした場合、そのとき国民はその選択を主権者の意思として、これを特定の社会的行為のうちに発現し宣明する必要もないのであろうか。というのもその場合には、国会の立法行為のあり方に対しいかなる変更も加えられないであろうことは確かであるからだ。それとも、現に国民が何らの意思表明も具体的な行動も起こしていないという現状のあり様が、すなわち主権的承認の証であるということになるのであろうか。

そうではあるまい。なぜなら、仮に国民がその意思において、現下の立法状況における委任命令の制定様態を全面的に受け入れ是認しているとしても、国民がそれを知ることができるのは、主権者の意思を代位し、体現する何らかの主権的意思機関、意思主体によるほかはないからである。すなわち、仮にそのような状況を、“結果として”国民が容認するとしても、その決定は国政過程の圏外で、主権者の名において熟議判断され、選びとられたものとしてあらねばならず、しかもその選択がこの特定の国家行為的状況に対する国民の個別選択意思としてあることを、国民は知っていなければならない。それゆえ仮に、国民が国民の意思において委任命令に関わる現行の立法状況を選択するのであれば、その場合においても、もう一方の場合と同じように、その選択はなんらかの主権的主体によって選び取られたものでなければならない。そしてそのような選択行為は、決して選挙権の行使に拠っては達成され得ない。

とすれば或る国家行為に対する問いの発信および問いへの回答は、国民が仮にこの統制要請を不要のものとして結果的に斥けるにしても、主権の名において行われねばならないこととなる。つまりこの問いそれ自体が、主権性を担う制度機関を回答者として要請しているのであり、仮にそのような機関が未だ存在していないとしても、だからといってこの要請がなくなるわけではないし、問いかけが無効になるわけでもない。その場合この問いは回答を得ることなく、ただ放置されているだけである。この国が主権原理において成立し、統治されている限りは、主権機関の有無に関わりなく、この問いは問いとしての効力を保持するのである。言い換えるとこの問いは、単に特定の思惟主体においてのみ成立する“政治思想的な問い”ではなく、国政の統治状況が国家の信託的原理に対して投げかける“社会制度上の問い”である。わが国が今日、主権的国政統制機関を未だ所有していないからといって、この社会制度上の問いそのものを否認することは、国政をその根底で制約する主権原理を否定しない限りは社会制度原理的にできないことなのである。国政が国民の厳粛な信託において施行されているという社会事実そのものが、国政状況に同期しつつそのあり方を、信託的関係性の適否、あるいは存否の視点から審判するための主権的機関を国民自身に要請しているのである。註

別の言い方をすると、或る国家作用や国家行為に対し「主権的統制が必要であるかどうか」を問うことと、「“主権的統制が必要であるかどうか”という問いそのものは主権者が判断し決定すべきではないか」、と問うこととはまったく異なる二つの問いであり、問いの深度においても区別しなければならない。或る国家行為に対して主権的統制は必要かもしれないし必要ではないかもしれない。しかしその判断を下せるのは主権者(機関)だけであろう。主権的統制が必要であるかどうかそれ自体は主権的に統制されなければならないのである。 それはもはや国政側の問題ではなく、完全に主権者側の問題だからだ。しかも主権のあり方を定め、方向づけるような根源的主権問題としてあるからだ。

となるとここにおける論点の核心は、国民がある種の国家作用 − たとえば委任命令の統制状況 − に対しどのような主権的判断を選択するのかということ以前に、なによりもまず、ある特定の国家作用や国政状況に対する主権的な状況判断の必要性そのものを誰であれ国民が、その考え方や立場によって選別されることなく訴えることができ、それが主権性に関わる問題として主権者の立場からすくい上げられるような社会制度的状況が確保されているかどうかということではないか。考え方や立場で選別されることなくというのは、ある国政上の問題(事案、事象、状況、行為、審判なんであれ)が、国民にとって看過できないことであるのかどうか、真に主権的疑義といえるのかどうかということについての判断そのものが、その判断をめぐって国民の間で争われる事態となることは十分にあり得るからだ。しかしそのような意見の対立が起こるとしても、そのことは主権者国民が多様な考え方をもつ多様な社会的存在であることの反映に過ぎず、意見の分散性や分裂性を否定的、消極的に受けとめる必要は少しもない。また、主張の対立性のみを根拠にしてある国政上の問題が、主権的問題として取り上げられなくなるべきでもない。

ましてや国民の意見が多様であるからといってそのことが、議院内閣制や選挙制度という特定の統治制度的枠組みのもとで、それら諸制度の今日的制約性、今日的規定性のなかにおいてはじめて成立する“国民代表議会”の判断や立法行為に、国家行為としての絶対的、最終的正当性を与える根拠となるものでは断じてない。仮に、国民代表性があくまでも限定された制度的意味性をもつものでしかないことを謙虚に顧みることなく、その反対に立法政策等の正当性を国民代表性に直接根拠付けようとする議員や政党があるとすれば、そのような主張は傲慢で危険な政治的態度というべきである。(ナチスによる全権委任法を想起せよ) 

主権者としての国民はまさにその意思の多様性において、その意思の多様性を自ら尊重しつつ、国政によるいかなる国家行為をも斥け、これを統制する権限を国民代表議会およびすべての国家機関に対して有するのである。しかしここで最も重要なことはなによりも、ある種の国家作用的問題が主権性において主権にかかわる問題として公共的に取り上げられ、“社会事象化”するということであり、取り上げられた結果どのような判断が選択されるのかは二義的なことである。そして取り上げることそれ自体は、国民の福利や憲法上の原則を擁護する以外に、特定の政治的方向性や結論を前提したり先取りするわけではないのだから、いかなる立場の国民もこれを怖れたり心配する必要はないのだ。しかしいかなる理由であれ、国民が国家作用上の問題を、主権性において主題化し審判することを回避することは、主権の存立性そのものを自らが掘り崩しし、主権者であるということの社会存在的状況を打ち捨てるということである。そしてそれは主権原理そのものの否定である。

いうまでもなくこれが実現されるためには、― 或る国家作用を主権的に統制することについて主権者としての意思を統制すること ― 国民がみずからの主権性において国政状況を常に監視していることができており、その監視体制のもとで、主権者の名において判断を下す必要に迫られているようにみえる事態が起きた時に、適切な手続き過程を踏むことでこれを遅滞なく判断できるような制度体制が用意されていなければなるまい。
これは、もし国民の間から国政のあり方、立法のあり方に対する根源的な疑義が出されたときに、しかもその疑義が単なる政策上の見解の相違にとどまるような内容ではなく、国家作用に対する国民の厳粛な信託をも揺るがすような根源的疑義であるようにみえた場合に、その問題論点を我々が国民自身の前に提示し、論議の俎上に乗せ、結論を先取りすることなく、熟議によって一定の結論にまで導くことは、もはや国政側の仕事でも問題でもなく、主権者としての自己責任において行われなければならないことだからである。

繰り返すとその際に、たとえ国民の間に見解の対立があるとしてもそのことが理由で、主権者の意思において取り上げられるべき問題が、いわば主権的専管問題として認識されなくなるようになってはならない。なぜなら、「国政は国民の厳粛な信託による」と憲法前文がいうとき、国政も国民も単なる観念的なものとして言われているのではなく、実体的なるものとして、意思や判断力を備えた行為作用の主体として言われているはずだからである。仮にそうではなく、この国民が単なる理念的なものに過ぎないとしたら、そのような理念としての国民は一体どのようにして実体的なるものとしての国政を認識し、実体的に統制することができるだろうか。それは不可能である。なぜなら、なんらかの社会的制度のうちに意思主体として実体化されないいかなる意思も、社会的な実効力や作用力を持つことはできないからである。

国家の最高意思としての主権は国民のうちに存するという原理は、国政のあり方にたいして何を意味するのか。それは、国民の意思が単なる意思に留まることなく、国民の厳粛な信託において国政行為のうちに実現化されてゆくことを要請しているということである。それはとりもなおさず、この厳粛な信託を裏切るようないかなる国政状況、国家行為に対しても、主権者国民は自らの主権的意思を具体的、実体的な決意性へと機動的に構成し仕立てあげてゆくことができなければならないということだ。ただしここで注意すべきは、ここにいう国民の意思とは、すくなくともその原義においては、政治的な綱領やいわゆるマニフェストのような具体的な政策目標として成立しているものではなく、そのように了解されてもならない。そのような特定の政策的意思の反射として国政を拘束するものではなく、― 命令委任として拘束するのではなく ― 国政がなんであれ、憲法原則を基盤とする国家の統治原理から逸脱したと考えられたときに、これを軌道修正させるための国政外部的な作用力として、純粋にその否定的、抑止作用的な意思形態においてのみ発現するのである。したがってこの意思がもっぱら否定命令的な言明において表出され、発話されるとしても、そのことを国政側は理解し受け入れなければならない。

