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この訴状を東京地方裁判所提出した際、わたしは裁決取消の訴えのみを用意して、“訴えの追加的併合申立書”は提出しませんでした。追加的併合申立書を出さなかったのは、もちろん選択してそうしたわけではなく、単にそのような提訴の方法手段を知らなかったからです。しかし訴状を提出して1週間くらいたつと、裁判所の事務局から、この申立書を提出するようにとの電話連絡がありました。裁判官が訴状を読んで、そのような指示を出されたとのことでした。
あとになって振り返ると、提出した裁決取消の訴えは原処分の取り消しを求めているために、違法な訴えとなり、したがってこの申立書を提出していなければ、その段階で裁判は終わっていたかもしれません。

わたしはこの裁判の判決には到底納得がゆきませんが、東京地裁裁判官のこのご判断と指示には深く感謝しています。


 判決を受けて 2  「人と人の関係」について



裁判官は、国保保険料が租税処分され、かつ保険者と被保険者が法源と保険給付制度において、実体的に同一の被拘束者でありかつ権利者であるという原告の訴えよりも、各処分の行政決定権がどこにどのように帰属するかという、行政統治上の実態を優先的に考慮しました。
しかし負担格差は二つの公課間の関係性の問題として発生しているのですから、仮に判決が原告の訴えを棄却するとしても、これらを比較することの法的適理性の存否を裁判官が審理回避することは、判決内容の如何によらず、そもそも法的審理として原理的に不可能です。原告が訴える、二つの公課の実体的な事実の均一性を反証することなく、両公課の関係性についての審理回避を社会的、行政的な理由によって合理化することはできません。なぜならば、もろもろの社会的関係がときに格差の合理的な理由となることはあり得ても、格差審理それ自体をを回避する合理的理由となることは決してあり得ないからです。社会的関係によって格差審理を回避するということは、裁判所が訴訟物における事実関係を明らかにし確定するという作業を怠ることであり、これは裁判所が司法審理それ自体から逃避することに他ならないからです。そのようにして下された判決は、司法責任を回避した、名ばかりの空疎な形式的判決にすぎません。

憲法14 条の平等原則とは、人と人が政治的、経済的または社会的関係において差別されないという、人と人の関係性について定めた原則です。(「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」)
裁判官がここで保険者と被保険者の公課の実体的関係性を審理しないということは、平等原則の骨組みをなす、人と人の関係性というとらえかた、関係性についての審理それ自体を斥けることにほかなりません。もちろんここでいう関係性についての審理とは、平等原則の視点から、上述の関係性の有無、様態を予断を排して中立、客観的に審理することです。その審理はこの裁判では、原告が提出した証拠書類等に基づいて、公正、客観的に行われるべきものです。しかしながら判決を読むかぎり、そのような形跡は全く見られません。裁判官は証拠に基づいて、公正にこの審理に向き合うかわりに、これを単なる保険料率をめぐる行政統治上の権限問題によって審理回避し、司法判断回避したのです。しかしながら、繰り返すと、原告は原処分の違法性を、憲法14条の違反として提訴したのですから、いかなる「合理的理由」も、平等原則についての違憲審査から、これら公課の実体的関係性についての審理を排除することはできないのです。
どのような行政統治論的法規定もその内容の如何によらず、人と人の平等原則的な関係構造審理の回避を正当化する法的根拠とはなり得ません。というのはそれは事実上、違憲審査それ自体の回避であり、憲法に保障された裁判権、裁判を受け得る権利を実体的な意味で国民から奪うことだからです。これはしたがってその意味で法解釈をうんぬんする以前の憲法原理的な問題です。

このようにしてこの行政裁判において、人と人の関係性についての審理を他ならぬ、社会的、行政的な理由によって斥けたということは、一体なにを意味するのでしょうか。それは憲法14条が、国民の基本的権利としての平等権を確保するために、「そのようにあってはなりませんよ」と規定したまさにその禁止理由によって、まさにその禁止理由を根拠として、14条原則をその理念ともども根底的に否定することです。人はみな平等に尊重されるという国民の基本権についての訴えを、14条がまさにそれに対して守り保障しようとした当の事象そのもの、つまり社会的関係や行政的関係を理由として審査回避したのです。
これはなんと錯誤とアイロニーに満ちた裁判でしょうか。憲法14条原則を擁護する義務を負う行政庁が平等原則に反する行政処分を行っているという訴えに対して、裁判所は、まさにこの行政庁を主体とするところの社会的関係を理由にして、14条違憲審査それ自体を棚上げしてしまったのです。主権者である国民からみて、ここには一体幾重の憲法離反が折り込まれているのでしょうか。