そのような“危機的な”状況に際し、主権的意思は国政に対しても、また国民自身に対してもいわば要請されたものとして、“要請物”として現われてくるわけだが、その意思の実現性を不可能とみる必要はない。というのも、憲法前文における“国民の厳粛な信託”という観念、とらえ方そのものが、その概念成立性のうちに、全体的総意としての国民の意思の実現性、実在性をすでに想定し、確保しているのであり、現憲法が国政の信託原理を採択する限りにおいて我々は、もはやその存在可能性を疑う必要はないからだ。もちろんそれは容易な作業ではなく、個別の国政状況において注意深く探求され、あるいは構築されねばならないものとしてあるものであろう。それが特定の国政状況に対する意思として、いかなる統合性や単一者性において成立しうるのかという問題は最も困難な問いであるにちがいない。がそれは、現存在としての国民、今ここにいる国民に課せられた任務として取り組まれるべき作業であり、憲法テクストのなかに回答を求めるようなものではない。と同時に、憲法の中に作業指示が書き込まれていないからといってその作業を回避することは、単に主権者の怠慢にすぎない。主権者の不作為に過ぎない。

その実現過程において立ち現れるであろう困難は、あくまでも乗り越えるべき技術的、方法的困難であり、決して原理的な不可能性として受け取るべきではない。その困難さを根拠にして主権を単なる理念的なもの、抽象観念的なものに押しとどめようとするあらゆる言説は、つまるところ主権を国家作用に対する実体的、実効的、同期的な作用力として受け入れることを拒絶しているのであり、反主権なあるいは主権制限的な立場を主張しているのである。(8)

念のために加えると、「国政は国民の厳粛な信託による」という憲法の前文は、現に行われている国政が国民の信託の反映であり、結果であるということを言うものでは決してない。そのことを言えるのは、実体的な社会制度的存在者としての主権者が、個別の実体的な国家行為としての国政に対して判断を下す時だけである。憲法はあくまでも、分立分権的に行われる国政が、国民の厳粛な信託を裏切ることなく、その枠組みのなかで行われなければならないと言っているだけなのである。

小括
ここで少し立ち止まり、ここまでの議論の流れを概略振り返ってみたい。
本論は法律の委任によって制定された国保保険料の公課規定の定めが、厳格憲法解釈的にみて憲法原則を満たすものではないという前回(「判決を受けて7」)の議論を引き継いでいる。(この議論は、政令の法律附則令としての根拠性を、“行政行為としての法令制定行為”という視点から、制定過程に沿って段階的に抽出される“法律の留保”を検討することで行われた。) その上で本論は、そのような政令・委任命令のあり方が、これを委任した立法府に対して、どのような問題を投げかけているのかを検討することを主眼として始まった。

最初に、立法府における法律制定のあり方が憲法原則によってどのように組織規範拘束されているかを考察し、そこから主権的立法原則要請という概念を導いた。その後憲法における二つの定め、すなわち国会が唯一の立法機関であるという定めと、国会に法律制定を委任することを許すという定めとがどのように論理接続し得るものかについて考えた。そして立法府への立法権の授権を支える国民の厳粛な信託が、まさにこの信託そのものが、主権的立法原則要請によって拘束されているということを憲法テクスト内の意味規定的前後関係から読み取ることで、― 言いかえるとこの信託的授権行為が、立法過程のあり方を包括的に拘束する動態的な制約原理としてもあると解釈することによって、― 立法府が法律の委任を行うことができるとしても、立法府は委任命令のあり方についての立法責任を国民に対して負い続けることを主張した。その負託内容は委任命令の立法府的統制の要請、LR(y1)/(ω)としてまとめられた。主権者は立法府がこの統制を行うことを、主権者の主権的統制権限において立法府に要請できるし、要請できなければならないのである。

次に、視点を議院内閣制における立法過程の実態的な状況へと移し、とりわけ内閣提出法案が委任命令の制定性に対しどのような役割作用を及ぼし得るものかという問題を、議会と行政府の錯綜した力学関係を瞥見しつつ論じた。その結果ここにおいても委任命令に対する立法府の事後的統制の要請という問題が、再び確認されたのである。ただし、内閣提出法案に基く法律の委任が実際には法律の委任ですらないという論点は、委任命令がより厳格に、より注意深く立法統制、そして主権統制されなければならない必要性を喚起した。
ところで委任命令に対する立法府の責任欠落は、単に立法府にとっての問題だけではなく立法権を授権した主権者国民の問題でもある。そこでこの立法府の不作為状況に対し、主権者はどのように対処してゆけばよいのかという問題が取り上げられた。そして立法府の不作為に対する主権的統制の要請は、− 命令委任の禁止という国政原則との照合考察をはさんで − この主権的統制それ自体の適否を判断するための主権的な判断主体の要請という結論に帰着する。すなわちここにおいて、問題局面が大きく転換するのである。

以上の議論は、本件訴訟事件で確認された法律の委任という法行為、およびその結果としての委任命令のあり方が投げかける問題状況を探求するにあたり、立法行為一般の原義的、包括的なあり方を“国民の厳粛な信託”という国政の原理にまで立ち戻って考えることで、そこから当該問題状況の構造性を主権者としての視点から浮かび上がらせようとしたものであった。
ではこれらを踏まえて、こんどは委任命令を含む立法作業をひとつの国家行為として把握した上で、国家機関と国民の関係性が、“国民の厳粛な信託”においてどのように読み取られ、相互作用し関係成立しているのか、そしてそのことが立法のありかたにどのように反映しているのか考えてみたい。これは、法令や立法行為を単純に国家行為の根拠としてとらえるのではなく、反対に法令や立法行為過程そのものを国家行為のひとつとして、主権者の視点からとらえ考えることである。国家行為としての立法の背後で国民の国政への厳粛な信託が、どのような統治戦略的状況によって社会統制されているのか、そのことが国民と国政との間にどのような権力の場、権力としての磁場を形成しているのかを我々は見るであろう。



補足的に
立法の不作為についての考察対象を委任命令に限定せず、立法行為全般に押し広げることは本稿の目的を超えた余計なことである。加えて筆者の知識や能力では間に合わない作業でもある。しかしそうであるとしても、そこには依然として素通りすることのできない立法不作為の問題が見出されるように思われる。しかも単なる立法の問題にとどまらず、戦略状況としての統治権力の分立や、主権にも深く関わる。そこで力の不足を自覚しつつも、その一端に触れておきたい。

ではそれはどのような立法行為にかかわる不作為かというと、いわゆる“設置法”にかかわる立法不作為である。
設置法とは、私の理解するかぎりにおいて次のようなものである。ある行政省(庁)がある特定の行政目的を遂行するためにある組織機関を新たに設け、この省庁に帰属する行政組織機関として導入、設置しようとすることがある。そのような場合には当然ながら、この新組織の法的な基盤根拠を整えておくことが最初に求められてくるので、機関の設立主旨や目的、有する権限など、組織のあり方についての規定を定めた法令規則の制定が必要となってくる。この法令を指して設置法というのである。それでこの法は、○○省設置法などと呼ばれることもあるようである。またこの法案は大体において、そのような附属下部機関を設置しようとする省庁自身によって構想立案され、内閣提出法として制定されることが推測される。

この設置法によって経済産業省のもと、資源エネルギー庁の下部組織として発足した行政機関こそ、2001年に設立され、2012年に廃止された“原子力安全・保安院”である。2011年3月におこった福島原子力発電所事故の際、この保安院が同発電所の安全を確保するための施策の整備や実施過程で果たしてきた専門機関としての機能や役割のあり方、さらには原子力発電事業全体への影響力などが大きな注目を浴びるとともに、厳しい社会批判にさらされたことは今なお記憶に新しい。私の驚いたことに、保安院の最高責任者は深刻な事故状況が刻々と進行するただなかにあっても、メディアの前に姿を現わすことはほとんどなく、国民への説明や語りかけも行わなかったが、そのことは監督省庁である経産省も含めこれら国家機関の対社会的な姿勢、態度を垣間見させる象徴的な対応表現であったように思われた。しかしここで問題にしたいのは事故対応における保安院のあり方そのものではない。問題は設置法である。