それゆえこの判決は、憲法14条が拠って立つところの平等の関係性という理念価値のみならず、14条に内在する関係性の思考そのものを、その根底内部から関係切断的に拒絶するものです。なぜなら関係性の思考それ自体を否定することなく、ある特定の法源を共有する人的、制度的な関係構造の包括的法規範審理を斥けることは、原理的に不可能だからです。
このような関係構造の審理を避けることそれ自体が、人と人の関係性についての憲法原則的な規範意識を司法府が原初的に排除している、あるいは恣意的に操作していることの証左です。行政専決権規定によるいかなる「合理的説明」の試みもこの事実を法的に正当化することはできません。そのような思惟においては、違憲審査という司法行為そのものが否定されるだけではなく、法的思考の土台としての憲法規範価値の地平そのものが崩壊、消滅していると言わざるをえません。

ところで裁判に臨んで、わたしは平等原則についてさまざまの学説や考えかたを学びましたが、この過程で知り得た過去のある判例が、原判決とある思想的類似性をもっているのではないかということに思い当りました。これについてふれてみたいと思います。実はこれは日本ではなく、米国で1世紀以上前に行われた裁判なのですが、その内容は次のようなものです。
「法の平等保護」(equal protection of law)を定めた合衆国憲法にもかかわらず、米国社会では1950年代に入って人種差別を違憲とする裁判判決が下るまで、長らく黒人と白人の人種差別は事実上、合法的であるとみなされていました。その根拠となる判例は、19世紀末に鉄道車両における人種差別をめぐって争われたある裁判で出されたのでしたが、当時の米最高裁判所は、人種別に客車を分けることを定めたルイジアナ州の「分離法」を、憲法原則に反するものではないと判じたのです。1896年に下されたこの判決が(プレッシー対ファーガソン裁判)、人種差別を法的に正当化する際に用いた論理とは、どいうものだったでしょうか。それは人種差別を差別として認めることなく、「分離はしているが平等である」(separate but equal)という説明によって、社会における差別的取扱いを正当化するものでした。もちろんこのように差別を分離とみなす認識それ自体が差別そのものであり、欺瞞的思考です。「分離はしているが」という思考は裁判官自身が、黒人と白人の関係を、人と人の関係として分離的、切断的にとらえていることにほかならず、またそのような関係切断的思考なればこそ、差別に対して無自覚でいられたのかもしれません。ところで制度事実関係において国保保険者と被保険者を分離的にとらえる原判決はまさにその分離的思考において、この米判決、人種差別を分離的解釈で正当化した米最高裁判決と、ときわめて類似した思考であるように思われます。

原判決を人種差別裁判と並べて比較することは、大きな心理的な抵抗を伴います。しかし、人種という人間存在そのものの生得的な属性を審理対象とするか、あるいは同一法源の公課処分という社会制度的な事象を媒介するか、という違いはあるものの、いずれの判決趣旨も、訴訟物における人と人の関係性という根源的思考を斥けることによって成立するという点で、思惟の様態において軌を一にするものです。実体的な人と人の関係性よりも、表層的な社会制度を重視するということ、すなわち米判例では、黒人が人として白人と平等に尊重されているか、平等に取り扱われているかという実体問題に正面から向き合うかわりに、黒人と白人のそれぞれに対して、「分離法」がどう規定しているかという法の制定様態を優先考慮しました。原判決では、国保保険者と国保被保険者が実体的に同一法源の制度被拘束者であるという事実、すなわち両者が人として平等の制度的存在者であるという実体事実を審理せずかわりに、公課処分における双務的公平性という原告の訴訟趣旨を、行政統治上の管理的な問題、専管及び専決区分問題とすりかえることによって、平等原則問題として争点措定することを回避したのでした。平等の制度的存在者であるか、についての審理回避それ自体が人と人の関係性という思考の否定であり、その思惟の構造は上述の「分離しているが平等である」という米判決と同工異曲です。(ただし「平等である」と言い切った米判決ほどの決然さは原判決にはありませんが。) いずれにせよ二つの判決に共通しているのは、人と人の関係性の思考を斥けることによって、人種や保険料ではなく、人そのものを差別しているということです。
それゆえ法の観念、法的思考として両判決は相似です。、冷静に客観的にふたつの判決を比較すれば、両者は思惟の核心部において家族的類似性を共有しているのです。おそらくわが国の司法界はこのような類比を受け入れないでしょうが、単なる感情的な反発ではなく、法的思考の理路において反論できるでしょうか。
以上より、本件訴えの視座からみる限り、裁判官の審理姿勢は、憲法14条の全面的な否定であるといわざるを得ません。

判決を受けて 3
                                          2011年5月12日  西秀樹



この一冊 2

この絵本の表と裏の表紙の絵を眺めているだけでも コーヒー1杯分の時間を過ごすことができるでしょう。 作者のKinuko さんは米国で長く活躍されている日本人アーチストのようです。  タイトル“Sleeping Beauty”  K.Y. Craft  2002年刊
    
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