ではこの設置法の制定は国民にとって、社会全体にとって何を意味したのか。それは、この法の成立によって原理力発電事業を監視するという重要な任務を負うはずの専門科学技術機関が、原子力行政の外部にではなく、その内部に取りこまれ、事業推進者の意向や政策方針の下に直接コントロールされることとなったといことである。そうすると、本来であれば第三者の立場から、公正厳格な審査や規制措置を講じなければならない監視機関が、その事業を推進する立場にある行政庁に帰属することとなったのだから、この法が制定成立したその段階で、もはやどのような天災があろうとなかろうと、保安院を設置させた立法行為そのものが国家全体に大きな危険や損害をもたらすための制度的下地を用意した、といっても過言ではないのである。だから大震災の発生は、負の制度的下準備をして発電所の罹災を、未曾有の人災へと現前化させた引きがねに過ぎない。当該立法行為における統治機能的な不全と不作為は、大震災の有無に関係なく、この設置法の制定においてすでに完了していたのである。それは立法の不作為という言葉で片付けるにはあまりにも重い、取り返しのつかない国土破壊的な不作為ではあったが。

したがって問われるべき根源的な問いは、なぜこの設置法は認可されたのか、なぜこの法案は厳格に審査され、斥けられなかったのかということである。立法府は自覚していないようであるが、それを考えることは今なお立法府の義務であり、もうすんでしまった過去のはなしではない。
そこでこの原因を考えてみると、第一の理由は、わが国の立法府がそこにおいて、法令を制定するということの根源的な意味を深く考え、検討しなかったからだということではないか。いかなる法律、法令規定であれ、それらが制定される際に最も重要なことは、その法令が制定されることで、どのような社会的な作用や働きがこの社会に実体的にもたらされるか、そのことが社会および国民生活に対してどのような意味をもつのかということであろう。もちろんこのように言えば、多くの政治家はそんなことは当然のことであると答えるであろう。しかし現に彼らはこの設置法が社会にとってどのような意味をもつものであるかを徹底的に考えることはなかったのであり、それについて弁解の余地はないのである。

この場合、国会議員の多くが、大半の国民がそうであるように、原子力発電事業についての高度に専門的な知見や知識を持たないことは、彼らがこの設置法の制定を認可することの理由にも根拠にもまったくならない。それどころか自分たちが専門知識を持たないからこそ、国会は、同じく専門知識を持たない官僚組織にその機関の管理統制を委ねることに疑問を抱き、この機関を経産省から完全に切り離すことの必要性に気付かなければならなかったのである。それこそが、内閣提出法案に対する立法府の根底的な責務であったはずだ。そのことになぜ考え至らなかったのか。そのことを国会は深く反省しなければならない。

しかしながらこのような難詰も実際のところ暖簾に腕押しの域を出ることはないのかもしれない。率直に言って現在の国会はあまりにも知的水準が低く、それほど多くのことは期待できないからである。知的水準が低いというのは、
そうなると問題の本質は、国会がどのように行動するかということではなく、国会をどのように統制するかということではないか。

問題は、個々の議員に自覚があるかどうかということではなく、立法府としての包括的、最終的な国家機能において法の制定行為が ― それが委任命令であれ設置法であれ ― 主権的立法原則に適うものであるかどうかということなのである。

そのことが個々の法令制定のプロセスにおいてどのような内実をともなって実施されているかということである。そして多くの場合、
主権者の視点より見れば、この問題はあまりにも重大であり、
あり方が社会的なプロセスとして、どのような問題を提起しているのか、立法過程における何が問題であったのかということである。私が考える結論を述べよう。
事故が起きてから保安院を批判することは容易であるし、表面的な現象を追いかけているだけでは社会は何も変わらないのである。

さらにはそのような状況が主権者によって統御されていないからである。
しかし起ったことの結果から振り返ってみれば、議会の審査が粗漏で散漫であったなどという弁解で済まされることでは断じてない。

寺田寅彦は、『珈琲哲学序説』という随筆のなかで、「芸術でも、哲学でも、宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときに、初めて現実的の意義があり、価値があるのではないかと思う」と書いたが、我田引水すれば、ここに示された精神的人間諸営為への洞察は、“国家の最高意思”としての主権にも妥当するように思われる。
つまり主権は、“それが主権者である国民の主権者としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときに、初めて理念的、思弁的、抽象的なものから脱して現実的、実体的、具体的の意義と価値を発揮するのではないかと思う。” “顕在的実践的な活動”とは国民が選挙権の行使だけに自己拘束されることなく、自らの意思と判断において個別の国家行為や国家機関を必要に応じて主体的、能動的に統制してゆく活動のことである。またこの必要性への認識判断へと導いてゆく思考活動そのものでもあろう。主権とはこれらの活動の“原動力”に他ならないのである。

主権的被担性ということ
本稿は今日の議院内閣制における法律の制定過程のうちに、立法府による不作為という問題があるのではないかということを委任命令の制定状況を中心にして論じてきたが、この不作為に対しては、国家作用の主権的統制という視点からの考え方を対抗させていった。このことについて最後に触れたい。
立法府の不作為はとりもなおさず、立法権を授権した主権者国民とその受託者である国会との関係性の問題に他ならない。それゆえ、この不作為的状況を許している国民のあり方を顧みずに、立法府側の不作為だけを論ずることは適切ではないだろう。するとここには、国民と国会との関係性の問題とは別に、授権者である国民の自己への責任という問題も見出されるのではないか。言い換えると、国民が国家の主権者であるということは、国民が国家行為を国家機関に委託するに際して、何ごとかを自分自身に対し突きつけているのではないか。

すなわち、立法、行政、司法の三権によって執行されるところの国家行為一般、あるいは政治的なるもの一般に対する国民の基本的な態度あるいは関係性が原則的には「国政への厳粛な信託」という語によって表されるとしても、“そのおかげで国民はさまざまな政治的な意思決定やら行政の問題に煩わされずにすんでいる”というふうにとらえるならば、これほど見当違いの受けとめかたもないであろう。事実はまさにその反対である。それは国民が、国政のあり方、状況に対し一切の責務から解放されていることではなく、主権者であることにおいてさまざまの責務を担わされている、ということである。

たとえば、ある特定の国政状況や国家行為のあり方がなんらかの憲法原理的な疑義を国民に投げかけているような場合においてまで、そのような事態を見る目を信託という観念によって曇らせてはならないであろう。それどころか国民がそのような逸脱的事態の起こり得ることを常に意識の片隅に、一種の防衛的な予想、警戒心として抱いていることは、国家権力の授権者として、またこの国の近現代史を知るものとして、きわめて健全な精神的態度である。
国会も人間が作り上げたさまざまな社会的組織機関のひとつに過ぎず、だから決して完璧な組織ではない。社会に存するあらゆる組織機関は不作為という落ち度に陥る可能性があるのだから、ひとり国会のみが例外者であるとは断じられない。国民の信託を受けた国会が、国民代表としての義務を怠ることなどあろうはずもないと決めつけることはできず、そのような決めつけこそ国政の委任者にとって危ういことである。

国政のあり方全般を国民との緊張的な関係性においてとらえ、それらの行為や作用をあくまでも冷厳に批判的に凝視しすることは、国民が国政を厳粛な信託に委ねていればこそ必要なのであり、その間には逆説も矛盾もない。その反対に国民が信託という観念に浸りきって思考を停止してしまえば、時にさまざまな国家組織を横断しつつ、錯綜した戦略的状況において展開される国家行為を包括的に理解することは極めて困難となるだろう。信託において国政があるという統治の理念的原理は、ある特定の国家作用や国家行為が信託に値するようなものであるかどうか、ということとは別のことだからである。このような政治的なるものに対する批判的精神は、国家権力と国民の基本的関係性についての一般的規定として、個々人の政治的な立場や信条を超えて言い得るものであろう。


とすれば主権は国民に存し、国政は国民の厳粛な信託によって行われているという認識を共有する限り、しかもそれが単なる認識上の事象ではなく、現に国政をそのようにしてあらしめる限りにおいて、国民ある種の行為を自らに引き受けることを担わされているといえよう。国民のこの政治的存在被拘束性のあり方を、“主権的被胆性”と呼ぶことにしよう。主権的被担性とは、“主権者としての国民が、憲法を制定することによって国政の遂行を複数の国家機関に分権的に委任した、そのことに伴って自分自身に引き受けるところの、自分自身に対する
国政を国家機関に委任するすることにおいて何ごとかをわが身に引受け、担わされているということ、またそのようにして担わされている何ごとか”、という意味である。ではこの主権的被胆性において、国民が最も根底的、基底的に自らに担っていることとは何であろうか。
それは我々が主権者として選択できるようなことではなく、主権者であることにおいて背負わされているもの、担わされているものである。
主権者であることの政治的責務として、その労役として担わされているからである。いいかえれば、主権者である国民が国政を国家機関に信託することに伴って発生する、いわば“国民の厳粛な信託”の代価としての責務であり、その責務における拘束性である。

憲法の前文にいう国政への信託とは、あくまでも国政における国家行為、国家作用を対象としていうものである。その信託を国会議員という特定個人や特定政党への信託と等値的に了解することは必ずしも成立せず、憲法の主意適切でもない。であれば国民が選挙によってある政党を政権与党として選んだからといって、そのことはその政党や政党議員による活動を全面的に信任することとして了解されてはならない。たとえ選挙がいかに公正に行われ、その結果が民意を反映するものであったとしてもである。
重要なのは特定の個人や組織機関ではなくて、それらが担う国家行為、国家作用なのである。単に選挙で選ばれたという事実をもって、あたかもすべての立法行為や政策的選択が事前承認されたかのごとく受けとめることは錯誤である。

この主権的被胆性において国民は、ある国家行為に対する主権者としての意思を統一的、統合的に仕立てあげてゆくことを主権者としての責務として自らに負うのである。



  Lrx としての法律の根拠は、決してLryとしての根拠をカバーするものではない以上、そのことの確認を委任者たる議会が行うのは当然でしょう。仮にそのことまでをも信任するというのであれば、そのような信任概念、信任理解はもはや信任概念のあるべき範囲を大きく逸脱しているといわざるを得ません。それは信任ではなく、ただの丸投げです。そして国民は唯一の立法者としての議会がそのようなあり方で内閣を信任することを決して容認はしないはずです。
唯一の立法機関としての国会の役割そのものが実体的に大きく変わってきているということでしょう。その現実を直視することなく、その表看板だけを後生大事にする一方、その実体的な機能が大きく低下して、肝心の立法機関としての役割そのものが機能低下しているのでは困るのです。授権者としのて国民の立場はまったくありません。

なぜこの問いはこれまでとわれることがなったのか、それはおそらくこの問いが、これを問うものと、国家機関との間に
緊張関係を生み出し、その緊張関係が両者を逃げ場のない地点にまで追い込むからではないか。


(1)我が国における立法過程についての、詳細で行き届いた説明、分析、解明については参照、
中島誠 『立法学』 第3版 法律文化社 2014 

国会、内閣そして官僚組織による協働作業として行われる立法作業は、これらの諸機関の
「国会で審議される法案の主流を占めるのは内閣提出法案であり、その作成契機の多くは、政策課題の解決に向けて各省庁がイニシアティブを取ったものである。作成作業も、各省庁の官僚によって、関係方面との折衝を経ながら進められる。また国会提出後も、官僚が、法案の成立に向け、水面下で与野党(議員)への積極的な働きかけ(根回し)を行っている。」
「内閣提出法案は、与党審査で了承を得なければ、国会に提出することが事実上できないこととなっており、その主な舞台となる自民党政務調査会(部会)や総務会が、法案の生殺与奪の権を握っている言っても過言ではない。こうした与党審査は、法令に根拠を持たない事実上のインフォーマルな手続きであり、我が国固有のものである。
与党審査は、内閣が国会の議事運営に関与する公式の権限を有さず、国会運営を与党に依存せざるを得ないことから発達したものであり、国会運営を円滑に行うべく内閣と与党の一体性を確保するためのものである。
しかし、こうした与党審査の仕組は、自民党の政策立案能力の向上に寄与した半面、インフォーマルな場における不透明な意思決定であることから、決定と責任の所在が不透明な政府・与党二元体制、与党・政治家主導を生み出すことになるとともに、いわゆる族議員が部分利益を擁護する利益誘導型の『分配の政治』、先送りの政治という弊害をもたらしており、小泉政権や民主党政権下でその廃止論も唱えられてきた。」
「法案に対する与党の意向は、国会提出前の与党審査の段階で既に法案に反映され、国会提出後も、法案成立に向けた野党との折衝が国会対策委員会間での水面下の折衝に委ねられているように、我が国の立法過程における実質的な意思決定は、国会の外にある非公式な機関において不透明な形で行われており、憲法に定められた国会の内部でのフォーマルな討議および意思決定が形骸化している状況にある。
こうした決定と責任の所在を不明確にする与党審査、国対政治は、単に表面的な事象ではなく、政府・与党二元体制という我が国特有の議院内閣制に対する考え方とそれに基づいた制度の運用に起因する構造的なものであり、その解決には、内閣と与党、内閣と国会の関係を中心とする統治機構のあり方にまで遡った考察が必要となる。」
中島誠 『立法学』 第3版 法律文化社 2014  36−38頁 


(2) 飯尾潤 『日本の統治構造』 中公新書 2007 158頁

(3)
筆者はここで、憲法72条にいう「議案」が法律案を含むという前提で ― 講壇憲法学の通説的了解でもある ― 議院内閣制における立法過程を論じている。これは、内閣が内閣法第5条に基いて「法律案」を提出しているという厳然たる事実を無視することはできないからだ。しかし、この前提は妥当なものであろうか。内閣は本当に法律案を提出することができるのであろうか。憲法72条が【内閣総理大臣の職務】で「内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、」と定めるところを、内閣法第5条が【内閣の代表】で「内閣総理大臣は、内閣を代表して内閣提出の法律案、予算その他の議案を国会に提出し、」と規定していることは、主権者国民として容認しうることであろうか。内閣法は憲法を独断専行的に曲解していないか。恣意的な解釈を施してはいないか。

そもそも、憲法72条にいう「議案」が「法律案」であることがだれにとっても明らかなことであれば(多くの国民の常識や言語感覚において受容されるなら)、内閣法5条が「内閣提出の法律案、予算、その他の議案を国会に提出し、」とあらためて規定する必要もはじめからなかったであろう。それが所与の前提ではなく、立法者の側に、法律案は議案ではないという自覚がにあればこそ、「法律案、予算、その他の議案」と分立規定したのではないか。「いや違う、『法律案、予算、その他の議案』といっているのだから、法律案は議案のうちに含まれる」という反論があるならば、その反論は第一に、この語句を立法者がここで行っているある特定の憲法解釈 ― “議案とは法律案である” ― において解釈しているに過ぎず(解釈の解釈に過ぎず)、第二に、「内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し」と憲法72条が定める以上この反論は根拠を失う。憲法がすでに規定している(と立法者および反論者が主張する)ある定めを法律があらためて規定することなど、必要もないはずだからだ。

ただし、憲法73条5が【内閣の職務】として、「予算を作成して国会に提出すること」を定めているので、内閣法が予算を入れていることについてはどうかということも問われよう。当然この部分もおかしい。繰り返すが、憲法がすでに規定している定めを、なぜ法律が今さらのように規定する必要があるのか。“内閣の予算提出権は、内閣法に拠る”、とでもいいたいのか。笑止である。無意味な立法行為であるだけでなく、憲法の権威を貶める愚行である。議会として失格である。
では、屋上屋を架すがごときこの法令作文の意図はなんであろうか。なぜ必要のない立法を敢えてしたのか。内閣の職務としてすでに憲法規定されている議案と予算の提出を、内閣法5条がわざわざ言及するのは他でもない、「内閣提出の法律案、予算、その他の議案」とひとまとめに羅列することによって(憲法では予算と議案は73条と72条に分かれるから)、ここで新たに加えられた「法律案」という語の唐突的な登場印象をやわらげて、国民に対しあたかもこの提出が、既定の憲法原則の一部であるかのように了解させたかったということではないか。あるいは、議案や予算の提出が憲法で認められているように、法律案を提出することも内閣の正当な権限行為であることを、法において根拠付けたかったからではないか。そうすることで法律案の提出を、あたかも既知の憲法規定のごとく了解させようとしたのではないか。

ところで、この法律条文は日本語の表現として不自然ではないだろうか。「内閣総理大臣は、内閣を代表して内閣提出の法律案、予算その他の議案を国会に提出し、」のなかに、「提出」という語は二回登場する。しかし、「内閣提出の法律案」を「内閣総理大臣」が「提出し」、とは冗語ではないか。なぜ憲法72条のように「内閣を代表して ―  国会に提出し」としないのか。
ここで見過ごしてはならないのは、「内閣提出の法律案」という、一読したところでは単に既定事実を述べているだけにしか見えないこの語句が、実はそうではなく、内閣への授権行為となっているその“構文的からくり”である。というのも内閣が法律案を提出することの法的根拠は、まさに“内閣提出の法律案”というこの法令文言それ自体によって自己準拠的に支えられているに過ぎないからだ。その証拠に憲法は予算や議案の提出については規定しているものの、法律案の提出については一切規定していない。”内閣提出の法律案”という観念は憲法を含めて法制上、内閣法のこの「内閣提出の法律案」において初めて登場するのであり、しかも立法者は憲法72条の「議案」を独自に解釈することで、この新たな内閣組織規範(法律案の提出権)を国民の前に提示しているのである。ただしその“解釈”が、憲法の規範的な枠組みの内部に収まる解釈であるかどうかは決して自明の理ではない。だから繰り返される「提出」の語は実のところ冗語ではない。むしろ高度に“戦略的”な役割を担う言葉である。(“戦略状況としての法的根拠性”のひとつをここで我々は見出すのだ。)

それゆえ、「内閣提出の」という修飾語は、「法律案」と「予算その他の議案」とでは、その意味的な係り方を根元的に異にする。つまり、「内閣提出の法律案、予算その他の議案を国会に提出し」における「法律案」を、「予算その他の議案」と同列に了解することは、憲法の客観的テクストリーディング(文章の読み)において不可能である。なぜなら、内閣法5条が内閣による法案提出行為をあたかも既定事実であるかのように記述しているからといって、これが立法者の解釈行為としてのみ成立していることに変わりはなく、そのことと、憲法72、73条が、議案や予算の提出権を内閣に授権規定している事実とを、すなわち憲法による授権行為とを、同一の規範拘束的強度において了解、受容することなどできようはずもないからである。それだけではない。

こと立法権に関する限り、憲法は第41条をもって定めを完結させており、これとは別に法律案についての規定があるわけではない。とすれば、憲法41条によって「唯一の立法機関」として授権規定された当の国会に、法律案の提出という明らかに立法権に深く関わる行為権限の授権を内閣に行うことができ得るものかどうか、そのような授権行為を行う権限がそもそも国会に存するかどうかは極めて疑わしい。なぜなら、法律案の提出を立法行為過程の一部に位置づけて理解する限り、― それを斥けることができるであろうか ― この授権は立法権それ自体の部分的な移譲行為として解せざるをえないからである。しかしそのような行為をわざわざ法律まで制定して国会自らが行うことは、立法権を授権した憲法制定者の視点からみて、限りなく不適切な”反憲法的行為”であり、厳格憲法解釈的に、あるいは“合憲限定解釈的に”厳しく問われなければならない授権行為であるもといえよう。のみならず、立法者がこの授権を行うために、議案という語から法律案という意味性を引き出し、この語を法律案の語義で解釈したのであれば、そのような解釈行為のあり方も問題となろう。無論、憲法を改正することなく、法律案という新たな言葉、観念を憲法72条に附加することは、立法者に許されることではない。

さて、それではなぜ、内閣法に「法律案」という語は必要とされたのか。内閣の提出する「案」が法律案でもなければならない事情、理由とはどのようなものであろうか。それは一般に、内閣の提出案が法令としての実体的規定性を含むような場合であると言えよう。そしてそう言えばそれで十分である。しかし法律案であることがより一層強く求められる提出状況もあるだろう。
たとえば、“法律の委任”をめぐる法的制定状況がそれである。つまり内閣が、内閣自身の権限、権能において法律の委任を実質的に決定し得る権限回路を確保しておくためには、内閣の提出する「案」が単なる議案ではなく、法律案であることが必要であろう。なぜなら、法律の委任という行為は疑問の余地なく“立法者的法行為”であり、であればこのような法行為を指示したり、提案したりする法文条項は、単なる議案ではあり得ず、「法律案」以外の何者でもないからだ。したがってまた、憲法72条の議案がその字義通りの議案にとどまる限り、内閣は内閣の提出権限において、このような法文条項案を国会に提出することはできない。逆に言えば、もしこのような考えや意図が一切存しないのであれば、内閣法に法律案という語を加える必要も減じていたであろう。(このような条項がないからといって、ただちに法律案とはならないということにはならないが。)

もっとも「法律案」を加えた立法者の動機や目的がなんであれ、内閣法の立法者の視点や意図から、憲法72条の条文解釈が行われるなどということは、本末転倒である。問題はあくまでも、内閣法を憲法原則の視点からどのようにとらえるか、である。優先すべきは、内閣法の視点ではなく、憲法の視点である。

そこで憲法に立ち戻って次のような問いを発してみよう。すなわち、憲法制定者が内閣に「法律案」を提出することを許していたのであれば、制定者はなぜ「議案」と限定的に規定したのか、限定する必要があったのか、と。こう問う理由は、もし制定者が「法律案」を認可していたのであれば、現行の72条の規定は無用の混乱を招くだけのように思われるからだ。制定者が「法律案」という言葉をここで検討さえしなかったとは考えにくいし、単純に注意散漫であったからということはなおの事あり得ない。憲法条文の策定がそのような呆けた作業であるはずはないからである。

とすれば憲法制定者が72条で「法律案」という言葉を使わず、「議案」という言葉のみを採用した措辞の背後に、主権者の意思が発現していることを読みとるべきではないか。すなわち憲法制定者が、内閣をして「議案の提出」という行為圏内に止める規定をしたのは、ともすれば立法府と行政府の間が連続一貫的、協調宥和的な関係性に傾く傾向のある、議院内閣制での立法過程のあり方にくさびを打ち込み、立法行為における役割と権限の分担について、内閣と国会の間に実体的な分権的国家機能が貫かれるべきことを指示しているように了解されるのである。憲法制定者は、憲法72条にいう「議案」という言葉によってこそ、立法過程において果たされるべき内閣の役割、働きを規定しようとしたのではないか。議案であるということの一般的語義性によってである。もっといえば、憲法制定者は、「法律案」という言葉を72条で使用すべきではないと考えたに違いない。であれば「議案」は単に法律案でないばかりではなく、法律案であってはならないと考えるべきではないか。

以上のような主張に対してはたとえば、「仮に内閣が国会に提出する『案』が法律案ではなく議案であるとしても、“法律案の原案”を議案としてとらえることは十分に可能であり、であれば議案で十分である」、という反論があるかもしれない。たしかにここにいう議案は普通一般にいう議案ではなく、多分に法律を意識した議案ではあろう。国会に提出する以上、最終的には法律規定として結実することを目的として提出されるものでもあろう。しかしそれを認めたとしても、議案と法律案は異なる概念であることに変わりはなく、そこには乗り越えることのできない境界があるはずである。事実また、議案という語では包含しきれない意味性を立法者が認識していたからこそ、「法律案」という新たな語が、「議案」の前に加えられたのである。「議案」のままでは内閣の提出する議案文書に一定の制約が課せられることとなり、その制約が受容できないと判断されたからこそ、内閣法の5条が法文作成され、規定されたのである。憲法72条が定める内閣の議案提出権だけを法的根拠として、内閣が法律案を提出することは、法の整備状況において問題があると考えられたからこそ、内閣法5条が必要になってきたのである。「議案」が「法律案」ではないことを、この法律自身が証しているのである。

【議案】とは通常、「会議において討議の対象となる案件」(大辞林)のことである。昨今しばしば耳にする言葉でいうと、“アジェンダ”である。上にも述べたように、 内閣および行政府に帰属する何人も、単なる議案やアジェンダにおいて委任命令への委譲規定を国会に提出することはできない。それは明らかに立法者の権能、立法者の職務領域に踏み込んでいるからだ。そもそも内閣にも、内閣総理大臣にも、ましてや行政官僚にもそのような法的権限は存しない。議案という日常語を我々はそのようなものとして、そのような意味性において理解し、使用しているのであって、憲法の策定者だけがここで、それ以外の特別の語法をしているとか、特殊な意味を付与しているなどと考えなければならない合理的な理由は存在しない。

とはいえ、内閣法5条がどのような意図で制定されたにしても、この条項による法的目論見は、社会事実として見事に達成されたというべきであろう。この成就は憲法学者を含めて我々国民がぼんやりと憲法や法律を読み流してきたからである。しかし議案や法律案はなんら特別の語ではない。これらの言葉を理解するために大学で法律を学ぶ必要はないし、憲法学者をわずらわすにも及ばない。それゆえ、我々が憲法の制定時であれ今日現在であれ、“日常語”としてのこれら二語を正確に理解し、語法において常に截然と使い分け、類義語や同義語のように用いることなどないとするならば、― それとも同義的に使う者がいるのか ― にもかかわらず内閣法が「法律案」という語を勝手に憲法条項に追加することは、“議案という語意の拡大解釈”で片づけられるような問題では断じてない。それは、そのような解釈の帰結として、権力分立の根本原理にも触れてくるような憲法解釈問題を引き起こしているのである。(ただしこの内閣法の“法律案”はほぼ間違いなく、どこかの官僚の手になるものであったに違いなかろうが。)
  
いうまでもなくここでの核心的な論点は、言葉の定義や語法にあるのではなく(勿論それも重要であるが)、 「議案」という言葉の背後で、どのような国家機関によるのどのような国家作用が立法過程をめぐって作用関係しあっているか、作用関係すべきかを、憲法前文および憲法条項に立脚しつつ立体的、構造的に読みとってゆくということである。したがって内閣が法律案という呼称を議案と呼び戻したり、表記し直せばそれですむというはなしでも勿論ない。

そして今日の我々も主権者であることに変わりはないのだから、立法行為をどのように統制するかを考えなければならないのは憲法制定者と変わらないはずであろう。だから議案の非法案的了解という上述の視点について考えることは、たとえ内閣が夥しい法案を提出し続ける現状にあっても意味のないことではない。それは決して過去の過ぎ去ってしまった問題ではなく、現在の我々に突き付けられている問題でもある。そのことを内閣法がすでに制定されてしまっている今考えることは決して意味のないこととは思われない。その際に、憲法72条の「議案」という言葉をどのように読み取り、これをどのように国家行為、国家作用のうちに位置づけるか、ということ自体が単なる認識行為ではなく、主権行為のひとつであるということも忘れてならない。どのように認識するのか、その認識のあり方が主権行使のありかたでもあるからだ。

憲法制定者が72条においてどのような事態を規定しようとしていたのかを考えることは、またそのことを現在の我々がどのように受け取るべきかを考えることは、すでに決着した問題でありもはや今日的な意義を持つものではないとみなすべきではない。それは、今の内閣のあり方、行政庁のあり方を考える上で、国民とこれら機関の関係性を考える上で大きな示唆と指針を与えるものではないか。

最後に、よしんば内閣(総理大臣)に「法律案」の提出権限を授権するという規定を新たに加えるとしても、その改訂行為は内閣法でこそこそと制定されるのではなく、憲法72条の改正によって行わなわれなければならなかったはずである。というのも、国会に憲法制定者の意思を修正するような法令を制定する立法権限は存しないからである。ただしそのような憲法改正は、憲法を構成する根源的な分権的統治構造原理に関わるような改正とも解されるので、そうなると憲法前文にいう、「これに反する一切の憲法」という文言にそれは該当してくるのではなかろうか。いずれにせよ、ここで何か結論めいたことを急いで言うことは控えよう。しかしここには安易にやり過ごしてはならない統治構造の基本に関わる問題が横たわっているのであり、これについて考えることは、一握りの憲法学者や国会議員にとっての課題ではなく、ひろく国民全体に投げかけられた責務である。

それは内閣が、法律案を提出することによって事実上法の枠組みそのものを設定することができるということだ。内閣が法律案を提出するということは、内閣によってある社会制度の基本的枠組みが導入されるということであろう。しかも多くの場合、法律案の構想が内閣を支える官僚機構によって案出されることから、この法の枠組みは事実上、官僚によって構築されるという状況が現出しているのである。


***
今日、わが国を含め高度資本主義国家に普遍的な、― 立法・司法・執政に対する ― 第4種としての行政権による国家基本形成・決定機能の簒奪現象を“行政国家”への趨勢と呼ぶならば、国家計画化こそ、まさにこの行政国家化の中心的動因にほかならない。
行政国家化のルートとしては、(a)行政官僚と政府・与党がゆ着し、後者が前者によって操作されることとなったり、(b)
行政官僚が官僚的団体精神を保持したまま政界に進出したり、といういわば人的・主体的チャンネルと並んで、あるいはさらにその背後に控えるものとして、次のような機能的経路が存在する。
(1) 立法過程における実質的主導権の転移
(a)法律案の作成は今やほとんど行政部に独占されている。かくて、わが国でも諸外国でも、中央省庁はこの意味で基本的に“立法省”である。(b)その法律案の審議・議決の過程でも、行政部による議会操縦が決定的意味をもつ。(c)そして成立した法律の実施段階では、行政部がその解釈運用権を一手に掌握し、具体的・個別的な形で実質上立法機能を営む。わが国でしばしば問題とされる“通達行政”に想到せよ。
(2)行政過程そのものの変質
(a)行政権が、その職権の遂行に際して、他権力(立法権・司法権)の領域へ越境せざるをえなくなる。いわゆる行政立法(“委任立法”)の増大や、行政委員会による準立法的・準司法的権限の引受けなどにそれを見ることができる。(b)行政機構がその固有の範囲内でその内包を拡大し、単なる執行的意味を越えて政治的意義を帯びるにいたる。 最近の許認可事務や行政指導に見られる自由裁量の強化は、その典型的一例であるが、なかんずく財務行政のウエイトの急上昇は注目されなければならない。
(3)重要化する財政機能の行政的引受け
(a) 173

『行政国家の法理』 手塚孝  昭和51年 学陽書房   

このようにみてくると、統治権力の民主的統制とは、畢竟、行政権力の民主的統制というふうにとらえなおすべき問題ではないか、とも思えてくる



ここで、ある人物が伝える“政治家体験談”を紹介したい。寺澤芳男氏は、長らく金融ビジネスの世界で活躍した後に国政の世界に身を投じ、経済企画庁の長官まで務めたが(1994年の羽田内閣)、2011年の11月に日本経済新聞に執筆した「私の履歴書」のなかで、当時の経験を振り返りこう述懐しているのである。

  「定例閣議では各大臣の前に老眼鏡をかけなくても読めるほどの大きな字で『なになに大臣ご発言』が重ねて置いてある。その通りを読みあげればそれですむ。こういうお膳立ては全部事務次官会議で決まっていた。」(24日付け)
  「参議院の任期は1998年7月に満了した。政治への熱意はすでに薄れていた。国会は立法府としての本来の機能を果たすべきだと考えていたが、官僚支配の壁は想像以上に厚かった。議員立法を目指そうにも法律づくりのノウハウは官僚が独占し、議員が聞きにいっても簡単には教えてくれない。無力感にとらわれ、すっかり疲れてもいた。」(25日付け)

内閣法は、「内閣がその職権を行うのは、閣議によるものとする」と定めるが(第4条)、寺澤氏の回顧録を読む限り、その唯一の職権行使の場で内閣を構成する国務大臣は、官僚からまるで操り人形のような扱いを受けているようにさえみえる(「事務次官」は行政官僚機構での最高地位の職名)。 しかも閣議で箸の上げ下ろしまで指図されたうえに、立法という議員本来の職分でも官僚に意地悪をされてままならぬ思いをしたというに至っては言うべき言葉もない。国会議事堂に響く“政治主導”という掛け声のもと、このような実状有様こそ、寺澤氏の筆によってはじめて明るみに引き出された、− そして政治学や憲法学の教科書には決して書かれることのないであろう − 国政の赤裸々な断面図絵ということか。とすれば、議会や内閣が省庁や官僚を統制することなどもはや望むべくもないことのようにも思われる。
もっともこのようなエピソードを過大に受けとめるべきではないという声もあるかもしれない。たしかに国民にとって重要なことは単なる人間関係や閣議室の立ち居振る舞いでは無論ない。問題は、議会と行政部門が法律の制定という国家行為をめぐりどのように相互作用しているのか、力学関係しているのかということである。そして、そうであればこそ、両者の関係状況は、法律や法令の立法状況の問題として主権原理的にとらえ返されなければならない。無論そこにおける関係性が国民の目に晒されることは依然としてまれだろう。しかしその結果は、遅かれ早かれ制定される法令の内に姿を現すことにはなるのである。であれば国民は、主権者として、法令制定のあり方を徹底的に検討することによってえこれを主権的に統制する必要があるだろう。



「民主主義ってのは、制度と運動の統一なんです。完全に制度化されちゃったら、国体みたいになっちゃって、民主化の契機がでてこない、そういう民主主義というのは言語矛盾なんです。他方制度化の面がなければ、これは完全なアナーキーで、これだけのものが制度として蓄積されたという契機がなくなって、毎日が混沌とした状況の連続になってしまう。ところが、伝統的に民主主義を制度としてのみ考える習慣がつよいから、民主主義の擁護なんていうと、議会制度とか、それも既成の習慣によって動かされている制度をまるごと守るように思うから、それはつまらんということになるのは当然だ。実際には権利の擁護で、それは運動によってしか擁護できないものなんですね。」(丸山眞男)
『丸山眞男座談セレクション(上)』  平岩直昭 [編] 岩波現代文庫 2014 369

民主主義制度における「権利の擁護」とは言いかえれば、“主権者である国民の意思の尊重、意思の擁護”でもあり得よう。とすれば主権の擁護も、「議会制度とか、それも既成の習慣によって動かされている制度」によってではなく、主権者である国民の「運動によってしか擁護できないもの」である。その際この運動が、強大な権限を掌握する国家機関に対抗し、これと互角以上に渡り合ってゆくためには、それ自身が「制度化の面」を必要とするといえるのではないか。
運動を個々人における拡散したエネルギーではなく、統合された社会運動エネルギーとしてなんらかの社会制度的な枠組みのうちに取りこんでゆくことが必要なのではないか。ひとつ確実にいえることは、国民がなにも考えず、発言もせず、議会を統制することもなく、ただ傍観者然と眺めているだけで、“議院内閣制”としての議会制度が国民の権利を擁護してくれるなどと考えるのはまったくの幻想である、ということである。

「『被担性』(Getragenheit)」という語は、稲垣足穂の著作を読んでいて知り得た言葉である。耳慣れない語ではあるが、“主権”の被拘束的側面のあり様を適切に伝え、表現する語としてここで用いることとした。 
 「美のはかなさ」より −『稲垣足穂作品集』 新潮社 1970 406    

(7)
この段落全体について説明を補足したい。
まず、立法行為や行政行為、さらには司法審判をも含めて、これらの国家行為一般を根拠づける法的根拠、あるいは法律制定事実としての法的根拠は、単に行為主体の組織規範的側面や、当該法規範の制定手続きだけではなく、その制定内容のあり方そのものが、多面的、複眼的そして憲法原則に基いて分析されなければならない。このような当然のことを言うのは他でもない、国家行為における“法律の根拠”、あるいは“法的根拠としての法律制定性”は、しばしば単独主体的にもたらされたものではなく、複数の国家機関が関わりあうことでそこでの機関相互作用の集大成として複合的、多段階的に構成されており、したがってそれら機関の間に働く相互作用関係の結果としてとらえる視点が重要になってくるからだ。いや単なる結果ではなく、むしろこの作用関係性のあり方においてこそ精査されなければならないものというべきであろう。これは、法の制定や委任、解釈、執行、適用、審判など一連の国家行為に際し、法行為主体が移転するにともない、そこで扱われる法内容のあり方そのものが変化したり新たな規範的意味性を獲得することがあるからだ。法律の根拠がこのようにしていわば錯綜的な状況としてあるということは、この根拠性をどのように確定するかということについて、複数の解釈を許容するということもあるだろう。

法律の委任をめぐるこれまでの検討を援用してこれを例示してみよう。そうすると、ある国家行為がその法的根拠を、ある委任命令(政令)におくとき、この委任命令の制定性を支える根拠としての法的根拠性および法律制定性は、解釈者により下の図式の(ホ)、(ヘ)いずれの場合でもありうる。(無論これ以外の解釈の枠組みもあり得るかもしれない。) というのも、委任命令の法的根拠性(法律の留保)は複合的に規範構築されているものであり、これをどのようにとらえるか、どのような論点において最終根拠性を見出すかは解釈者によって異なることもあるからである。 

 { LE(D)  + LR(x)  →   G }    →   S(a) / LR(y3)     (ホ)
                        ↑ 
                       LR(y1)/(ω)

 { LE(A)  + LR(x)  →   G }    →    S(b) / LR        (ヘ)
 ( LE は法律の委任   LR は法律の留保    G は内閣    S は政令)           

原告の視点よりみれば委任命令の法令根拠性は、それがLR(y1)/(ω)としての作用的根拠性において成立しているとき、または最低限、LR(y1)/(β)において満たされているときはじめて抵抗なく受け入れることができる。つまり“腑に落ちる”。
(ただし現在、このようなことは社会制度的に保障されていない)
これに対し、委任命令における法律の根拠性をもっぱら法律の委任という法行為と、そのようにして内閣(所管行政庁)に授権された委任命令制定権限、およびその権限の裁量的な側面のうちにのみ求めるとき、法律の根拠性は手続き的な比重を増す。政令が根拠規定としての役割を果たしている本件国保裁判訴訟の場合を例として取り上げると、その判決は、保険者荒川区長と被保険者原告との間に平等の保険料規定を実現することが保険者の権限(組織規範)を超えるということを理由にして、原処分(保険料処分)の適理性を認めたのであった。たしかに保険者である荒川区長は、公課規定としての政令に拘束されているのであり、この法令に背いてまで原告が求めるような平等な処分を実施する行政権限は存しない。だからそのことに限って言えば裁判官の言っていることは誤りではない。その権限のあり方も、考慮しなければならない法的根拠性の一つであるからだ。

しかし保険者の権限および原政令の規定性は、いずれも原処分を構成する“法的規範群”のひとつに過ぎない。裁判官のなすべきことは法源に基いてこの法的規範群をもれなく認識することであり、交錯するさまざまな法規範的状況や組織機関の間の関係性を客観的に、しかも特定の組織規範に拘束されることなく縦横に読み解くことである。そのようにしてはじめて裁判官は、原処分の規範的制定性を司法判断するための地点に到達することができるのではないか。
もし裁判官がこの基本作業を怠り、そのような包括的な視点から原処分の審査を行わないのであれば、原告が裁判をおこす意味ははじめからないのである。しかるに本訴訟事件において下された判決は、立法や行政部門からの独立性を保障されているはずの裁判官が、なぜか保険者と同一の組織規範に思考拘束され、保険者の立場に立って司法判断するという、いわば司法の中立性を亡失した思惟状態において導いたものに他ならない。(これらの“国家公務員”がなぜ保険者の組織規範に拘束されてはならないのかを理解できないのであれば、それでも法服を纏う資格は彼らにあるだろうか。)

国民皆保険制度という法源からみれば、裁判官が、保険者の行政権限範囲を根拠事由にすることで、政令による原処分のうちに本来は求められ見出されるべきLR(y1)/(β)あるいはLR(y1)/(ω)としての規範拘束性を審理過程から捨象することは、この法源の主旨、目的そのものを否定することに他ならず、裁判規範のあり方として致命的誤りなのである。法源の主旨さえをも無視するこのような行為はもはや単なる逸脱でもなく、司法の自死といっても過言ではない法の歪曲行為であり、司法理念の放擲である。そのような審判のあり方、そしてそのようにして導かれた原処分の適理性と法的根拠性は、憲法を持ち出すまでもなく、行政事件訴訟法第9条2が規定する法的審理についての指針にも違背している ― ように思われる。いずれにせよ、判決は、政令の課す規範的拘束性のあり方が、法源において根源的に拘束されているというもっとも重要な法的事実を無視しているのだから、これだけでもこの判決が主権者の名において精査されることを求める根拠として十分であろう。

このように見てくると「法律の根拠」とは、すべての解釈者に受容される斉一的な成立性おいてあるものではなく、法律の根拠を判断する判断主体のあり方や、最終的な判断権限の所在に関わる解釈問題でもあるといえる。つまり“解釈権の最終帰着するところはどこにあるのか、あるべきなのか”、についての解釈問題である。そして国家行為の法的根拠性をどのように包括的に最終審判するのか、その公的権限(有権解釈権)は今日、国家機関の側にあると了解されている ― その了解も国家行為である。裁判所は国民の信託において授権された司法権を行使し、その判決に公的な社会的効力をもたせることができるからである。しかし裁判所の有する有権解釈権も、国家原理における国民の信託によって拘束されているのだから、そこまで踏み込んで考えれば、この司法権限によって国民が不可抗力的に最終拘束されているというふうに受け入れることは、国家の主権は国民のうちにあるという原理からみて困難である。それとも、その信託関係状況は一切問われることもなく、この判決文のうちに再び送り返されて、主権者国民を拘束しなければならないということになるのか。

今日、裁判所がその審判を支える法律の根拠を、どのような裁判規範性のあり方において選択し解釈するとしても、それを国民が否定したり斥けることのできるような社会制度的契機は存在しない。それどころか司法の権威は、もはやいかなる国家権力、社会制度的権力も及ぶことはないという点に求められているようにさえみえる。しかしそのような統制主体が制度存在しないからといって、そのことの帰結として司法審判の絶対性が根拠づけられるという考えは、国家の主権原理に矛盾している。なぜなら、その権限はあくまでも国民の厳粛な信託において授権されたものであり、その信託的授権が個別審判そのものの実体的根拠となるわけではないからだ。ではその根拠とはなにか。法律の制定や解釈、適用、審判などの法的行為を国家行為としてとらえたとき、これらの国家行為の最終的な国家原理的根拠性は、それらが法的行為であるということの社会制度的範疇性のうちに求められるべきものではなく、主権者としての国民が、おのおのの国家行為の国家行為としての実体的あり方を包括的、根源的に受容できるかどうかということのうちに見出されるべきことではないか。とすれば我々は、「国政は国民の厳粛な信託によるもの」であるという国家原理に立ち戻り、国家機関による有権解釈権の行使そのものを、それらについての信託性の適否や可否において審判するような主体を、主権原理的審級として社会制度化しなければならないのではないか。
 
ここで冒頭の命題に戻ろう。“国家の主権は国民に存する”という国家原理によって国民は決して国家行為から不当な扱いを甘受することはないということが、主権者の意思において言われ得るものであるならば、そこにいう“不当な扱い”の不当性を最終判断する主体が、主権者国民以外の何者かであることなどあり得るはずもないのである。

次に、ここで“共同体感覚”という多分に曖昧な言葉を使うのは、主権者が国家行為に対する自身の立場や態度を見定めてゆく際に、そこでは法令の制定事実を含め、一切の国家作用的な制約や拘束から自由な立場をどこかに確保しているべきだと考えるからだ。例えば住基ネットとか、マイナンバー制度などのように必ずしも国民の権利や義務に直接的に関わるものではないようにみえる法制度も、 ― したがって、これらの法制度について行政訴訟事件で争うことは困難であろう ― これらの国家行為が投げかける多面的な問題点を主権者としての視点からすくい上げ、それが包含する課題や問題性をめぐって国家機関と対峙することができるためには、国民の素朴な共同体感覚を法理論的な枠組みや政策上の大義に優越する判断の枠組みとして最終確保しておくことが、主権者の思考的な拠りどころとして、また主権者の国家原理的戦略性において重要になってくるからである。もとよりこのことを、国家機関と協議して決める必要などもない。第一、国家行為上のなにをもって国民の権利や義務とみなすのか、それ自体が主権性な問題である。

もとより“共同体感覚”などというつかみどころのない曖昧な概念は、法的言語を多層的に構築することによって国家行為の規範根拠性を確保してゆく国家機関からみれば、国家行為を統制する規範としては認められぬものであろう。しかしそのように考えることそれ自体がすでに、主権が国家行為に完全に統制されているというこではないか。国民はどこまでいっても国家機関と法的に争うよりほかに術はない、という思い込みがそこにはあるのである。しかし主権者としての国民が、そもそも国家機関と法律論争する必要があるのであろうか。主権者としての国民は、最高裁判所の裁判官を罷免する権限を有しているのではなかったか。国民は国家行為に対しどこまでいっても法的に争わなければならないと考えること自体が国家作用による、またさまざまの社会的言説による思考の呪縛ではないのか。そうではなく、制定法の解釈や適用においても、新たな法の制定においても、主権者の視点より見ればそこにおける最終的な根拠は、国民の厳粛な信託ということになるのではないか。繰り返すがそれは法理論な枠組みが重要ではないということでは決してない。しかし法の制定や解釈も、国民の信託に拘束されているのである。

(8)
信託的統治原理を根拠にした主権者の主張、つまり「国政のあり方を主権的に統制するためには、その前提として、国政状況に同期する主権的判断主体が必要である」という主張に対しては、当然ながら制度的、思想的、手続き的等さまざまの困難を理由とする反論が予想される。ここで、そのような主権的判断主体を社会制度機関として構築することの包括的困難さを@、そのような制度機関を設立することへの主権原理的要請の強度をAとすると、両者の力学関係は、
@  >  A  というふうにとらえるのか、それともこれを斥けて、
@  <  A   であると了解するのか、どちらかの選択となるであろう。

そうすると前者では、困難さを理由にして主権的判断機関の構築そのものが断念されているのに対して、後者では必要性の認識が困難さに屈することなく、あくまでも必要性の充足に向けて機関の構築が目指されているのである。そしてこのいずれを選択するのかは、まさに主権者が決定しなければならない問題であるということに疑いはなかろう。それは一方が正解で、他方が誤りであるという正誤問題ではなく、主権者としての国民が主権者としての意思において、決断すべき選択問題である。ただし前者を選んだ場合には、国政への国民の厳粛な信託が、特定の国家作用の是非判断において白紙委任的なものとなることを国民は主権者の意思として受け入れなければならない。なぜなら国民はその場合、国政の受託者である国家機関の権力に無条件的に服従しなければならないことになるからである。そのような選択はしかし、たとえ論理や理屈の上では可能であるとしても、主権者の信条、また心情としての理路において容易ではないであろう。多くの国民にとってその困難さは、むしろ“主権的判断主体を社会制度機関として構築することの包括的困難さ”以上のものではないか。
いずれにせよ、上記の選択問題に回答するというただそれだけのためにせよ、主権的判断主体が要請されていると言えるのであり、とすれば我々は、この要請が引き起こすパラドキシカルな(二律背反的な)拘束状況からついに逃れることはできないのである。なおこの問いそのものを無視することが、そのことにおいて、前者の選択と同一の結果を選ぶことはいうまでもない。


『寺田寅彦全集第3巻』(岩波書店)、および『寺田寅彦随筆第4巻』(岩波文庫)に所収


ある特定の国家作用を分析したり検討する際に採用する根拠および方法手段としての理論的概念枠組みを貫徹して

しかし少し考えてみればわかることだが、法を解釈し適用する権限が最終的に国政側にある限り、国民は国家行為を統制することはできないのである。

つまり継ぎはぎ的な論理の接合によって根拠性が与えられるのではなく、我々ごく普通の国民がある国家作用を社会のなかにおいてとらえた時の、社会全体を一望のもとに見て取った時の判断というものも尊重されてよいのではないか。たとえそれが法的言語としては表現されなくともである。いやそこにこそ法的言語の土台が見出されるべきであろう。

最後に国語学者、大野晋の次の文章を紹介したい。

「感受する力に長じている日本人は古来和歌を愛し、それの発展として俳句を創造した。
 その俳句の特性は、客観的世界を鋭くとらえて短い一句に仕立てるところにある。ここには
 芭蕉が「白し」と表現した句を並べてみましょう。
    あけぼのやしら魚白きこと一寸
    海くれて鴨の声ほのかに白し
    石山の石より白し秋の風
 ここに白魚の客観的描写として「白し」がある。我々はその感覚に同感する。また「鴨の声」
 「秋の風」を「白し」と表現したのは、描写がいわば象徴に至ったもの。これらは世界の一瞬
 を感受して永遠の相に至る造形といえるでしょう。日本人はこのように一瞬の景を自然の底
 にとどく鋭い感受性をもって受け取り、表出することをよしとします。しかしそれはどこまでも
 一瞬の視線による造形であって、世界を一つの組織体として綜合的に見渡すという行き方
 ではない。やはり全体を組織的に見るロゴス的思考は欠いてはならない。
 つまり事実を徹底的に重んじる精神、真実に誠意をもって対する精神を、確実に日本人の
 基底に据えて文明に向き合う必要がある。それは最も基本的に、『物事をじっと見る』こと
 から始まると私は考えています。日本人は『物事をじっと見て』、全体像を組織的に把える
 習慣を欠いている。」
 大野晋 『日本語の教室』 岩波新書 2002 204 

この一文に触発されて、この文意を筆者の文脈に移動して述べてみると、日本人は主権者の立場から、国家行為の根拠としての立法行為を「じっと見る」習慣を持つべきであろう。そればかりではなく、立法行為を国家行為として包括的に「じっと見る」べきであろう。また国会は立法過程の見えるかに努めるべきであろう。
ただし、我が国の統治原理はあくまでも分立分権的な統治機構によって支えられいるのであり、国家行為の最終的なあり方およびその根拠も、それらの相互媒介的な関係構造にその最終的な基盤をおいているのだから、立法行為を「じっと見る」だけでは十分とは言えない。そのことに加え、立法、行政、司法の各機関をひとつの同一平面の上に据え置いて、その全体像を包括的、かつ組織的にとらえる視点が求められてくる。それは、統治原理においては分立分権的に構築された国家諸機関が、その実すぐれて同調的、相補的作用関係において展開してゆくわが国の国政状況の「世界を一つの組織体として綜合的に見渡すという行き方」であり、「全体を組織的に見るロゴス的思考」である。
法律の根拠を含めて、あらゆる国家機関の国家行為、国家作用はそこで、そのときに初めて主権者の立場から一望のもとに見渡される。国家機関同士の組織規範的関係性に拘束されることもなく自由、縦横無尽に主権者の視点からこれを分析するのである。そしれそれこそは主権者としての国民が統治機構を包括的に掌握してゆく第一歩である。





となると国家行為としての委任命令の制定性問題は、その審判における国家作用のあり方を国民がどのように受けとめるのか、そこにおける国民と国家機関の関係性はどのように統制されるべきなのかという問題を避けては最終決着しないことになろう。法的根拠性の問題は、どの主体にその最終権限は帰属すべきかという解釈問題に帰着するのである。


 
 

この一冊 8

ことばのない絵本です。 楽しさいっぱいです。

「Slide」   ディアロデザイン    潟tォルツァ・グラフィコ  2007年
「Swing]   ディアロデザイン    潟tォルツァ・グラフィコ  2008年
 


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